第二十五話 アヴラッシヴ・ウール

 午後の授業を終え。帰り支度をした小熊と礼子は椎のモールトンについていった。

 最初は気が急いている様子の礼子が、椎を自分のハンターカブの後ろに載せ、モールトンの自転車は小熊が担いでいくという案を思いつき、帰路が上り坂の椎もそれに同意しかけたが、礼子がハンターカブ後部のボックスを開け、郵政業務用ボックスの特徴である大荷物用のボックス拡大機能を使って見せたところ、椎は自分が丸ごと入れそうな箱に恐れを成し、自分で自転車を漕いで行くと言い張った。

 

 こないだ椎の家にコーヒーを飲みにいった時と同じように、椎のモールトンに合わせた速度でカブを走らせながら、小熊はこの速度なら今日の冷え込みでもそれほど寒くないと思った。

 早く椎の言う解決策を試し、この寒空の下でカブを限界速度まで走らせたい。いつしか小熊にとって試練や課題だった冬の寒さが、楽しみとは言えないまでもまだ解法の見つからぬ数式のように、貪欲に答えを求めるものになりつつあった。

 礼子も似たような気持ちらしく、上り坂で小さなタイヤのモールトンを必死で走らせる椎を後ろからせっついてる。椎は取って食われそうな勢いでペダルを漕いでいるが、ハンターカブの改造マフラーの音が遠くなると、少し物足りなそうに後ろを見たりしている。

 双方楽しそうで何よりだと思いつつ、小熊はカブのアクセルを回した。ハンターカブを追い抜いて椎のモールトンに並ぶ。

「後ろを気にしすぎ、前にあるものを見落とす」


 最後尾の小熊から見ていても、道路の端を走る椎のモールトンは時々不安定な動きを見せていた。小径タイヤの自転車には危険な排水溝の蓋やアスファルトの盛り上がりでモールトンが跳ね、ヒヤリとさせられらたことも何度か、いずれも後ろを見ている時だった。

 これが礼子とハンターカブだったらなんとなく大丈夫そうだと思って無視していたところだが、人の指ほどの細いパイプを梯子状に組み合わせたモールトンのフレームは、転んでコンクリートの排水溝にでも落ちれば、修理不可能なダメージを負いそうに思えた。椎もそれほど丈夫そうには見えない。

 椎は小熊の助言をおとなしく聞き、視線を前方に集中させながら自転車を漕いでいる。懲りずに後ろから煽っている礼子に関しては、小熊が横から蹴っ飛ばして馬鹿な行為を止めさせた。

 あまり効果が無かったので今度はハンターカブが倒れるほど蹴ってやろうと思ってたところで、イートイン・ベーカリーをしている椎の家に着いた。


 椎の父親は両手を広げて歓迎してくれた。礼子が椎から貰ったイタリアンストライプのクーポンを見せ、またタダ飲みしに来たというと、椎の父はレジ前に置いていたドイツ国旗カラーのコーヒー無料クーポンを小熊と礼子に押し付けてくる。

 前回ここに来た時、椎は自慢のエスプレッソマシンで淹れたコーヒーを出してくれたが、今日はコーヒーを淹れる作業はパパにお任せの様子なので、椎の父がドイツ風の店舗外観とパンには不似合いだけど、ダイナー風のイートインに合わせ、妻の好みに合わせた、色は薄いが香りの濃い浅炒りのアメリカンコーヒーを出してくれた。

 椎は窓際の席を占拠した小熊と礼子に「ちょっと待ってて」と言って店のレジ裏に消えた。そのまま階段を駆け上っていく。

 すぐに戻ってきた椎が持っていたのは、一枚のカーディガンだった。それなりに期待していた小熊の顔が少し険しくなる。

 確かにそれは白地に格子の模様が入ったウールのカーディガンなんだけど、汚れていて手触りも固く、なんだかベタついてて少し臭い。油の飛び交う工場で作業用に着ていたような感じのカーディガンで、ゴミ捨て場に置いている古着だってこれほどひどくない。


 カーディガン状のボロ布を見せられた小熊の横で、礼子が声を上げた。

「これ、アヴラッシヴ・ウールじゃない?」

 指先で恐る恐る摘んでいた小熊の手からカーディガンを奪い取った礼子は、汚いカーディガンを裏返したり触ったりしている。

「凄い!本物を見るのは初めて」

 小熊が礼子に説明を促そうとしたところ、椎の父が替わりに答えてくれた。

「アヴラッシヴ・ウール、羊から刈り取られたまま、最低限の脱脂しかしていないウールだ。ロッキー山脈やカナダの寒冷地で活動するハンターは、このウール以外で作られた防寒インナーを決して信用しない」


 礼子が嬉しそうに体に当てながら言った。

「世界最速のインディアンに乗っていたバート・マンローもそうだったわ!最新素材のレーシングスーツじゃなくニュージーランドのウールを着て塩湖を走ったのよ!」

 なんだか大層なものだということはわかったが、小熊はこのカーディガンを着る気にはなれなかった。臭くて汚くて、何よりバイク乗りっぽくない。

 そう思いながら自分のライディングジャケットを摘んでいた小熊に、椎が言った。

「このカーディガンで、小熊さんのジャケットのライナーを作るんです、切って余った布で礼子ちゃんの手袋も」

 椎が父を振り返って「いいよね?パパ」と言う、椎の父は肩を竦めながら言った。

「買ったっきり何回か着ただけだからな、洗うたびに油を足したり面倒な事も多いけど、着てくれる人が居るなら喜んで譲るよ」

 椎の父が「あんたに着られるかな?」と言ったように聞こえた。

小熊は脂のついたカーディガンを手に取りながら言う。

「これ、貰います」

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