第二話 寒い!

 初めてカブで学校まで行った時はいつだったか、あの時は慣れ親しんだ道が自転車や徒歩より遠く感じた。

 今となってはカブのエンジンや足回り、そして小熊が温まるには足りぬ距離。

 県道がほぼ中間地点で国道二十号線と交差する牧原の交差点で、ここで学校までの一本道を右か左に曲がってどこかに行こうかと思わされるのは、今も変わらない。


 自宅から十分弱の走行の後、旧武川村中心地近くにある高校の駐輪所にカブを乗り入れた小熊は、ひとつ身震いしてカブから降り、いつも通り退屈だけど、空調で暖かいだけ普段より幾らかマシそうな教室に視線を投げた。

 さっさと教室に行こうと思ってカブのキーを抜き、歩き出そうとした小熊の足より先に耳が動いた。聴覚が真っ当に生きている人間が忌避する類の音を感知する。

 重く低い、音量の大きなものが小熊に近づいてくる。真っ赤な原付二種バイクが、タイヤを軽く鳴らしながら小熊のカブの隣に滑り込んできた。

 小熊のクラスメイト。CT一一〇ハンターカブに乗る礼子が、小熊の顔を見て言った。

「寒い!」


 小熊が朝から言わないようにしていた言葉を無遠慮に口にした礼子は、長身を折り曲げてハンターカブから降りる。

 真っ赤なハンターカブは、礼子がほんの数週間前に奇跡的に残っていた新車在庫を買ってすぐ、マフラーを始め各種のパーツが取り替えられていた。

 オフロード用のヘルメットを脱ぎ、流れ出る長い黒髪をかきあげた礼子は、彼女の人目を惹く容姿に少々不似合いな物を持っていた。

 湯気をたてる紙袋に入った中華まん。寝坊の習慣が無く、朝食は家で済ませてくる小熊に対し、高校から小熊のアパートとは逆方向のほぼ等距離にある別荘地で一人暮らししている礼子は、よく途中で買った朝食をハンターカブに乗りながら片手で食べている。


 ウインカーやブレーキ、スロットル等の手で操作する部分が右側に集約し、左手を離したまま操縦できるカブの構造はこのためにあると礼子は強弁していたが、小熊は違うと思う。

 小熊だってスーパーカブが出前持ちが片手でソバを担ぎながら走らせることが出来るように設計されたことぐらいは知っているが、当時とは異なる今の道で、不精や半端な好奇心で危険な片手運転をしようとは思わない。

「来る途中に警察のカブとすれ違ってねー、全然食べられなかった、こんなに寒いのに」

 そう言いながら紙袋を破り、駐輪場から教室まで歩きつつ中華まんを食べている礼子の手から、小熊は食べかけのあんまんを奪い取った。


「あ!ひどい!」

 小熊は和菓子でもあんパンでも無い、あんまん特有の粘っこいあんを味わいながら言う。 

「今日は寒いと言った人から、罰金を取りたい気分」

 礼子は「寒いものは寒いんだから仕方ないじゃない」と言いながら、もう一つあんまんを取り出し、通学路で仲間を狩る側に身をやつした警察カブからは取られずに済んだ罰金を小熊から徴収されることを防ぐべく、しっかり抱えこんで食べている。

 既に朝食を済ませてきた小熊は、あんまんは一つの半分も食べれば充分。二人で昇降口に上がり、小熊はバッシュを脱いで上履きを取り出す、礼子は片手であんまんを食べながら、器用にパラディウムの布製アウトドアシューズを脱いでいる。

 

 礼子とは数ヶ月前、同じカブに乗っているという縁で知り合った。

 当時の小熊は、奨学金暮らしの蓄えをはたいてほぼ新車のスーパーカブを買って間もなく、礼子は改造した郵政カブに乗っていたが、その後、郵政カブを事故で潰し、ハンターカブに買い換えた。

 小熊との関係は、悪友から友の字を抜いたような感じ。


 教室に落ち着いた小熊と礼子。自分の席に落ちついた小熊の前で、礼子はあんまんを食べながら始業チャイムまでの時間を潰している。

「もう冬ねー」

「はい罰金、次は免停」

 礼子に向かって手を伸ばした小熊は、既に礼子が三つ買ったあんまんを平らげ、罰金の支払い能力が無いことに気付いたので、たまにはお国を見習って毟れるものは何でも毟るべく、ブラウスの襟元に付いていた黄金色の葉を指で摘み取った。

 礼子がハンターカブで走っている時に、風と共に貼り付いたらしき銀杏の落ち葉。小熊も秋にカブを走らせていると、この葉っぱと、タイヤで踏むと臭いギンナンの攻撃を食らうことがある。

 紅葉の葉が散るまでは、まだ秋だと言い張る積もりだった小熊は、学校までの通学路で銀杏の木がほぼ丸坊主になっているのを見て、季節と自然に抗うことを諦めた。

「もうわかってる。冬だって」

 萎びて乾ききった秋の最後の名残りをしばらく指で弄んでいた小熊は、持っていても何の役にも立たぬ枯葉を窓の外に放り捨てた。

 空気抵抗によって複雑な落下線を描いていた銀杏の葉を、不意に吹いた木枯らしがどこかに運び去っていった。

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