第六話 カブだけじゃない
ニジマスは小麦粉をまぶしてバターで焼き、刻みアーモンドを乗せたムニエルとなった。
小熊もこんな物を作るのは初めてだったが、礼子から借りたスマホを横に置いて調べながら料理したら何とかなった。
最初は塩焼きとご飯がいいと言っていた礼子も、切り身にしてもなお三〇〇gほどのボリュームのある、焦がしバターの香るムニエルをお気に入りの様子。
杉の木の香るログハウスの室内を、屋外作業用のランプだという白熱灯が照らす中、ニジマスのムニエルと礼子が買い溜めていたライ麦パン、礼子の影響で小熊も飲むようになった無糖の炭酸水の夕食時間を過ごした。
部屋の隅に置かれたスピーカー音量だけは立派なステレオが、FMでバッハの練習曲を流している。
早々に夕食を終えた礼子が、コーヒーを淹れるため席を立つ。小熊もそれなりの満足感を味わいながら、皿に残ったバターをライ麦パンで拭き取って食べていた。
腹の膨れた小熊が椅子の上で体を反らしながら、ランプの灯りに照らされたカブを眺め、礼子がパーコレーターに水道の蛇口を捻ると出てくる南アルプスの水と、荒挽きのコーヒーを入れている、二人の静かな時間に予想外の雑音が混じった。
比喩的表現ではなく、それまでピアノ演奏を流していたステレオが、不快なノイズを発する。
礼子はパーコレーターをガスレンジにかけて火を点けながら「クソっ!」と言った。
小熊は「うるさい」とだけ言って立ち上がり、耳障りな音を消そうとしたが、ゴミ捨て場から拾った物にふさわしい時代物のステレオをしばらく眺めて、それからスイッチは切らずにステレオの前を離れる。
そのままスーパーカブが停めてある部屋の隅まで行った小熊は、作業テーブルの上に置かれた赤いスチール製のボックスを開けながら言う。
「工具借りる。それからこれ、使っていい?」
小熊が指差したのは、これも礼子が拾ってきた古い木製の事務机を流用した作業テーブルの横にある木箱。
中には礼子がスーパーカブや家にある機械製品をいじった時に外した、捨てるでもない使うでもない部品が入っている。
何でこんな物を取っておいているのか、コネクタの千切れた電源ケーブルを選び出した小熊は、工具箱から取り出した電工用のペンチとナイフでケーブルを切り、両端の銅線を露出させる。
それか銅線の端をステレオのアンテナに巻きつけ、もう一方の端を持って、ラジオの雑音が消えて音が綺麗になる方向を探り、その位置にあるアルミの窓枠に洗濯挟みで留めた。
さっきの雑音混じりとは別物の澄んだバッハに、小熊は満足げな表情を浮かべる。コーヒーを沸かし終えた礼子が小熊の横にやってきた。
礼子は小熊がただ繋いで伸ばしただけのケーブルを手に取る、たるんだケーブルをステレオの裏から窓枠まで壁の継ぎ目を這わせ、見苦しくなく邪魔にならないように処理した。
礼子の居るログハウスは、山間部ということもあってラジオの入りが時々悪くなる。そこで小熊はコーヒーが湧くまでの間に、アンテナの延長という単純な処置で改善させた。
小熊はFMラジオの音を明瞭に聞くという機能が果たされるようになったことで良しとしたが、礼子はそれだけでなく、見た目も気にして配線を綺麗に引き直した。
余計なことをすると思ったが、礼子の作業もまた、見てくれだけでなく不意にケーブルを引っ掛けたりしないという機能的理由もあるんだろうと納得する。
礼子がステンレスのカップを取り出し、自分のブラックコーヒーと、小熊の好きな甘いコーヒーを淹れる。小熊はテーブル前の席に戻り、一仕事終えた後のコーヒーを味わった。
時計を見ると、寝るにはまだ早い時間。礼子がノートPCを持ってきた。
「面白い動画がある」
礼子は小熊の横にカブがすり抜けられるくらいの感覚を置いて座り、テーブルの上に足を放り出す不精な格好でPCを起動させる。
「一つはシンガポールで開催されたスーパーカブのレース、もう一つは昔のテレビ番組で、市販されてる色んなグッズが宣伝文句通りなのか実験する企画」
少し考えた小熊は、ディスプレイのアイコンを指差しながら言った。
「実験のほうで」
礼子も見たいものは同じだったらしく、アイコンをクリックして動画を再生させた。
動画は礼子のお勧めというだけあって、小熊にとっても興味深い物だった。数百度の耐熱性を誇るフライトジャケットを実際にバーナーで炙ってみたり、ポータブルナビを持って樹海に入ったり。実験の内容よりそれらの企画に駆りだれている若手芸人のヤケクソっぷりが面白かった。
もう一つの動画、カブのレース映像については、後回しにしようと思いつつ、一本目の動画を見ている間に眠くなったので、結局見ることは無く、礼子は中二階のベッドルーム。小熊はリビングのソファに広げた寝袋に入った。
礼子が「AMも聞けるようにしたいんだけどねー、甲府まで材料買いに行ってループアンテナ自作しようかな」と言うので、小熊はテーブルに置きっぱなしのノートPCを指して「これで聞けばいい」と、物欲の誘惑に釘を刺しておく。
小熊も礼子もスーパーカブに乗っているという事実を共有し、二人とも自分の一番好きな物は何かと聞かれたらカブと答えるんじゃないかと思っているが、だからと言って常にカブを無条件に最優先の選択にしているわけではない。
カブに乗ること、整備することは面白いけど、世の中には他にも色々な面白いことがある。それもまた、カブに乗り始めたことで知ることが出来た。
だから今日の小熊は、自分のスーパーカブの防寒装備について相談や作業をするつもりだったが、結局は料理とラジオと動画を楽しんだだけで、週末の夜を終わりにした。
カブは好きだけど、ただカブに乗るだけのお人形になった覚えは無い。
わたしはカブを祀って拝んでいるわけじゃない。
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