学芸員と作品の魂たち

*4 絵画を寄贈したいのですが



 すべての始まりは1本の電話からだった。


「絵画の寄贈依頼?」


 司は王から言われた言葉を繰り返した。


「うん、そう」


 館長室にある大きな机。それに寄りかかっていた王はこくりと頷いた。


「今朝、美術館に電話があってね。自宅にあるレオナルト・タ・ヴェンチの『学者の肖像』を寄贈したいとのことだ」

「そいつはすごいっすね」

「今週末、13時にこの住所へ冴子君と一緒に行ってくれないかい?」


 司の眉間に濃いしわが寄る。一目で機嫌が悪くなったのが見て取れた。


「なんで小娘まで連れて行かなくちゃならないんすか? 俺1人で十分すよ」

「彼女にもいろいろ経験を積ませてあげないといけないでしょ? 頼んだよ、司君」

「……」


 王の優しい微笑みにこれ以上言い返せなくなった司は、しぶしぶといった様子で頷いた。





◆ ◆ ◆





「大きな家ですね」

「ああ」


 依頼人の家の前までたどり着いた冴子と司は、大きな3階建ての洋館を見上げてぽかんと口を開けた。


 依頼人の名前は佐伯一さえきはじめ。妻や子は居らず、1人でこの大きな洋館に住んでいるらしい。たまにヘルパーがやって来て家のことをしていくそうだ。


 冴子が門の横にあるインターフォンを押す。


『はい、佐伯です』


 年を取った少し掠れた男性の声がインターフォンから聞こえてきた。


「こんにちは。宿木美術館からやって来ました。御石と申します。絵画の寄贈の件でお伺いしました」

『ああ、はいはい。ちょっと待ってくださいね』


 程なくして玄関扉が開き、中から白髪で立派な髭を蓄えたおじいさんが現れた。


「佐伯一さんですか?」


 司は軽くお辞儀をしながら問いかける。


「ええ、そうです。今日はわざわざ足を運んでくださりありがとうございました」

「どうも、宿木美術館の本郷です」


 佐伯は少し腰の曲がった状態で杖をつきながらゆっくりと門のところまでやって来た。しわくちゃになった顔には笑みが浮かんでいて可愛らしい。


「ええ、聞いていますよ。さっそく絵を見ていただけますか?」

「はい」

「よろしくお願いします」


 佐伯の歩くペースに合わせてゆっくりと歩を進める。家の中に入ると吹き抜けの天井が2人を出迎えた。


「わあ、すごいですね」


 冴子の感嘆の声に佐伯はしわを深くて笑う。


「ありがとう。でも、わたし1人には広すぎましてね。もうこの家は売ってしまおうと思っているんです」

「そうなんですか?」


 冴子は少し驚いたような声を上げる。


「使ってあげないと家も衰えてしまいますからね。わたしはここを出て老人ホームでお世話になる予定です。そうすると、絵画が1人ぼっちになってしまうでしょう? 美術館で仲間と一緒に楽しく過ごしてくれればと思いましてね」

「そうだったんですか」

「はい。絵はこちらです」


 佐伯に案内された部屋には絵画が1枚だけ壁に飾られていた。1485年頃にレオナルト・タ・ヴェンチによって描かれた『学者の肖像』である。油彩で描かれた男性は、赤茶色の帽子に黒のシャツを着ている。堀の深い顔には髭が生えていて、癖のある髪が帽子からはみ出しており、手には勉学に使ったと思われる紙きれを持っている。


「失礼します」


 司と冴子は絵の鑑定に入ろうとした。そのとき――。


『出ていけ――――!!』

「!」

「!」


 『学者の肖像』から1人の男が飛び出してきた。絵画に描かれた男性と同じような姿をしている。そしてなにより、その男は宙に浮いていた。


「『学者の肖像』に宿った魂か……」


 司が呟く。司と冴子の前に必死の形相で現れたのは『学者の肖像』に宿った魂であった。『ふーふー』と肩で大きく息をしている。


「どうしたんですか、『学者の肖像』。この方たちはあなたを引き取りに来てくれたんですよ」


 佐伯が『学者の肖像』に優しく語りかける。佐伯も「もの」に宿った魂と交流することができる人間だったようだ。宿木市ではこういう人は珍しくとも何ともない。


『学芸員ってやつだろ? だったら間違いじゃねえ! 出ていけ! 俺はじいさんから離れる気はねえ!』


 顔を真っ赤にして『学者の肖像』は怒鳴り散らす。


「まだそんなことを言っているのですか? お前を連れてはいけないんですよ。1人にさせてしまう前に、美術館に行ってください」

『断る!』

「こんな老い先短いじじいに付いていてどうするんですか。分かってください」


 ほとほと困った様子で、佐伯は『学者の肖像』に語りかける。『学者の肖像』はふいっと顔を背けると、胡坐をかいて腕組をし、動かない姿勢を示した。


「つまり、『学者の肖像』は美術館に来ることを受け入れてはいないということですね」


 成り行きを見守っていた司が静かに問いかける。佐伯は小さくなった体をさらに小さくして申し訳なさそうに言った。


「ええ、そうなんです。わたしと一緒に居ても結局は1人にしてしまうから仲間の下に行きなさいと何度も言っているのですが……。子供のころから一緒に育ったもので、わたしと別れたくないようなのです」

「そこまで作品に愛されてるなんて素敵ですよ」


 冴子がそっと佐伯に語りかける。


「こうやって惜しんでくれるのは嬉しいですし、別れるのは寂しいのですが……老人ホームに持ち込むわけにもいかないですから」

「それは……たしかにそうですね」


 冴子は右手を顎に当てて少し悩む仕草をすると、『学者の肖像』に近寄っていった。


「ねえ、『学者の肖像』。宿木美術館はいいところですよ。綺麗だし館内は湿度だって一定に保つ設備があるんです。とても快適に過ごすことができます。それに、同じレオナルト・タ・ヴェンチの作品とも会えますよ。みんな個性的ですけど、いい方ばかりです。きっと楽しく過ごせます」

『……でも! そこにじじいはいないんだろうが!』

「そうですけど、でも、あなたは絵で、佐伯さんは人間」

「小娘やめろ」

「!」


 冴子の発言を司が静かだが厳しさを含んだ声で止める。


「じいさん、じいさんの行く老人ホームは宿木市内か?」

「ちょっと言葉遣い!」

「ええ……そうですが……」


 冴子の注意を無視すると今度は司が『学者の肖像』に近寄る。


「おい、いいぞ」

『は?』


 訳が分からいとった顔をした『学者の肖像』が司を見る。


「たまになら、じいさんのいる老人ホームに遊びに行っても。宿木市内ならお前も姿を現せるしな」

『ほ、ほんとか?!』

「本郷さん?! 作品の魂が美術館の外に出ることは禁止されていますよ!!」


 冴子の慌てた様子に司は舌打ちする。


「特例つくりゃいいだろうが。納得してねえ奴を無理やり連れて行けるか」

「……!」


 反論できなくなった冴子から佐伯へと視線を移す。


「じいさんも美術館に来るだろう?」

「もちろん、会いに行きますよ」


 佐伯の答えに満足げに頷くと、再び『学者の肖像』と向き合った。


「これならどうだ、『学者の肖像』。じいさんがこれから老人ホームで生きていくように、お前も自分の生きていく環境を整えてじいさんを安心させてやれよ」

「……」


 『学者の肖像』はちらりと佐伯を見る。


『まあ、そういうことなら行ってやらんこともない……』

「よし、決まりだ」

「ありがとうございます」


 佐伯は深々と頭を下げた。





◆ ◆ ◆





 無事寄贈の話がつき、『学者の肖像』の鑑定も済んだ。来たときよりも長くなった影を引き連れて、司と冴子は帰路についていた。


「あなたのこと、少しだけ見直しました」

「ああ?」


 突然話し出した冴子に、司は怪訝そうな顔を向ける。


「私は宿木美術館の良さばかり伝えて、『学者の肖像』の気持ちも佐伯さんの気持ちも考えてあげられませんでした」

「……無理やり連れて行ったところで脱走するのは目に見えてるからな。まだルールを作った方がマシだ」

「そうですね……」


 少し落ち込んだ様子の横顔を見ていた司だったが、ほんの少しだけ目元を和らげるとぽんと冴子の頭を叩いた。


「まあ、次回頑張れよ。小娘」

「……慰めてるつもりですか? ていうか、小娘って言わないで下さい」

「へえへえ、悪かったな小娘」

「本郷さん!!」


 頭を引っぱたこうとした冴子の手は、残念ながら宙を切ったのだった。




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