*18-1 怖い絵がやってきました

 


 この日は長く司が進めてきていた『怖い絵展』という企画がついに通った日だった。今回展示のメインを飾るホール・ドラロッシェの『若き殉教者』という作品を所持するルービュル美術館が貸し出しを渋っていたのだが、それをようやく司が口説き落としたのだ。


「よくやったね。司くん」


 館長の王が司を労う。司は珍しく表情を緩めた。


「ありがとうございます。でも、これからが本番っすよ」

「そうだね。期待しているよ」


 新たな企画展示に司も王も希望に満ちた顔をしていた。実際に作品が運び込まれるまではーー。




 ◆◆◆




 作品の搬入日がやって来た。朝から司は声を張り上げて指示を出している。


「ホール・ドラロッシェの『若き殉教者』、入ります!」

「きたか」


 苦労して許可をもぎ取った作品。結果、展示の交換条件として宿った魂についてレポートを提出するように言われてしまったが、それでもこの作品を飾れることへの喜びの方が大きい。


 厳重な包装がはがされ、美しくも恐ろしい作品が現れた。


 作者ホール・ドラロッシェ。作品名『若き殉教者』。1855年に完成した170.5×148cmの油彩作品。両手を縛られた女が河に投げ込まれている。水の中に美しく浮き上がる女は神秘的にすら感じられる。


 作品に思わず見入る学芸員たちだったが、次の瞬間騒然となった。理由は作品から現れた魂だ。


 なんと、現れた魂は両手両足を縛られ、目隠しに猿轡をされていたのだ。宙へ浮かび上がることなく、床に落ちる魂。


 縛り上げられた魂など見たことのない学芸員たちは慌てて魂に駆け寄る。


「おい、大丈夫か?!」


 誰かが叫ぶと、魂の指先がピクリと動いた。


「本郷さん!」


 冴子が唯一魂に触れることのできる司を呼ぶ。


「分かってる!」


 司は縛られた手足、猿轡を解き、最後に目隠しを取った。


「おい、ゆっくり目を開けろ!」


 『若き殉教者』を抱え上げ、ぺちぺちと頬を叩く。『若き殉教者』は目を開けようとして眩しさに再び目を閉じ、今度は慎重に瞬きをしながら目を開けた。空色の瞳があらわになる。


「大丈夫か?!」


 学芸員たちが『若き殉教者』を覗き込む。『若き殉教者』は学芸員の顔を順に見ると、最後に司を見た。そしてーー。


『チッ』


 舌打ちをした。助けたにも関わらずいきなり舌打ちをされた司は訳も分からず顔をしかめる。その顔に負けないくらい顔をしかめた『若き殉教者』は一言吐き捨てた。


『余計なことしないでよ。縛り上げるのにどれだけ苦労したと思ってるの?』

「は?」


 展示室に静寂が広がった。


「あ、あの。自分で自分を縛ったんですか?」


 恐る恐る静寂を破ったのは、冴子だった。冴子の周りにいた学芸員が「それ言っちゃダメ!」という勢いで冴子を見たが、冴子は気づいていない。


『あぁん? そうだけど何か文句あるの?』


 『若き殉教者』が空色の瞳に殺気を宿して冴子を睨みあげる。


「いえ! ただ意図が分からなくて」

「小娘、あっち行ってろ……」


 怯むことなく尚も質問を続けようとする冴子を司が止める。心得たとばかりに3人の学芸員がそっと冴子を別の場に誘導して行った。


 冴子が居なくなったのを確認すると、司は「だいたい想像つくが」と前置きして『若き殉教者』に問いかけた。


「で? 何か意図があって縛ってたのか? それとも」

『ただの趣味よ』


 『若き殉教者』は司の想像通りの答えを返してきた。


『で? ここはどこなの?』


 司の腕を払い除け、宙へ浮くと『若き殉教者』は周囲を見渡した。ブロンドの長い髪が背中で揺れる。色白を通り越して青白い肌に物憂げなため息はいかにも儚げだが、先程の一件のせいで可憐には見えない。


「宿木美術館だ」


 司もため息混じりに答えると、『若き殉教者』はパッと顔を輝かせた。


『じゃあ、私はあの厳重な管理から解放されたのね!』


 両手を広げてくるりと回ると、緑と青のマダラ模様のワンピースが翻った。


「ここでの管理もしっかりさせてもらうぞ」

『ねぇ! わたしのお願い聞いてちょうだい!』


 司の言葉など右から左。


『わたしを! 水責めにして!!』


 『若き殉教者』から飛び出した想像の斜め上をいく発言に司含め、周りに残っていた学芸員は絶句する。


「はぁ?! 作品に水をかけろってことか?!」


 ようやく復活した司は思わず確認を取ってしまう。しかし、『若き殉教者』は大きなため息をついた。


『そんな甘いものじゃなくて、河でも湯船でもいいからわたしを沈めなさい』

「できるかあ!!」


 『若き殉教者』のぶっ飛んだ発言その2に今度は司含め、周りの学芸員も叫んだ。


『あんた達、学芸員でしょ?! 作品の夢を叶えなさいよ!!』

「作品の保存も学芸員の仕事だ!!」


 一斉に否定されヒステリックを起こした『若き殉教者』に司が反論する。『若き殉教者』は『ぐぬぬ』と唇を噛み締める。


『だったら! 軽くでいいの! 火で炙って!!』


 目に涙を溜めながら訴える『若き殉教者』に司は冷めた目を向けた。


「それもできるわけねえだろ」


 『若き殉教者』は宙で固まる。もし漫画であれば背景に「がーん」と大きく書かれていただろう。


「さあ、準備に戻るぞ」


 手を叩いて先ほどまでの一件をなかったことにし、司は他の学芸員に呼びかける。その声に従い、学芸員たちは静かに持ち場に戻っていった。誰もがこの魂に深く関わりたくないと背中で語っていた。




 ◆◆◆




「待て! 『若き殉教者』!」


 怖い絵展が無事開催されたある日のこと。司は『若き殉教者』と追いかけっこをしていた。


「お前のことを詳しく聞かせろ!」


 そう、あまりに衝撃的な出会いで忘れてしまっていたのだが、司は『若き殉教者』に宿る魂についてレポートをまとめるという契約をルービュル美術館と結んでいたのだ。


 怖い絵展の準備を終え、高揚感を持ちながら眠りにつこうとしたときに思い出した。まさか『若き殉教者』に宿る魂は自分で自分を縛り上げるドM野郎だと書くわけにはいかない。せめて作者に関する情報や時代背景、込められた想いなど何かまともなことを書いて提出しなければ向こうが納得しないだろう。


 作品に宿った魂が具現化する美術館として宿木美術館は世界中で有名だが、一部では非科学的だと否定されている。ルービュル美術館にも信じられないという人間が一定数存在するのだ。そういった人間のためにも魂の情報化は重要になってくる。


 しかし、それをするには魂の協力が必須だ。


『わたしの願いは叶えない癖に、そっちの願いは叶えろって?! 冗談じゃないわよ!』


 『若き殉教者』はそう吐き捨てると、さっさと宙を飛んで姿を消してしまった。司は大きくため息を吐いて、『若き殉教者』の後ろ姿をただ見送るしかなかった。



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