*10 絵画修復士がやってきました




「ここに来るのは何年ぶりかしら……」


 大きな赤いキャリーケースを引いた女が宿木美術館を見上げながら呟いた。

 無骨なサングラス。赤く塗られた唇。銜えられた煙草。ストライプ柄のダークグレーのパンツスーツに高さ10cm程の赤いピンヒールを合わせている。肩甲骨まで伸びた金髪が風に合わせて揺れていた。


「いつまでそんなところに突っ立てるつもりだ? 遠藤さん」

「!」


 遠藤と呼ばれた女は声をかけられた方へ顔を向けた。そこには、仏頂面をした司が立っていた。


「あら、お出迎えはあなただったの。久しぶりね、司」

「ああ。呼びつけて悪かったな」

「いいのよ、『モナ・リサ』の一大事でしょう?」


 煙草を吸う仕草や話し方が妙に色っぽい。

 彼女の名前は遠藤沙織(えんどうさおり)、38歳。職業は絵画修復士。大学卒業後、ヨーロッパの各所を回り実践で修復士としての腕を磨いてきたプロだ。3年前から日本に拠点を構えて活動している。ただし、依頼があれば世界のどこへでも行くアクティブな修復士だ。出身は宿木市で、宿木美術館でも仕事をした経験がある。『モナ・リサ』が盗難に遭い傷を負ったため、司が沙織に修復依頼をしたのだ。


「日本にいてくれて助かった。あんたの腕は確かだしな」

「ちょうど休暇を取っていたのよ。タイミングが良くて良かったわ」


 煙草を携帯灰皿に移し、キャリーケースを引きながら司の下まで足を進める。司の身長は平均的な170cmなのだが、沙織はさらに5cm高いうえにヒールを履いているためかなりの身長差ができた。


「『モナ・リサ』まで案内してくれるかしら?」

「ああ、こっちだ」


 司はキャリーケースを沙織から預かると、美術館へ入っていった。





◆ ◆ ◆





 宿木美術館の作業室。そこに『モナ・リサ』と冴子はいた。絵画の『モナ・リサ』は作業台の上に乗せられている。


『最悪じゃ~~、マジあり得ないのじゃ~~』

「元気出してください、『モナ・リサ』。もうすぐ絵画修復士の方が来てくださいますから」


 盗難事件以来いじけている『モナ・リサ』を、冴子は一生懸命慰める。そこに、1人の魂がふよふよとやって来た。


『『モナ・リサ』様、最近は技術が進んでおります。そう悲観せずともよいのではありませんか?』

「!」

『……『最期の晩餐』ではないか』


 そこには燕尾服を着た老紳士がいた。すっと伸びた背筋に切れ長の瞳、少し白髪の混じった髪が年齢を表している。しかし、最も目を引くのは全身の治療痕の多さだ。額に包帯、右目に眼帯、右手は三角巾で吊り下げられており、左足はギプスで固定されている。燕尾服の黒が包帯の白にかなり浸食されていた。


 彼はレオナルト・タ・ヴェンチの描いた『最期の晩餐』のレプリカに宿った魂だ。『最期の晩餐』はサンタ・マリア・デル・グラティア修道院の食堂の壁画として描かれたものだ。横長のテーブルにノー・キリストを中心として12人の弟子が描かれている。420×910と巨大なもので、宿木美術館ではカフェの壁画として使用している。損傷具合まで忠実に再現されたため、『最期の晩餐』の魂は包帯まみれになっているのだ。


『わたしの本物はそれはそれは大変な目に遭ったそうですよ。食堂の壁画だったために湿気や湯気にさらされ、一部は扉としてカットされ、馬小屋として利用された挙句洪水で浸水。空爆を受けたこともあるそうです』

『うむ……わらわの傷がとてもかわいいものに思えてきたぞ……』


 『モナ・リサ』は若干引きながらそう言った。


『怪我をしたのは気の毒ですが、しっかりと治療を受ければ大丈夫ですよ』

『うむ。すまぬな、『最期の晩餐』。少し元気が出たぞ』

『それはなによりでございます』


 『最期の晩餐』は深々と頭を下げた。元気を取り戻した『モナ・リサ』に冴子もほっと息をつく。そこへ――。


「お邪魔するわよ」


 沙織が優雅に作業室のドアを開けて入ってきた。冴子はすばやく立ち上がり、頭を下げる。


「初めまして。学芸員の御石冴子です。本日はお越しいただきありがとうございます」

「あら、かわいい子ね。そんなにかしこまらなくてもいいのよ?」


 沙織はゆったりと冴子に近づくと、冴子の顎をつまみくいっと引き上げた。


「あ、あの」


 サングラスを額に引き上げると、色っぽい目元が露わになる。顔をどんどん近づけてくる沙織に冴子は真っ赤になって慌てふためく。


「おい、小娘で遊ぶのはやめろ」

「あら、残念」


 あとからやって来た司にストップをかけられた沙織はぱっと手を離した。


「えっと……」


 手を離されても呆然としている冴子に沙織はにっこりと微笑む。


「びっくりさせてごめんなさいね。あんまりかわいかったからつい。絵画修復士の遠藤沙織よ。よろしく」

「あ、はい! よろしくお願いします!!」


 冴子は再び頭を下げた。


『若いやつで遊ぶのは相変わらずよのう、沙織』


 『モナ・リサ』が沙織に声をかける。


「『モナ・リサ』。思ったより元気そうじゃない」

『冴子と『最期の晩餐』に慰めてもらっておったのじゃ』

「そう、よかったわね」

「おい、話は後にしろ。とっとと修復しやがれ」


 のんびり話をする『モナ・リサ』と沙織にじれた司が話を本題に移す。ちなみに沙織は魂が見える・聞こえる・話せるタイプだ。


「分かったわ。そうイライラしないでちょうだい。司、キャリーケースをここに持ってきて」

「ああ」


 司はここまで引いてきたキャリーケースを作業台の近くまで移動させる。沙織はキャリーケースを床に倒すとパカリと広げた。中から大きなケースをいくつも取り出す。


 1つ目の長細いケースには大量の筆が、2つ目の四角いケースには補彩用絵の具が、3つ目のケースには眼鏡型の拡大鏡が、4つ目のケースにはピンセットや綿棒といった小物が大量に入っていた。


 すると――これらの道具からぽんぽんと小人が現れた。


「え?!」


 冴子が驚いて声を上げた。


「ふふ、こうして魂に会うのは久しぶりね」


 沙織は嬉しそうに頬を緩める。


『お話するのは久しぶりですね、マスター』


 眼鏡をかけた真面目そうな小人の青年が沙織に向かって頭を下げる。その動きに合わせるように後ろに並んでいた他の小人たちも頭を下げた。数はざっと50人か。


「この子たちって……」


 冴子が目を丸くして小人たちを見やる。司が沙織の代わりに答えを提示した。


「遠藤さんの道具に宿った魂たちだな」

「すごい数……」


 小人の服装は黒と白に統一されている。1人の大きさは5cm程か。まるでチェスの駒が並んでいるかのようだ。


「会えて嬉しいわ、あなた達」


 沙織が本当に嬉しそうに小人たちに笑いかける。


『光栄です、マスター』

「紹介するわね、学芸員の冴子ちゃんと司よ」

『司様はお久しぶりです。冴子様は初めまして。わたくしは太筆に宿ったものです』


 眼鏡の小人青年は、恭しく司と冴子に向かって頭を下げた。当然のように後ろに居る魂たちも頭を下げる。


『他の者たちも紹介したいのですが、何せ数が多いので……。ご無礼をお許しください』

「とんでもないです! 今日はよろしくお願いします」

「お前ら、よろしく頼む」

『お任せください』


 冴子と司の言葉に太筆に宿った青年は不敵な笑みで答える。


「さあ、皆! 仕事に取り掛かるわよ!」

『はい、マスター!』


 沙織の掛け声に乱れぬ返事をした小人たちはさっと作業台に乗せられた『モナ・リサ』の周囲に集合する。沙織もマスクと手袋を装着した。


「『モナ・リサ』、絵に戻ってくれる?」

『うむ。頼むぞ、沙織』

「全力を尽くすわ」


 『モナ・リサ』は少し緊張した面持ちで絵画の中に入っていく。


「作業の邪魔になる。俺たちは行くぞ」

「はい」

『かしこまりました』


 司は作業室の扉を開けて冴子と『最期の晩餐』を外に出す。2人が出たのを確認すると、司も静かに作業室を後にした。





◆ ◆ ◆





『治ったのじゃーー!!』


 日も暮れたころ、司の下に『モナ・リサ』がご機嫌で飛んできた。


『見よ、司! この通りじゃ!!』

「!」


 『モナ・リサ』は怪我をした指先を司に突きつけた。切り傷があったところはうっすらと線が残っている程度になっていた。


「へえ、すごいな。よく見なきゃ分からねえじゃねえか」

『そうであろう?』


 『モナ・リサ』は笑みをさらに深める。


「これが限界だったわ。確認しておいてくれる?」

「遠藤さん」


 マスクも手袋も外した沙織がそこに立っていた。目元には少し疲労の色が見て取れる。


「お疲れ。助かった」

「ふふ、よかったわ。『モナ・リサ』も元気になって」

「ああ」


 『モナ・リサ』は近くにいた魂たちに指先を見せて回っていた。


「ねえ、司。仕事終わりにどう?」


 沙織が手で酒を飲む仕草をする。


「いいな」

「お酒、少しは強くなったかみてあげる」

「遠藤さんには敵わねえよ」

「冴子ちゃんも誘いましょ」

「……いいが、小娘で遊ぶなよ」

「分かってるわよ」


 仕事を終えた3人は朝まで飲み明かすことになるのだった。



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