*2 学芸員 本郷司―ほんごうつかさー



 視線が低い。誰かに手を引かれて歩いている。上を向くと、手を引いているのは自分の母親だということが分かった。隣には父親と父親に抱っこされた妹がいた。


 ピカピカに輝いているフロア。壁には等間隔に絵画が飾られている。そして、髪の色も年齢も性別も服装もバラバラな人たちがふよふよとそこかしらに。自分と同じようにフロアを歩く人とふよふよと浮いている人、ここには2種類の人間がいた。


 浮いている人たちをぼんやりと見ていると、母親が足を止めた。一緒になって足を止めると、1枚の絵画の前だった。黒い服を着て胸の前で軽く腕を組み、やさしく微笑んでいる女性の絵だ。そして、その絵画の隣に1人の女性がふよふよと浮いていた。色白の肌に切れ長の目、ひゅっと細い顎にピンクの唇がちょこんと乗っている。腰まである艶やかな黒髪が照明の光を浴びて天使の輪っかを作っていた。


「わあ、お姉さん、とっても綺麗だねえ!」


 そう声をかけると、女の人がこちらを向いてうっそりと微笑んだ。


『分かっておるではないか、童』

「握手してくれる?」

『良いぞ』


 差し伸べられた手に自分の手を重ねる。柔らかくてほんのりあたたかかった。


「君!」

「!」


 突然後ろから肩をつかまれる。振り返ってみると、小太りの男性が立っていた。


「いきなりごめんね。君はこの女の人が見えるんだね?触ることもできるのかな?」


 この人はどうしてそんな当たり前のことを聞くのだろうか?そう思いながらひとつ頷くと、男性がとても驚いたような顔をした。


「君は素晴らしい才能を持っているよ。大きくなったら、この美術館に来ないかい?」





◆ ◆ ◆





ピピッ! ピピッ!


 無機質な電子音が鳴る。目覚まし時計だ。

 大きめの手が布団から伸び、乱暴に目覚まし時計を止めた。


「あ――――」


 もぞもぞと布団が動き、中からもじゃもじゃの頭が飛び出す。ベッドに横になったまま「本郷司ほんごうつかさ」は顔をしかめた。


「なんで今更あんな昔の夢を……」


 ひとつ大きなため息をつくと、ベッドから抜け出す。よれたジャージをベッドの上に脱ぎ捨て、昨日の夜アイロンをかけておいたYシャツを羽織りスラックスを履いた。

 洗面所で適当に顔を洗い、歯ブラシを口の中に突っ込む。歯を磨きながら食パンをトースターにセットし、ポットの湯を沸かす。


 1LDKの部屋はほとんどをシングルベッドに占領されている。小さなローテーブルの上には昨日の夕飯だったコンビニ弁当とお茶のペットボトルが放置されていた。端っこに追いやられたノートパソコンが窮屈そうだ。壁際の本棚には美術関連の本が並んでいる。


 「チーン」とトースターが食パンの焼き上がりを知らせた。


 口をすすぐと、マグカップにインスタントコーヒーを淹れポットのお湯を注ぐ。コーヒーを1口飲み、トースターから取り出した食パンをかじった。立ったまま朝食を済ませると、リュックと鍵、ヘルメットを引っ掴み寝癖もそのままに部屋を出た。





◆ ◆ ◆





 バイクの重いエンジン音が響く。宿木美術館の駐車場に到着した司はバイクを降りヘルメットを脱いだ。宿木美術館に視線を向ける。


 白を基調とした外壁は30年の時を経て少し黒ずんでいる。周囲に植えられた木々や花々が風に合わせて揺れる。大きな噴水から水が流れる音が聞こえてきた。


 宿木美術館はルーネッサンス盛期を代表する3人の作品を収蔵している。「レオナルト・タ・ヴェンチ」、「ミキランジェロ・ブワナローティ」、「ラファエル・サンツゥア」の3人である。そして、期間限定の企画展も開催している。今開催しているのは『ムンタの叫び展』だ。館内にはショップやカフェも完備されている。


 関係者出入口までやって来た司は、一度重いため息をついてから戸を開けた。すると――。


『おはよう! 司!』

『やっと来たか』

『今日もいい天気だね、司!』


 次々に声をかけられる。赤や深緑と言った奇抜な髪の色、布を巻きつけたような格好の者いれば今風のファッションを着こなしたものもいる。男も女も老人も子供も揃っている。とにかくすごい数だ。そして、それらの者たちは一様に宙に浮いていた。


「ああ、おはようさん。レオナルト、ミキランジェロ、ラファエルの作品ども」


 司は片手を上げて寄ってきた者たちへの挨拶を返す。


 彼、彼女らはそれぞれの作品に宿った魂が人の形をとったものだ。


『相変わらずそっけない挨拶よのう。司』

「げ……」


 1人の女性が司の傍に寄ってきた。その姿を認めた司は露骨に嫌そうな顔をする。


『なんじゃその顔は。見たくもない顔を見たような顔じゃな』

「よく分かったな、『モナ・リサ』。分かったなら今すぐ消えろ」


 司の前に現れたのは、今朝夢に出てきた女性だった。色白の肌も切れ長の目もピンクの唇も艶やかな黒髪も夢で見たままである。その正体はレオナルト・タ・ヴェンチが描いた『モナ・リサ』に宿った魂だ。


『そう言われるとますますかまいたくなるのぉ』

「くそったれ」


 司は露骨に『モナ・リサ』から視線を外す。しかし、『モナ・リサ』はわざわざ司の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。


『昨夜は随分と盛り上がったのじゃ。お主が将来結婚できるかどうかという話題でな。最後は賭けにまで発展したぞ?』

「下らねえことしやがって……!」


 司は吐き捨てるように言ってみせるが、『モナ・リサ』には全く効果がない。


『ちなみにわらわはできない方に賭けた。しかし安心せえ。1人でも寂しくないよう最期の時はわらわが傍にいてやろう』

「余計なお世話だ。必要ねえ、このババア」

『ババアじゃと?!』


 今まで穏やかだった表情が一変し、『モナ・リサ』の額に血管が浮いた。


『わらわのこの美しさを前にしてババアとはよく言ったものじゃ!』

「うるせえ! 何年前に描かれた絵だと思ってんだ! ババアで十分だ!」


 一瞬にして言い争いが過熱する。


『なんと嘆かわしい! 昔はわらわのことを綺麗といってくれたのに!』

「昔の話をするんじゃねえ!!」


 わざとらしく流れてもいない涙を拭うフリをする『モナ・リサ』に司はますますキレる。


「今日、ガキの頃の夢を見たぜ? てめえと会った時の夢だ!」

『それは良い夢を見たな』


 『モナ・リサ』は鼻で笑いながら司を見下すようにして言った。


「おかげさまで俺の機嫌は最悪だ! てめえに綺麗と言ったのは俺の人生で最大の汚点だからな!」

『そうかそうか! ではわらわはこのことを生涯覚えておくとしよう!』


 『ほーほっほっほ!』と『モナ・リサ』は勝ち誇った顔で高らかに笑う。


「このやろう、燃やしてやろうか!!?」

『やれるのもならやってみよ! 学芸員!』

「くっそ――!!」


 司はギリギリと歯を食いしばった。




 ――この物語は、作品たちに愛された本郷司が学芸員として日々奮闘する様を描いたものである。




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