*12 『ミロンのヴィーナス』がやってきました
『ひまわり展』の企画展示が無事に終了を迎え、館内では次の企画展の準備が行われていた。先ほどから多くの人が美術館を行き来している。今回は『ミロンのヴィーナス展』が開かれるのだ。『ミロンのヴィーナス』に関する資料や作品がすでに展示されている。
「慎重に、慎重に!」
学芸員が声をかけ合いながら、フロアのもっとも目につくところに置かれた作品の梱包材をはがしている。すべての梱包材を取り払うと、そこには堂々たる姿の『ミロンのヴィーナス』が佇んでいた。
高さは203cm。材質は大理石。ギリシャ神話の女神アプロディーテの像と考えられている。頭の後ろで結わえ上げられた髪。美しい上半身は何も身につけておらず、なめらかな背と形のいい乳房を露わにしている。腰から下は布を巻きつけてあるものの、何とも言えぬ色気を発している。ただし、その両腕は肩の辺りからすっかりなくなってしまっていた。
喪失した両腕に関しては多くの芸術家や科学者が復元を試みたが、いまだ成功している者は存在しない。とある作家は、『ミロンのヴィーナス』は両腕が喪失しているからこそ、想像力をかき立てられるのだと説いている。両腕のない女神はその見た目だけでなく、様々な理由で人々を魅了しているのだ。
「今回もすごい作品が来てくださいましたね」
「そうだな」
『ミロンのヴィーナス』の圧巻の姿に、普段はいがみ合うことの多い冴子と司も感嘆の声を上げる。すると――。
『ああ!! もう! 窮屈だった!!』
『ミロンのヴィーナス』からひとりの女性が飛び出してきた。ウエーブのかかった長い銀髪が背中で美しくうねる。切れ長の瞳に長いまつ毛が影を作っており、白い肌に赤い唇が映えた。服装は白のドレスワンピース。フレアのスカートがふわりと広がる。しかし、露わになっていた両腕には包帯がきっちりと巻かれていた。
「きれいな魂……」
美しい姿に冴子は「ほう」と息を吐く。すると、冴子に気づいた『ミロンのヴィーナス』が徐に口を開いた。
『何見てんのよ』
「す、すみません! きれいだったからつい……」
冴子は慌てて謝罪の言葉を口にする。『ミロンのヴィーナス』は『ふん』と鼻を鳴らすと、周囲を見渡した。
『どこなの? ここ?』
「ここは宿木美術館だ。これからしばらくお前はここで預かることになる」
『ふーーん。まあ、どうでもいいわ。あたしのことは放っておいてちょうだい』
『ミロンのヴィーナス』は司の説明に興味なさげに答えると、言いたいことだけ言ってさっさと背を向けた。
「どこ行くんですか?!」
『どこでもいいでしょ』
冴子の呼びかけを無視して、フロアから出て行ってしまう。
「これはまたやっかいな魂が宿ってんな」
司は『ミロンのヴィーナス』が去っていった方を見ながらぽつりと呟いた。
◆ ◆ ◆
『ミロンのヴィーナス』がやってきて1週間が経った。『ミロンのヴィーナス』は周りの魂たちにも学芸員にも心を開かず、常にひとりで過ごしていた。
「このままでいいんでしょうか?」
冴子が珍しく司に声をかけた。
「まあ、美術館のルールは守ってるし問題はないけどな」
「でも、なんだかひとりぼっちで寂しそうです!」
「そうだな。で、お前はどうしたいんだ?」
「え?」
司からの意外な問いかけに冴子は口をぽかんと開けた。
「間抜け面してねえで答えろ」
「――っ! それは! 『ミロンのヴィーナス』にももっと笑っていて欲しいです!」
冴子はムッとして半分怒鳴るようにして言った。
「だったら、そうなるように動いてみろよ」
「!」
「なんだ、できないか?」
司は挑発するような笑顔を浮かべて冴子を見下ろす。冴子は反射的に答えていた。
「やれますよ! 私が『ミロンのヴィーナス』を笑顔にしてみせます!」
◆ ◆ ◆
翌日から冴子は積極的に『ミロンのヴィーナス』に話しかけた。最初はシカトされ続けていたが、冴子のあまりのしつこさに『ミロンのヴィーナス』は仕方なく相手をするようになっていった。
「『ミロンのヴィーナス』、なにか私に出来ることはないですか?」
『少し暑いわ。空調を調整してくれないかしら』
「分かりました!」
冴子は空調をチェックしに走り出した。
「『ミロンのヴィーナス』、なにか私に出来ることはないですか?」
『湿気が気になるわ。湿度計を見てきてくれないかしら』
「分かりました」
冴子は湿度計をチェックしに歩き出した。
「『ミロンのヴィーナス』、なにか私に出来ることはないですか?」
『そうね。鬱陶しいから消えてくれないかしら』
「……分かりました」
冴子は下を向いてとぼとぼと歩き出した。
◆ ◆ ◆
「はあぁああ」
冴子は大きなため息をついて事務室の机に突っ伏した。その背中には何やら黒くて重いものが圧し掛かっている。漫画なら背景に「ズゥ――ン」とでも書かれていそうだ。
「なにやってんだ、小娘」
「本郷さん……」
冴子は突っ伏したままちらりと横目で司を見ると、生気のない声で名前を呼んだ。
「『ミロンのヴィーナス』とうまくいってないのか?」
「……無視はされなくなりましたが、なんだかんだ言って追い払われます」
「ざまあ」
「……」
鼻で笑った司に普段なら言い返すところだったが、冴子は黙って机とお友達になってしまった。らしからぬ様子にさすがの司も笑いを引っ込める。
「小娘」
「……」
「お前、『ミロンのヴィーナス』のことをちゃんと知ろうとしたか? なんであいつが頑なになってるかを追求しないと、心を開いてくれるわけないだろうが」
冴子は勢いよく顔を上げると、キッと司を睨んだ。その瞳にはわずかに涙が滲んでいる。
「それくらい……! 分かってますよ……!」
「そうか」
司はそれだけ言うと、さっさと自分の仕事に戻っていった。その背中をしばし見つめていた冴子だったが、なにかを決心するように立ち上がった。
◆ ◆ ◆
「『ミロンのヴィーナス』!」
冴子の鋭い声に『ミロンのヴィーナス』が振り返る。ここは美術館の敷地の花壇スペースだ。きれいに咲いた花が風に合わせて揺れている。『ミロンのヴィーナス』と冴子以外、誰もいなかった。
『本当にしつこいわね。まだ懲りてないの?』
「あなたこそ、何から逃げているんですか?」
『なんですって?』
『ミロンのヴィーナス』の柳眉が寄せられる。その瞳に剣呑な色が浮かんだ。
「壁を作って、誰からも干渉されないようにこんなところでひとりになって。なにが気に入らないんですか?」
『ミロンのヴィーナス』の周りに怒りのオーラが立ち昇る。冴子はそれに気づきながらも追及をやめない。
「そんなことをしていったい何になるんですか? 状況は何も変わらないでしょう?」
『……さいわよ』
『ミロンのヴィーナス』が低い声で唸る。
「逃げてるだけじゃなんの解決にもなりませんよ」
『うるさいって言ってるでしょ!!』
『ミロンのヴィーナス』が叫ぶ。髪を振り乱して、頭を抱える。
『ごちゃごちゃと分かったような口を! どうせあなたが知りたいのはなくなった両腕のことでしょ?!』
「……え?」
『あたしを懐柔して両腕のことを聞き出すつもりでしょ! どんな格好をしていたか分かれば大発見だものね! こっちは両腕なくなってショック受けてるっていうのに盛り上がって気分が悪いわ!』
『はあはあ』と肩で大きく息をする『ミロンのヴィーナス』を冴子は驚きの表情で見つめる。想像もしていなかった内容に思考が追い付かない。しばらく両者の間に沈黙が流れた。
沈黙を破ったのは冴子だった。
「なくなった両腕のこと、気にされていたんですね」
『……』
「たしかに学者や芸術家の方々は、あなたが本来どんな姿をしていたのか解き明かそうとしていますもんね」
『ミロンのヴィーナス』は冴子から視線をそらす。言うつもりのないことを言ってしまったせいか、少し気まずそうだ。
「私は、なくなった両腕のことを聞き出そうとは思っていませんよ。それを発表する気もありません」
『……嘘よ』
「本当です。私はただ、あなたに笑っていて欲しいだけなんです。どうすればあなたは笑ってくれますか?」
冴子はそっと『ミロンのヴィーナス』に歩み寄る。『ミロンのヴィーナス』は何も言わず、ただ地面を見つめ続ける。
「教えて下さい。私は、あなたと仲良くなりたいんです」
『……本当に発表しないの?』
「はい」
『ミロンのヴィーナス』はようやく顔を上げた。探るような表情で冴子を見る。冴子は優しく微笑んでみせた。しばしの沈黙の後、『ミロンのヴィーナス』は小さな声で話し出した。
『……忘れてしまいそうで……怖いのよ』
冴子は話を促すようにわずかに頷く。
『あたしが、本当はどんな姿だったのか……。みんな好き勝手に想像して、頭がおかしくなりそうだわ。かと言って、教えてやるのもムカつくし』
『ミロンのヴィーナス』は空を見上げた。包帯に包まれた両腕を広げて風を受け止める。
『でも、あたしまで本来の姿を忘れてしまったら……あたしを生み出してくれた人に申し訳がなくて……どうすればいいのか、分からないの……』
冴子は『ミロンのヴィーナス』の言葉をゆっくりと自分の中に落とし込んでいった。そして、真っ直ぐに『ミロンのヴィーナス』を見つめ、口を開く。
「なら、私が覚えておきます」
『はぁ?』
『ミロンのヴィーナス』は視線を冴子に戻し、意味が分からないという顔をした。
「私も、あなたの本来の姿を記憶し続けます。あなたが分からなくなっても私が覚えています。もちろん他言はしません。あなたの不安を少しでも減らしたいんです」
『あなた……どうしてそんなに必死なの?』
思わずといった様子で『ミロンのヴィーナス』が問いかける。
「私に出来ることは何でもしたいんです。私は学芸員だから。作品に幸せでいて欲しいんです」
『……』
『ミロンのヴィーナス』は静かに両腕を動かした。それは、今現在誰もが知りたいと思いながら、知ることができなかった『ミロンのヴィーナス』の本来の姿だった。
冴子はただひとりその姿を目に焼き付けるのだった。
◆ ◆ ◆
『冴子。日向ぼっこへ行くつもりなのだけど、付き合わない?』
「ご一緒します」
それからしばらくして、『ミロンのヴィーナス』と冴子が穏やかに笑い合いながら一緒に歩く姿をよく見かけるようになった。司はそんなふたりを見ながらそっと笑う。
「やればできるじゃねえか、小娘」
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