第6話:胡弓の調べ

 その晩はみさきも交えて夕食ということになった。


 常一じょういちが作るのは得意料理。鳥のササミ、こんにゃく、しいたけの炒め物だ。フライパンを振っていると、ごま油の香ばしい匂いが鼻孔を刺激する。しょうゆ、酒、そしてシャンタンで味を整え、豆板醤トウバンジャン甜麺醤テンメンジャンを適量、垂らす。仕上げにチューブに入ったショウガとニンニクを加えればでき上がりだ。


「できたぞ」


 盛りつけて、常一はテーブルに皿を運ぶ。すでにテーブルでは円理えんりがサラダを三人分、取り分けていた。


 テレビでは怪奇番組が流れている。二、三年前、仙台の街を騒がせた殺人鬼について、様々なうわさを語り合っている。本当のようで嘘のような。この手の事件は尾ひれがつく傾向にある。岬も円理も信じていないようだ。夏の風物詩として流しているのだろう。


『グールメイジ』


 マスコミは一連の殺人事件の犯人をそう名づけた。グールとは、若い女性を殺して、その肉を食い漁るところから。メイジとは、大胆な犯行を続け、警察に手がかりを与えなかったところから。

 常一が大学生だった頃、街はその話題で持ちきりだった。しかし、グールメイジは仙台を去ってしまったのか、ぷつりと犯行は止んだ。


 岬がその話題を振ってくる。


「ねえ、ジョー君。懐かしい事件をやってるわよ」

「ああ、そうだな」と常一。

「この事件、結局、未解決なのよね。犯人の手がかりはほとんどなし。凶器がナイフらしき刃物ってことくらいかしら」


 常一と岬が共通の話題を持つのが面白くないのか、円理が口を挟んでくる。


「この町でも未解決の事件が続いている。町の周辺で若い女性が次々と行方不明になっているんだ」

「へえ、怖いわね。でも案外、同じ犯人かもしれないわよ。ねえ、ジョー君?」


 尋ねられた常一はなにも答えない。

 気を悪くした様子もなく岬は楽しげに続ける。


「わたし、グールメイジが可哀想でならないわ。自分が理想とする最高の殺人は、殺したいと思っている相手は、きっとたった一人しかいないのよ。続発した事件はいわば代償行為ね」

「どうしてそう思うんだ?」と円理。

「女の勘よ」


 岬は実に楽しそうだ。


「仙台の事件では被害女性は売春をしていたそうよ。世間から白い目で見られるような女性ばかりを狙っていたのは、なにかしら理由があるんじゃないかしら」

「理由?」


 円理が興味を示して身を乗り出した。

 食事時だぞ、と常一はリモコンを手に取った。


「こんな番組を流していたら、ご飯がまずくなる」


 テレビが消えると、岬が明るい声を出す。


「いい匂い。ジョー君、腕を上げたみたいね」

「まあね。何年もやっていれば上手くもなるよ」


 三人はテーブルにつき、まずは常一が作った炒め物を一口。

 んんっ、と声を上げて岬が絶賛する。


「味にパンチがあるわ。やっぱり、ニンニクのおかげかしら?」

「そうだろう、そうだろう」


 円理は何故か得意げだ。


「これは兄さんの一番の得意料理なんだ。できれば毎食だっていい」

「困ったやつだな。朝からニンニクの匂いをさせるつもりか」と常一。

「例えだよ。わたしだってたしなみくらいある」


 円理は唇を尖らせた。


「それくらい美味しいってことだ」

「そう言ってもらえるとうれしいけどね」


 その言葉は料理を担当してきた常一の本音だ。


 三人はサラダにも箸を伸ばした。これは円理がこしらえたもの。グレープフルーツで作ったドレッシングが主食の油っぽさを中和してくれる。箸休めに最適だ。

 常一はいつものように二杯、三杯と、ご飯をお代りする。その様子に岬が笑った。


「相変わらずジョー君はよく食べるのね。ねえ円理さん、お兄さんはいまも痩せているのかしら?」

「ああ。兄さんは痩せていてうっすらと筋肉がついている。いい男だぞ」


 なにを言っているんだ、と常一は苦笑した。


 ふと風が出てきた。夜になって気温が下がったらしく、だいぶ過ごしやすくなった。風鈴の音色も軽やかだ。開け離れた雨戸から庭の様子がよく見える。今夜は明るい。月が出ているのだろうか。あとで月見酒とでもいきたい気分だ、と常一は考えた。


 その時、盲導犬が首を起こし、一声吠えた。外の様子が気になる様子だ。


 すると、車のエンジン音が響き始めた。誰だろう、と思っていると見知った顔が庭先に現れる。咲子さきこだ。一升瓶を抱えている。


 ノースリーブのブラウスに、チェック柄のロングスカート。それに一つ結びにした茶色の長い髪とあいまって、いいところのお嬢様のようだ。背も高い方で、スタイルは起伏に富む。校内では男子生徒が熱い視線をそこに集中させている。

 咲子は玄関まで入ってあいさつする。


「お晩でした、常一先生」

「ああ、こんばんは、月本先生つきもとせんせい


 常一は玄関まで行って咲子にあいさつを返す。

 咲子は深々と頭を下げる。


「この度はご愁傷様で」

「いえ、そんな」と常一。

「わだし、計良先生けいらせんせいにもっと色んなこと、教えで欲しがっだです」


 咲子は常一たちの父親に師事していた。計良の主催する郷土史のサークルに参加しており、年老いた主要メンバーから孫娘にように可愛がられていたのが印象深い。そうした光景ももう見られないのだろうか。常一も、会が時折開く酒宴に参加したものだ。


 酒宴と言えば、常一は咲子が胸に抱いている一升瓶が気になった。一升瓶が押し付けられて、その存在感を強調している咲子の胸は、あえて見ないことにする。

 果たして咲子が告げた。


「これ、差し入れです。今夜はいい月ださげ、これで一杯やるのもいいんでねえがと」

「すみませんね、いつも。今度、また飲みましょう」

「ええ、いづでも」


 ところで、と咲子は岬の存在が気になるようだ。


「えっれえ美人さんがいるでねえべか。常一先生、あの人は?」

「ああ、大学時代の先輩です」


 常一の言葉を引き継いで、やってきた岬が頭を下げる。


相羽岬あいばみさきです。訃報を聞いて、ご葬儀に参加させてもらおうと」


 嘘が上手い。

 よくもまあとっさに出るものだ、と常一は感心する。

 が、咲子はすっかり信じたようだ。


「そりゃまた偉えことで。常一先生、いい先輩だごと」


 話しているうちに円理もやってきた。

 最後に咲子は円理にあいさつする。


「円理ちゃん。常一先生を支えてあげねえといげねよ?」

「うむ。任せておけ」


 ほんじゃまた、と咲子は車で帰っていった。エンジン音が遠ざかってゆく。

 常一は一升瓶を抱えてテーブルに戻った。食事を終え、洗い物も済ますと、一日が終わったような気分になる。

 気怠さに身を任せる常一に岬が尋ねる。


「ジョー君。さっきの人は?」

「ああ、学校の同僚……だったということになりそうだ。たぶん、俺はクビになるだろうから」

「わたしから組織に口を利いてあげてもいいのよ?」

「その組織に参加すれば、円理と二人で暮らせるのか?」

「このご時世、暮らし向きはどんどん悪くなってゆくけど、組織がくれる仕事もやれば、円理さんの面倒もちゃんと見てあげられるわよ」


 常一は少し安心した。

 岬さん、と常一は一升瓶を持ち上げる。ずっしりと重い。


「少し飲まないか?」

「いいわね、月見酒といきましょう」


 常一と岬の会話を聞いて、円理が杖を突いて立ち上がる。


「なにか弾こう。少しは慰めになるだろうから」


 杖を突いて、円理が自分の部屋から持ってきたのは胡弓こきゅうだ。日本で生まれた楽器にしては珍しい弦楽器。発祥は江戸時代にさかのぼるらしい。円理はこれを母親から学んだ。いまでは玄人顔負けの腕前だ、というのは常一のひいき目だろうか。


 すでにテレビは消えている。雑音はない。

 外を吹く風の音が鮮明になった。


 胡弓の下部には中子先なかごさきという突起がある。縁側に座った円理はそれを膝に挟み、胡弓の位置を安定させた。馬の毛を極めて緩く張った弓を片手に持つ。常一と岬も縁側に座ったところで、静かに弓を弾き始める。中子先を支点に楽器をくるくると動かす奏法はいつ見ても楽しい。


 胡弓は民謡でも使われる。その深い情緒は常一たちが住む古民家にまことにふさわしい。


 静かな、毛細血管を撫でるような調べだ。耳をそば立てないと聴き逃してしまうような繊細な音色が風に乗って運ばれてゆく。

 雲上では月が輝く。風の機嫌に任せ、現れては隠れ、隠れては現れる。月に照らされた庭の、変化に富む陰影が美しい。月の光に庭が濡れているようだ。


 胡弓の調べもまた、音の粒子が濡れたように光っている。


 円理はまた腕を上げたようだ。神経が安らぐような、それでいて神経を逆撫でるような。その境界を楽しむのもまた、胡弓の魅力の一つだ。


 お気に入りの盃に月が浮かぶ。それを飲み込むように常一は盃を何度も傾ける。咲子が持ってきた純米大吟醸は、味がまろやかで、どこにも尖ったところがない。水のように澄んだ味わいだ。全身が心地よくしびれてゆく。

 岬も見えない目で月を愛でながら舐めるように酒をやる。


 三人は無言だった。言葉はかえって不自然だ。そんな感慨を全員が共有しているようで、常一は満ち足りたものを感じる。この穏やかな時間が長く続いて欲しい。


 常一が時折、円理に目をやると自然と視線が交わる。すると円理は目を細めて笑うのだった。すると胡弓の音色は益々、哀切な響きを増してゆく。


 これが常一の愛するふつうの暮らしだ。

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