第7話:油野養殖

 その週の日曜日、父の葬儀が執り行われることになった。なにぶん、夏だ。いかに冷凍庫で保管してもらっているとは言え、限界がある。兄妹は慌ただしく準備を終えた。


 式場は町にあるセレモニーホール。妙な上品さをたたえた白亜の建物だ。


 常一じょういちは喪主として葬儀を取り仕切る。一方、円理えんりも喪服を着て受付を担当することになった。他に手伝ってくれるような親族はいない。父も母も元々、この町の住人ではないと聞く。


 黒い着物を着た円理は、ふだんはおろしている長い黒髪を結い上げ、いつも以上に凛としたたたずまいでカウンターに座る。しかし、円理は暇を持て余した。参列者はなかなか集まらない。


 兄妹の父・計良けいらは活動的な人物で、おおいに町に貢献してきたと言えるだろう。にもかかわらず参列者が少ないのはおかしい。

 生温い泥の中に沈んでゆくようだ。常一はペットボトルの水を一口、飲んだ。それだけで少し気持ちが和らいだ。


 円理はどうしているだろう? 常一はもう一本、ペットボトルを持ってエントランスの受付へと向かう。受付では円理がお年寄りと語り合っている。参列者のほとんどはお年寄りだ。皆、円理のファンなのだろう。円理は昔からお年寄りに可愛がられてきた。


 円理と老婦人の会話が聞こえてくる。


「円理ちゃん。こげなこと言うのは不謹慎だげっど、おらだは心配しんぺえだ。計良さん、油野さんのことを嗅ぎ回ってだってうわさじゃねえが。この町で油野さんに逆らっちゃ、生ぎでがんね。円理ちゃんは危ねえごど、しちゃいげねよ?」


 油野養殖に逆らえば、この町で生きていけない。

 老婦人はそう心配している。


「分かっている。気づかい、ありがとう」


 円理は反論せず、殊勝な振る舞いを見せている。


 エントランスでは参列者のお年寄りたちがひそひそとささやき合う。神妙な空気が漂っている。冷房の音がいやに大きく響く。参列者たちは、円理を気づかって来たはいいが、やはり油野養殖が怖いらしい。しかし来るだけでも人として真っ当だと言える。

 常一は円理に歩み寄り、円理と話していたお年寄りに頭を下げた。円理にペットボトルを差し出す。


「ご苦労様。少し休憩したらどうだ?」

「ああ、すまない」


 円理はペットボトルを受け取り、一口飲む。

 軽く息を漏らした。


「ふう。慣れないことをすると疲れるよ」

「こんなこと、慣れたくないな」

「それはそうだがね」


 円理はペットボトルをカウンターに置いた。

 エントランスにいるまばらな参列者を眺める。


「父さんのやってきたことはなんだったんだろう?」

「ん?」

「町内会、消防団、郷土史、はては震災ボランティア。父さんは仕事だけでなく、様々なことで人のために尽くしてきた。もっと大勢の人に見送られてしかるべきだ。だが実際には、油野養殖を調べていたというだけでこの有様だよ」

「おまえの気持ちは分かるよ」


 話していると、また参列者がやってきた。黒いスーツを着た咲子と、制服姿の少女。


 月本咲子つきもとさきこの着ているスーツは一部分がはち切れそうになっている。その母性的な膨らみから、ごく自然に常一は視線を外す。

 当の咲子はおそらくそんなことには気づいていないだろう。


「常一先生。遅れですいません。ちょっと色々あっだもんで」

「いえ。来ていただけただけでありがたいです」


 常一は咲子たちが遅れた理由を推察した。おそらく出席するのを家族の誰かが止めたのだろう。姉妹しか姿を見せないのが証左と言える。仕方ない。この町の住人で油野養殖に逆らおうとするのは自殺行為だ。

 ため息をつき、常一は制服姿の少女にもあいさつする。


「二果、久しぶり。今日はありがとう」


 咲子についてきた少女は月本二果つきもとにか。咲子の妹だ。姉妹だけあって、色素の薄い髪の色がそっくり同じ。二果はそれを左右に分けて結んでいる。現代っ子らしくスマホをいじることが多い印象で、そのせいか視力が悪い。地味でもなく、派手でもない眼鏡は、精一杯のおしゃれという印象で好ましい。


「先生」


 ぺこり、と二果は頭を下げる。


「あたし、学校で仲間を集めて事件を捜査しようとしてるんだ。必ず先生と円理のお父さんを殺した犯人を見つけてみせるから」

「ありがとう」と常一。

「円理。学校、来なよ。あたしが守ってあげるから」


 二果は真剣に円理を気にかけているようだ。円理はいい友人を持ったようで、常一は兄としてうれしい。


 そろそろ時間だ。常一は円理をともなって会場に入ろうとした。しかし、そこへ派手なスーツを着た男が部下たちを従えてエントランスに姿を見せた。エントランスにいた人々が自然と道を開ける。男のサングラスがいやに目立つ。短く刈った髪がいかにも精悍だ。


 サングラスだけではない。その三十代後半の男は、黒いスーツに赤いワイシャツと、とても葬儀に出席するような格好ではない。カタギに見えるかどうかも怪しい。


 林崎りんざき。彼こそが油野養殖の社長だ。

 彼はまっすぐ円理に歩み寄った。


「やあ、円理さん。今日は折り入ってお話があってきました」


 円理は露骨に嫌な顔をした。

 しかし林崎は気にした素振りも見せない。ねっとりとまとわりつくような声音で続ける。


「お父上を亡くし、お兄さんも失業……いや、失礼。まだ謹慎中でしたか。となると今後、暮らしてゆくのも大変でしょうなあ。そこでワタシが一肌脱ごうかと思った次第で。ただ、そこは水心あれば魚心と言いますかね、ここまで言えばお分かりでしょう」


 林崎の視線が円理の体を這い回る。

 着物からのぞく細い首、たおやかな細い指先、華奢な作りの足首と、視線で無遠慮に舐め回してゆく。

 林崎のいかつい顔がだらしなく歪む。


 常一は兄として許せない。殴りたくなるのをぐっと抑える。

 円理は居心地が悪そうに身動ぎして返事を返す。


「わたしになにをしろと言うんだ? はっきり言ってくれ」

「ワタシが一肌脱ぐなら、円理さんも一肌脱ぐのが大人の付き合いってものです──ねえ?」


 なんと卑劣な申し出だろうか。林崎は円理に体を要求しているのだ。


 林崎が連れてきた部下たちが下卑た笑いを浮かべている。林崎の部下にふさわしい性根だ。彼らの左手薬指の爪はどれも緑色。そうやって部下たちに共通の印をつけるのが林崎の嗜好なのだろう。もしかすると円理にも印をつけようと?


 常一は、かあっと頭が熱くなった。拳が震える。

 周囲の音が遠ざかっていった。怒りが常一の心を埋め尽くしてゆく。理性はすみに追いやられ、ただ林崎への怒りだけが燃える。


 その林崎は平然とした顔でタバコを取り出し、ライターで火をつけた。

 反応したのは円理だ。


 ペットボトルの水を林崎にぶっかける。エントランスホールは剣呑な空気が包まれた。咲子と二果は、他の参列者たちは、固唾を呑んで円理と林崎を見つめる。


「不謹慎な! 葬儀の場でタバコを吸うとは!」


 円理は出口を指差した。


「帰れ!」


 エントランスがざわつく。参列者は事の成り行きを眺めるばかり。

 くつくつ、と林崎は喉を鳴らす。


「ずいぶんと可愛らしい反応ですねえ」


 林崎は円理の激しい拒絶を、むしろ楽しんでいるようだ。サングラスの奥で彼の目が細められていることは容易に想像できる。林崎が円理に手を伸ばす。片足が不自由で、しかも座っている円理は逃げることができない。


 とっさに常一が二人の間に割って入った。

 常一と林崎の視線が衝突する。見えない火花が散った。


「林崎さん。今日はお帰りください」

「へえ、ワタシにそんな口を利きますか。ずいぶんと威勢が良くなったじゃありませんか。いいでしょう、今日のところは退散します。ただ、円理さんのことを諦めたわけじゃありませんよ。妹さんは必ずワタシの物にする──そう宣言しておきましょうかね」


 行くぞ、と林崎は部下を連れてエントランスから出ていこうとする。それを円理が呼び止めた。


「わたしは必ずおまえたちの犯罪を暴いてみせる。覚悟しておけ」


 林崎は薄く笑うだけだった。



 その晩、常一はなかなか寝つけなかった。薄闇の中、宙を舞う蚊取り線香の煙をぼんやりと目で追う。


 ふつう。そんなあいまいな概念を心の拠り所としてきた。そんな暮らしも限界を迎えようとしている。

 それがどうだろう。いまや、町は常一の敵だらけだ。油野養殖は常一を社会から抹殺しようと日々、圧力を強めている。息ができない。


 次第に包囲網はせばめられつつある。妹を連れて逃げるべきだろうか。そうすれば、ふつうの暮らしが守られる。

 常一はふとんの上で何度目かの寝返りを打つ。じっとりと汗ばんでいる。


 ふと、ふすまが開く音がした。

 となりで寝ていた円理がふすまを開けたのだ。膝をすらせて常一が寝る布団に寄ってくる。


「兄さん。起きているか?」

「ああ。どうした? 眠れないのか?」


 常一の言葉に、円理はすぐには答えない。膝の上で手をぎゅっと握っている。

 なあ兄さん、と円理はおずおずと切り出す。


「子供だと笑わないで欲しいんだが……一緒に寝てくれないか?」


 薄闇の中で円理の瞳が不安げに揺れている。


 幼い頃の妹を思い出す。昔から円理は自分にべったりで、怖い夢を見たと言って添い寝をせがんだものだ。妹への愛しさが常一の内部で暴れる。

 妹のすがるような表情を見せられて拒めるほど常一は冷たい兄ではない。


「いいよ、おいで」


 タオルケットをめくると、円理はうれしそうに身を寄せてきた。ミルクのような甘い匂いが常一の鼻をくすぐる。円理は常一の胸に頭を乗せ、子供のように甘える仕草を見せた。円理が身動ぎするたびに、長い髪の毛先が常一の肌をちくちくと刺激する。


 常一が背中を撫でてやると、円理は体の力を益々抜く。うれしそうに息を漏らした。


「兄さん、今日はありがとう」

「なにがだ?」

「林崎がわたしに手を伸ばした時、本当は怖かったんだ。でも、やっぱり兄さんがわたしを守ってくれた」

「当然だろ。兄貴なんだから」

「わたしは兄さんの妹で良かった。恋人だって、こんなにもわたしを安心させてはくれないだろう。生まれた頃から一緒にいて、長い時間を過ごしてきたからこそ、こんな風に子供のように甘えることができる」


 そう言って、円理は常一の胸にまた頭をこすりつける。

 深く息を吸い込む。


「ああ、兄さんの匂いだ。なんだか眠くなる」

「明日から捜査だ。ぐっすり寝て、明日に備えよう」

「うん。おやすみ、兄さん」


 眠くなる、という言葉通り円理はすぐに眠ってしまった。安心しきった円理の体が常一に密着し、その弾力を伝えてくる。少女から女へと、つぼみは開花し、かぐわしい香りを放つかのよう。甘い匂いが、柔らかい肉が、愛おしい温もりが、布団の上で溶けてゆく。


 妹を守りたい。そう強く思った。

 背骨を甘やかな痛みが貫く。妹への愛情を痛切に感じたときの常一特有の感覚だ。その感覚の中で天啓が舞い降りた。


 ならば戦うしかないのではないか。

 そうだ、と常一の腹は決まった。


 タオルケットの中で円理を強く抱きしめる。

 絶対に守ってみせる、と。

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