第二章:悪の奇形

第8話:廃病院へ

 妹を食いたい。肉料理にしたい。そう思うようになったのは、いつからだろう?

 ふとんの上で常一の思いは過去に飛んでいた。


 元々、常一はいまのように異常な人間だったわけではない。原因は父だ。


 常一が中学生だった頃、円理が事件に巻き込まれた。危ういところで円理を救った常一に父は提案した。


「この背骨を移植すれば、素晴らしい力が手に入るよ」


 背骨はガラス容器の中で生きていた。動いていた。まるで節足動物のように。

 怖気がした。それでも常一はうなずいた。


「分かった……円理を守るためなら、俺は」


 以来、常一は悪を殺す悪となった。すなわち必要悪。常一という悪を秩序が必要としている。




 目覚めれば、となりで眠る妹がいる。白いシーツの上に長い黒髪が散らばる様がコントラストを作り出していて鮮やかだ。こんなにも美しい妹が自分を慕ってくれる。その幸せを常一じょういちはじんわりと味わいつつ、上半身を起こす。


 ずっと同じ姿勢で寝ていたせいか、体の節々が痛い。腕などをストレッチしていると円理えんりも起きてきた。

 ふぁああ、と円理は大きく伸びをする。


「おはよう、兄さん」

「おはよう、円理。よく眠れたか?」

「うん。すごく」


 まだ完全に意識が覚醒していないのか、円理の目はとろんと溶けている。常一は円理の長い髪に寝癖を見つけ、そこを手で何度も撫でた。円理は目を細め、常一の手に身を委ねる。


 愛おしい。


 その感情に常一を苦しむ。円理を大事にしたいと思えば思うほど、壊してしまいたい衝動に駆られる。その狭間で常一は懊悩してきた。


 妹の視線に宿る感情に常一は気づいていないわけではない。だが、気づかないふりをしてきた。二人の関係はこれが最良なのだ。これからも円理を守ってやらなければならない。


 今日から常一たちは父がなにを調べていたか調査することになる。危険に近づくだろう。そこに円理がいるのはまずい。これから常一がすることを円理に見せるわけにはいかないのだ。だから常一は円理にお願いする。


「なあ、円理」

「なんだい、兄さん」

「今日から調査するわけなんだが、おまえは留守番してろ」

「なっ」


 円理は大きな声を出して固まる。目が大きく開かれた。信じられない、という目をしている。

 ややあって、円理は震えながら声を出した。


「どういうことか、聞いてもいいか?」

「これは危険な仕事だ。実際、親父は殺された。おまえを巻き込むわけにはいかないんだよ。な? 分かってくれ」


 円理の震えは次第に増してゆく。

 そして、頂点に達した。


 円理はやおら枕をつかむと、力一杯、常一の頭に叩きつけた。枕の中身はそばがらだ。叩かれると痛い。が、この痛みがやみつきになるというか。ああ、その冷たい眼差し。最高です。


「ばか! ばか! 兄さんのばか!」


 円理は叩くのをやめない。

 涙声で訴える。


「わたしはもう子供じゃない。ちゃんと自分で考えられるし、自分の行動に責任だって持てるんだ。なのに兄さんは」


 さすがに疲れたのか、円理の手が止まった。

 ふむ、と常一は身を起こす。そろそろ兄としての勤めを果たすところだろう。自然な動作で円理の小柄な体を抱きしめる。背中を何度も撫でた。


「俺がおまえをどれだけ大事にしているか。おまえにちゃんと伝わってるだろ? だから分かってくれよ。俺は兄としておまえを危険な目にあわせるわけにはいかないんだ」

「うー」


 円理は悲しげにうなるばかりだ。ただ、常一の手に逆らうことはしない。それが同意だと常一は思ったのだが。



 その朝の食卓は、なにやら緊張感に満ちたものになった。常一も円理も、なにも言葉を交わさない。テレビが流すニュースもどこか上滑りしていた。

 岬は兄妹の気配を感じたのか、常一に興味を示す。


「今朝はなんだか険悪ね。ジョー君、妹さんになにかしたの?」

「なにかって。俺はなにもしてないよ。ただ、円理に留守番を頼んだだけだ」

「そう。それがいいでしょうね」


 岬がそう語った時、ニュースがようやく神室町に触れた。

 視線を常一からテレビに移して円理は前のめりになる。


「一昨日の夜、神室町で奇妙な動画が撮影されました」


 ニュースキャスターの言葉を継ぐように画面が切り替わった。


 夜と思しき暗い画面。正体不明のなにかが夜の町を疾駆する。まるで映画だ。曳光弾が飛び交っているようにしか見えない。速いだけではなく、着地の衝撃のすさまじさたるや。足場になったと思しき建物がみるみる破壊されてゆく。そして、なにかが急停止。


 そこへ画面がズーム。ようやく姿が確認できた。


 中世ヨーロッパで活躍した騎士のような甲冑。その色は闇のように濃い。兜の隙間から漏れる赤い眼光がカメラに向けられる。次の瞬間、画面が激しく揺れて映像が途切れた。


「これは映画なんでしょうか?」


 と、ニュースではキャスターたちが口々に意見を言い合った。

 円理が青ざめた顔で自分の考えを語る。


「なあ、兄さん。この黒い怪人が父さんを殺したんじゃないか?」


 正解だ。しかし常一は口には出さない。


「なにを言い出すんだ」

「自分でも突拍子もない考えだと思う。しかし、父さんの異様な殺され方。常識は通用しない気がする」


 常識は通用しない。

 円理の意見は正しい、と常一は知っている。

 しかし口に出したのは綺麗事。


「円理。おまえはまだショックから抜けきれていないんだ。しばらく休め。捜査は俺と岬さんがやる」


 朝食を終え、常一は岬と出かけることにした。常一は白いワイシャツにカーキ色のカーゴパンツ。いつもよりアウトドアに向く格好と言える。


 一方、岬は一張羅のパンツスーツだ。ヒールのついたパンプスはあまり荒仕事に向いているとは思えない。

 常一は玄関で円理に改めてお願いする。


「円理。ちゃんと留守番してるんだぞ」

「ああ、分かってる」


 円理の返事を聞いて安心した常一は、岬と盲導犬が車に乗り込む手助けをした。それを当然の顔で受けつつ、岬は今日の方針を告げる。


「まず廃病院周辺で聞き込みをしましょう」

「どうしてだ?」

「あなたのお父さんもきっと聞き込みをしているはずよ。まず、お父さんの足取りを追うの」

「なるほどね」


 うなずいて常一は運転席に乗り込んだ。


 安全を確認して車を発進させる。今日もいい天気だ。日が高く登れば、激烈な暑さになるだろう。できれば、その前に聞き込みを終えたい。そんなことを考えながら常一は車を走らせる。


 町には屋根の潰れた廃屋が目立つ。お年寄りしか住んでいない家が冬の間に雪で潰されたのだ。住んでいたお年寄りがどうなったのか、常一は知らない。そういう話は町にあふれている。あるいは他の雪国にも。


 父の計良けいらが訪れたという廃病院は、町立病院が以前に使っていた建物だ。老朽化し、いまは取り壊されるのを待っている。うわさでは幽霊が出るとかなんとか。それを聞きつけて町の外から若者が好奇心に駆られて訪れることもあるという。


 その廃病院の朽ちかけた姿が見えてきた。かつて真っ白だった壁は、風雨にさらされ、灰色に鈍っている。割れた窓ガラスも多い。屋根に止まったカラスたちが甲高い声で鳴く様子は、なんとも寂しげだ。


 廃病院の周囲には田園が広がっている。カエルやドジョウなどが住むのどかな風景。その中にぽつんと小さな集落がある。

 常一は道の脇に車を止めた。


「岬さん、着いたぞ」


 降りようとする常一を、岬が声で止めた。


「ねえ、ジョー君。あなたも容疑者の一人だってこと、忘れないでね」


 にやり、と岬は笑った。

 常一は答えない。微かに、よく見ないと分からないくらい微かに、常一の目が細くなった。

 興が乗ってきたのか、岬は滔々と続ける。


「秩序と混沌。よく言われる属性だけど、ジョー君を見ていると、それを実感するわ」


 岬は奇妙な話を始めた。


「わたしが属する組織ではこんな話が伝わっているの。世界の創世神話よ」

「最初の七日間、神様がなにをしたかって話か?」

「それじゃないわ。こういう話なの」


 初め、世界は混沌とした海だった。そこに何者かが現れる。その存在は世界を二つに分けた。すなわち秩序と混沌。秩序世界・地球ミドルアースと、混沌世界・アースシー。そうして二つの世界は安定し、自然と交流も少なくなっていった。


「秩序世界、か。その割に現実は混沌としているようだが」


 常一はハンドルを指先でなぞった。女性のように細い指だ。

 岬は少し考える仕草を見せる。首をかすかにかしげた。短く切られた髪が揺れる。


「そうね、わたしもそう思う。でも、こう考えてみて。秩序は時代ごとに違う。例えば、吸血鬼が十字架を恐れたのは、キリスト教という権威が秩序となって人々を守ってきたと言えるんじゃない? そうやって、時代ごとの秩序が地球を治めてきた」

「じゃあ、いまはどんな秩序があるんだ?」

「平和よ。自分の目の届く範囲だけの平和。自分たちに都合が悪い存在は追い払い、内部だけの都合で世界を治める。あらゆる権威が失墜した現代にふさわしい秩序ね。そして、あなたを動かす力でもある」


 岬の言葉に、常一は沈黙を守った。

 気にした様子もなく、岬は笑って続ける。


「ねえ、ジョー君。この件が終わったら、妹さんをわたしに預けない?」

「なんだ、突拍子もなく」

「だって、このままだとあなたは妹さんを殺してしまうでしょう?」


 岬は常一に手を伸ばす。常一の背筋を優しくなぞった。


「あなたの中には悪がある。秩序は──それを生み出す人々は、無意識のうちに必要悪を求めている。自分たちは手を汚さず、代わりに不都合な存在を抹殺する悪が必要なのよ。あなたはさしずめ悪の奇形。秩序が定めた悪を殺す悪と言ったところかしら」

「岬さん、あなたの目的は一体?」


 常一に問われた岬はまたも話題を変えた。


「ねえ。学生時代、どうしてわたしがあなたに声をかけたか分かる?」

「分からない。あなたはなにも教えてくれなかったから」

「あなたを最初に見た時から、あなたが異常な人間だと分かっていた。異常な人間なのに必死になってふつうの人間を演じているんだって。そういう人って、なんだか愛しいじゃない。だから結末が見たくなったのよ」


 常一の背筋を撫でる岬の指が執拗さを増す。


「あなたはいずれ妹さんへの殺意を抑えられなくなる。妹さんがあなたに抱く恋心は秩序からすれば悪だものね。気をつけて。あなたたち兄妹の関係が危うくなるほど、あなたの中で悪がうずき出す」


 薄く笑って、岬は手を引っ込めた。


「あなたはいずれ自分の中の悪と対決しなければならない。その結末が見たいのよ。自分の中の悪に負けて破滅するのか。それとも悪と向き合ってなにがしかの答えを見出すのか。ねえ、見せて。正しさを求めてあがく姿を」

「あなたは最悪だ」


 正直、常一はそう答えるので精一杯だ。車内は冷房が効いているというのに背中は汗でびっしょりと濡れている。

 くすくす、と岬は可笑しそうに笑う。


「そうね。自覚はしてる」


 岬は車から降りて日差しを手でさえぎる。


「暑くなりそうね。妹さんがうらやましいわ。涼しい家でのんびりできるんだから」


 そして廃病院に顔を向けた。

 常一も降りて、そちらに目をやった。

 気のせいだろうか、カラスの数が増しているようにも見える。その鳴き声は、不吉さを増して、新たな腐肉を待ち望んでいるかのよう。


「死臭がすごいわ。ここまで漂ってくる。ずいぶんと派手なことをやっているみたいね」

「すごい鼻だな」

「わたしの鼻は特別なのよ。妹さんを連れてこなかったジョー君の選択は正解ね。なにが起こるか分かったものじゃない」


 じゃあ行きましょう、と岬は常一を促した。

 二人と一匹はまず集落で聞き込みを始めることにした。



 同時刻。

 円理は家の廊下にある黒電話で二果にかと通話していた。


「そういうわけでだな。兄さんはわたしに留守番を命じたんだ。ひどいと思わないか?」

「うんうん。子供扱いされるのは嫌だよねー」


 二果は気持ちよく相槌を打つ。


「じゃあさ。先回りしてこっそり廃病院を調べてみない?」

「え? いや、しかし」

「それで重要な発見をしてさ。先生を見返してやればいいんだよ」

「しかし、わたし一人では」

「大丈夫。あたしも一緒に行くから。先生と岬さんって人はまず聞き込みからするんだよね。じゃあ、自転車でも先回りできるよ。それとも円理。やっぱり怖いの?」

「怖くなんてあるか」

「じゃあ、決まりね。すぐに行くから待ってて」


 円理はすっかり二果に押し切られてしまった。兄に子供扱いされたことへの不満から、つい意地を張ってしまったようだ。

 受話器を置き、ぱんと頬を叩いて気合を入れた。一人、決意を語る。


「よし、兄さんを見返してやるぞ」


 廃病院がどんな場所か、円理は知らない。

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