第9話:踊る手足
まだ正午前だ。この時間、どこの家にもお年寄りしかいない。
廃病院に停まる不審な車について、お年寄りたちは最初、返答を拒む気配を濃厚に示していた。油野養殖への恐怖心は強いらしい。
しかし、岬は巧みだ。関係のない世間話に切り替えてお年寄りたちの警戒心を解く。実際のところ、お年寄りたちは話し相手を求めていた。中には家族からも敬遠される者もおり、ずっと孤独を抱えていたのだ。そうした人間は一度、気を許せばたいていのことは話す。
油野養殖の車が廃病院の周辺で目撃されたという情報はすぐに裏付けられた。
常一たちに話しながら、お年寄りたちはよく魚肉ソーセージを食べた。油野養殖が食品加工工場で作ったものだ。この町など限られた範囲にしか流通していない。油野養殖は町のお年寄りに無料でこの魚肉ソーセージを配っている。他のソーセージより癖は強いものの、その分やみつきになると評判だ。
話を聞き終えて外に出れば、太陽が頭上でぎらぎら輝いている。アスファルトが熱せられて陽炎が立つ。
「暑くなってきたわね。やっぱり山形は暑いわ」
岬は首筋に浮かぶ汗をハンカチでぬぐう。太陽は真上に昇り、殺人的な日光で地上を照らす。実際、こまめに水分を補給しなければ熱中症になるだろう。常一はペットボトルの水を口に含んだ。ぬるい。口の中はどろどろとして、全身が渇いていることが分かる。そうだ。求めている。水を。あるいは血と肉を。
◆
その頃、円理と二果は廃病院の前にいた。二果がこぐ自転車に乗せられてここまでやってきた円理は、不気味な廃墟の前に立つ。カラスの鳴き声が聞こえてくる。このあたりにカラスが好むような食べ物があるのだろうか。それとも、これから食べ物が出てくると分かっているのか。鉄条網の先にある廃病院は黙して語らない。
周辺にはゴミがあふれている。例えば、用水路には第三のビールの空き缶などがどこからか流れ着いていた。掃除される気配はない。
かつては町に欠かせない施設として利用されながら、役目を終えてしまえば、このように人々の視界から消えてしまう。そうなると、空白の地帯となる。日常の世界から切り離され、誰の目も届かない。ここから先は非日常の世界だ。
日常と非日常の境目には錆びついたゲートがある。
円理は風になびく髪を押さえた。
「なにやら恐ろしげだな」
「まあね。ネットでは心霊スポットってことになってるみたいだね。しかも、入ってきり帰ってこなかった人もいるとか。まあ、うわさだけどね」
そう答えて、二果はスマートフォンを取り出し、廃病院の全容を写し始めた。
やおらスマートフォンに向かって語りかえる。
「これからうわさの廃病院を探索しようと思います」
次いで、二果は円理を写す。
「こっちがあたしの相棒。可愛い子でしょ?」
「二果。君はいきなりなにをしているんだ?」
「SNSに投稿するために撮ってるんだよ」
二果は学校で放送部員をしており、将来はジャーナリストになりたいという。昔の二果を知っている円理としては、その変わりようがうれしい。
うふふ、と二果は得意そうに笑う。
「円理は美少女だからねー。これはきっと反響が来るよ」
「やめてくれ。恥ずかしい」
円理は顔を手でさえぎる。
SNSというのがなんなのかいまいち実感できない。ただ、自分の姿が世間に公開されているらしい、とは察した。どうにも居心地が悪い。
一方、二果は慣れたものだ。スマートフォンに語りかける。
「じゃあ、探索開始」
緊張感を感じさせない様子で二果は錆びついたゲートに手をかける。ぎしぎしと悲鳴を上げ、入り口が開かれた。
「円理、ゆっくりでいいからね。円理のペースに合わせるから」
二果が先行し、円理は薄暗い廃病院へと入っていった。内部は荒涼としている。かつては温かみのある内装だったのだろう。例えば、エントランスを飾る子供たちの像がある。男の子と女の子が二人、かつては仲睦まじい様子を見せていたのだろう。兄妹かもしれない。しかし、入り込んだ風雨にさらされて色あせている。まるで兄妹が溶け合い、一体化したような非現実的な物体だ。
すべてが変わり果てている。
腐った棚に置かれたぬいぐるみは、内臓がはみ出たように綿がのぞく。枠組みだけが残されたベッドは、陽の光を浴びて錆を鈍く光らせている。タイルがはげた床は、歩く度に悲鳴のようにきしむ。置き忘れられたカレンダーは当時のまま、めくられることもない。
ここは時間が止まっている。人の気配が絶えたような、それでいて人の匂いが漂う光景は、幻想的な空気が濃い。まるで人々の時間を保存したかのよう。
初めスマートフォンに事細かく報告していた二果も、いまは言葉もなく歩いている。円理も杖を突いて続く。二人の足音だけが廃病院の中を残響してゆく。
廃病院は一階と二階が外来。そこから上の階が入院病棟だ。円理と二果は、一階から順に内部を歩いて回る。
外科を歩いている時だった。
不意に二果が足を止めた。
「なんかさ、臭わない?」
「ん? そうか?」
円理も鼻を使う。かすかな臭いが風に乗って運ばれてくる。
「なんだろう。すごく嫌な臭いだ」
「だよね。どこからかな」
二果は手当たり次第、ドアを開けてゆく。手術室を開けようしたが、鍵がかかっていて開かなかった。
鼻を刺すような悪臭をはっきりと認識できた。ここだ、と円理と二果は顔を見合わせた。
手術室には南京錠がかけてある。
二果は何度も扉を押す。
「駄目だ。開かない。円理、ちょっと待ってて」
しばらくして、二果が緊急時に使うような斧を持ってきた。円理に下がるように言って、二果は思い切り斧を振り下ろす。がちゃん、と音を立てて南京錠は破壊された。よしっ、と二果は軽くガッツポーズ。
「じゃあ、開けるよ。円理、いい?」
こくり、と円理がうなずく。緊張が顔に出ている。
斧を捨て、二果が扉を開ける。腐敗した臭いが強まった。
手術室の中は──地獄だ。
かつては美しい姿をしていた女たちが切り刻まれ、五体をきれいに並べてある。体の一部には番号さえ振られていた。
人間の条件を、円理は疑う。自分たちが人間だと自覚できているのは人間として扱われるからだ。その尊厳は死後も続く。では、死後に人間として扱われなければどうなるか。答えが目に前にある。物体だ。尊厳を剥奪され、物体として陳列された光景に、人間だった面影などない。
円理自身がかつて言ったではないか。人間は二度、殺されると。
胃の中からせり上がってくるものがある。耐えきれず、円理は床に吐いた。片足と杖だけでは体を支えられず、円理は汚い床に倒れてしまう。それでも吐き続ける。涙が出てきた。その涙が、吐いてしまった反動か、殺人犯への怒りなのか、円理は判別できない。
二果が円理を助け起こそうとした時。
「動いた?」
二果はスマートフォンを向けた。手術室の一部分を凝視する。
きれいに陳列された手足が、それ自体が生命を宿したように動き出す。異様な動き。まるで最初からそういう生き物だったかのような滑らかな動きだ。
驚くいとまもない。手足が躍り上がり、二果に組み付いてきた。
「ぐっ……!」
信じられない光景。しかし現実だ。
手足につかまれながら、二果が苦しげに叫ぶ。
「円理、逃げて!」
「しかし!」
「いいから! あたしにかまわず逃げて!」
動き出した手足は、二果に組みついた数本だけではない。部屋中の死体が息を吹き返したようだ。冷たい手足は、生者の温もりを求めるようにうごめいている。例えば、二果を。例えば、円理を。
手足に締めつけられ、苦しさにあえぎながらも、二果は懸命に円理を気づかう。
「円理。部屋の外に出たら、その斧で……扉をふさいで」
「できない!」
できるはずがない、と円理は頭を振った。長い黒髪が宙を舞う。
円理は昔から兄にべったりで、自身の友人は少なかった。その数少ない友人が二果だ。二果は、気難しい円理の性格を受け入れてくれた。円理は二果になんでも話した。恋の悩みを除けば。
円理、と二果が優しい声を出した。その声を出すのも辛いだろうに。
「お願い。行って」
二果は本気だ。
ここで迷っていれば、二果の決意は無駄になる。
「すまない」
円理は意を決した。部屋の外に出て、斧を使って扉にかんぬきをかける。
部屋の中からはおぞましい音が漏れ出てきた。苦悶の声も。
円理は思わず目を閉じて涙を抑えた。
「う……」
泣くな、と自分を叱咤する。自分には泣く資格がない。親友を捨ててしまった自分には。
自分への嫌悪感と、拭いきれず存在する安堵。
円理は杖を突き、階下に向かって歩き出す。
兄の言葉を思い出す。兄は自分に留守番を命じた。その命令をちゃんと聞いておけば良かった。いい子にして、家で待っていれば、二果を犠牲にすることもなかったのだ。そう思うと、後悔という言葉だけでは言い尽くせない感情が円理を苛む。
階段の下から誰かの足音が近づいてくる。
兄さんだ、と円理は本能的に思った。
杖を突いて懸命に階段を下る。自分は子供だ。無力だ。一人ではなにもできない。だから──。
兄さん。
兄さん。
兄さん。
助けて欲しい。支えて欲しい。慰めて欲しい。
兄さん。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます