第10話:変身
同時刻。
「
「二果?」と岬。
「この前、俺の同僚が酒を差し入れに来ただろう。彼女の妹だよ。昔から円理と仲良くしてくれている」
「ねえ、ジョー君。家に電話してみてくれる?」
「どうして?」
「あんなに捜査に熱心だった円理さんが留守番を言い渡されて、あっさりと納得するなんておかしいと思わない?」
まさか、と常一は明らかに動揺した。さすがに平静ではいられない。慌ててスマートフォンを取り出し、家の電話をコール。出ろ。出てくれ。そう念じながら応答を待つ。だが、
常一は廃病院に目をやった。カラスたちの声は益々、騒がしさを増している。
「円理もあそこにいるのか」
「急ぎましょう」
岬に促され、常一はゲートから敷地に入った。溶け合った兄妹の像を通り過ぎ、瓦礫がれきが散乱する内部へ。常一が進む度に砂利が鳴る。速足で歩く常一に、岬と盲導犬は苦もなくついていった。しかし、その岬が鼻を鳴らして足を止めた。
「火薬の匂いがするわ」
「火薬?」常一も足を止めた。
「たぶん、銃を持った人間がいる。気をつけて」
銃。
そんなものを持った人間がいる場所に円理は入り込んでしまった。早く見つけないと。常一の足は益々、早くなった。どこだ? どこにいる? 忙しくなく首を巡らせ、円理を求めて目を動かす。なかなか円理の姿は見えない。常一の抱える焦燥は増す一方。
不意に上階から声が聞こえてきた。この声は。
「円理だ」
「時間を稼いで。あとはわたしがなんとかするわ」
「分かった」
常一はふところからナイフを抜いて駆け出した。階段を一気に登る。次第に円理の声がはっきりと聞こえてくるようになった。
「やっ! 放せ!」
誰かともめている。その誰かが銃を持っているのか。
緊張に、常一は体が汗ばむのを感じた。曲がり角まで進むと、そっと顔をのぞかせる。
廊下では、二人の男が円理の腕をつかんで運び去ろうとしていた。男たちの下卑た表情から、円理になにをしようとしているか一目瞭然だ。常一は血が沸騰するような怒りを覚える。落ち着け、と常一はあえて深呼吸した。壁に背中をつけ、何度も深く息を吐く。
ナイフをしまい、常一は廊下に進み出た。
「やめろ。円理を離せ」
そう叫ぶ常一に、円理は喜色を露わにした。「兄さん!」
一方、男たちは新たなゲストに楽しみを見出したようだ。
「へえ。おまえ、この子の兄貴か。いいね。これからおまえの妹をかわいがってやるよ。それを兄貴が見てるってシチュもなかなかだぜ」
「円理を離せと言ってる」
常一は一歩、踏み出した。
が、男たちはふところから拳銃を抜いて発砲した。常一の足元で床が弾ける。
男たちは顔を歪めて笑う。
「動くんじゃねえよ」
く、と常一は歯噛みした。
いいねえ、と男たちはいかにも楽しげだ。円理の長い髪をすくって、匂いを嗅ぐ。にたにたと笑った。
「ああ、たまんねえ。黒髪ロングに着物なんて、今日日お目にかかれねえよ。これは楽しめそうだぜ」
円理の顔はすっかり青ざめている。
だから、兄である自分が戦うしかない。
「おまえたちは何者だ?」
常一はナイフを投げるタイミングをうかがった。
男たちは日本人のようだ。にもかかわらず銃の扱いに慣れている。実は、常一は彼らの正体に見当がついていた。油野養殖の私兵だ。油野養殖は海外で活動する日本人傭兵を数多く雇い入れている。しかし、目の前の男たちは常一の顔を知らないらしい。
新顔だ、と常一は判断した。
さあねえ、と男たちは拳銃を弄ぶ。ちらちらと射線が常一を捉えては離す。この男たちの左手薬指の爪も緑色だ。
「あの世に行く前に土産話の一つでもしてやりてえところなんだが、色々と事情があってよ。込み入ったことは言えねえんだ」
それでいい。常一は一安心した。
が、得意の絶頂にある男たちはつい口を滑らせた。
「ほんと、この町の住人は馬鹿だよなあ。自分たちが食わされているものの正体も知らない。あの魚肉ソーセージはな──」
「おまえたちは悪だ」
常一は男たちの声を遮った。
そう言いつつ、常一は男たちの背後に影を認めていた。
だが、男たちに気づいた様子はない。
「ああ?」
激高し、男たちは拳銃を放った。常一の耳を銃弾がかすめる。
「てめえ! いまの自分がどういう立場か分かってねえな!」
「あら。分かってないのはあなたたちじゃない」
氷のように冷たい声が男たちの背後で響いた。
男たちが振り返るのと、岬の盲導犬が廊下の奥から飛びかかるのは同時だった。盲導犬の鋭い歯に手首を噛みつかれ、男の一人が絶叫する。鮮血が咲く。もう一人が混乱しながらも盲導犬に銃を向ける。
そこへ常一がナイフを投げた。狙いはあやまたず、銃を持つ男の手に突き刺さる。拳銃が床に転がった。
盲導犬もまた、男の喉笛のどぶえを噛み切っているところだった。
常一はさらに動く。拳銃を拾い、残った男に突きつける。
「動くな」
そう言われ、男は怯えきった顔を見せる。先ほどまでの余裕はどこかへ飛び去っていた。常一はベルトで男を縛り上げる。「痛えよお」と男は情けない声を上げた。
廊下に鮮血が加わって、さらにおぞましい景色になった。
常一は、返り血を浴びて放心している円理の体をさする。
「円理、大丈夫か?」
「あ、ああ……」
温かい。常一は手から伝わってくる妹の存在を強く意識する。
良かった、と常一は心の底から安堵した。なんとか円理を守ることができた。
しかし状況はかんばしくない。岬が捕らえた男の尋問を始めたのだ。
「あなたたちはここでなにをしていたの?」
「ふん。いくら美人に質問されても言えねえなあ」
「へえ」
薄く笑って、岬は男の股間に足を乗せた。
「踏み潰すわよ」
「ひっ!」
男は目に見えて怯え出した。視線を泳がせながら脂汗を流す。しかし、常一が助けるわけにもいかない。
それにしても羨ましい状況だ、と常一は眺めた。岬が体重を乗せれば、二つの球体はあっさりと潰れるだろう。自分に予備があるなら是非、踏んでもらいたい。
どもりながら男が話し出す。
「こ、ここは、エサにする女たちをバラして、一時保管するための場所で……」
「エサ? なんのエサ?」
「そ、それは」
「言いなさい」
岬は非情にも足に力を込めた。
それでも男はなかなか白状しない。次第に脂汗はすさまじい量になってくる。まるで蛇ににらまれたカエルだ。
次第に尋問される男に異変が現れ始める。最初、常一は男の左手薬指に注目した。青色から段々と黒っぽく変色してゆく。と思った矢先、男の体は急速に溶け出した。刺激臭が鼻を突く。岬が驚いて距離を取る。
みるみるうちに男の体は変化していった。人間から、一匹のカエルに。げこっ、とカエルが鳴きながら去ってゆく。
参ったわね、と岬が前髪を払う。
「呪いがかけられてた。たぶん、魔術師に不都合なことを言うとカエルにされてしまうのよ。これじゃあ、尋問しても意味がない」
岬の言葉に常一はほっとした。これで円理に余計なことを知らせずに済んだ。
ところで、と常一は話題を変えた。
「その犬、人を襲っていたんだが。盲導犬じゃないのか?」
「あら。わたしがいつ、この子が盲導犬だって言ったの?」
そう言われてみれば。
確かに岬は一言も盲導犬とは言っていない。だが、常一や円理の誤解を平然と受けていたではないか。あれでは嘘をついているより質たちが悪い。改めて岬の性格の悪さを思い知った。が、疑問が解決したわけではない。
じゃあ、と常一は続けて尋ねる。
「この犬はなんなんだ?」
「使い魔よ。言ったでしょう? わたしは力を得たんだって」
岬は立ち上がり、鼻を使う。
「この建物にも使い魔がいるようね。大方、死体を利用した存在でしょうけど」
死体、という単語に円理が急に反応した。
円理は常一の腕をつかみ、必死の形相で訴える。
「二果が! 二果が大変なんだ!」
「落ち着け、円理。なにがあったのか順番に話してみろ」
常一に体をさすられ、円理はたどたどしく話し出した。
二果と一緒に廃病院を探索したこと。手術室で手足が動き出して二果に襲いかかったこと。二果を残して自分だけ逃げてしまったこと。
円理はいまにも泣き出しそうな表情でお願いした。
「兄さん。頼む。二果を、助けてくれ」
「分かった」
常一は円理を強く抱きしめて約束した。円理も常一の背中に手を回し、力一杯シャツをつかんだ。
愛おしい、と常一は愛に苦しんだ。この愛が妹を殺す。その前に自分は円理の前から姿を消すべきだろうか。だが、円理はまだ子供だ。保護者を必要としている。常一はそうやって決断を先延ばししてきた。
腕の中で甘えてくる妹がいる。いまは。いまは一緒にいたい。
少し間を置いて常一は円理を離し、岬に向き直る。
「岬さん。円理を頼む。家まで送ってくれ」
「あなたは?」
「二果を助ける」
「そう。気をつけて」
岬に見送られ、常一はナイフを持って手術室に向かった。
斧でかんぬきがかけられた手術室は、しんと静まり返っている。ここか、と常一はナイフを見た。大きく深呼吸。
そして、ナイフを自分の胸に突き刺した。
瞬間、熱を自覚する。背中が燃えるように熱い。灼熱の棒を突き入れられたようだ。思わず苦悶が漏れる。それでも常一の内部にある背骨は容赦しない。作り変える。常一という存在を作り変える。
背中から金属的な棘が無数に飛び出てきた。耳障りな金属音を鳴らしながら常一の体に絡みつく。まるで黒い甲冑におおわれてゆくようだ。禍々しい装甲に身を包む悪鬼ができあがる。兜のような頭部から赤い眼光が漏れ光った。
変貌は一気に完了した。
常一の手刀が一閃。手術室の扉が両断される。
手術室は地獄だった。それを新たな地獄で上書きする。
次々と死したる手足が常一に飛びかかる。女たちの手足が常一に絡みつく。だが、いくら締め付けても常一の装甲が歪むことはない。
常一が床を踏みしめれば敵が砕け、腕を振るえば敵が切断される。彼我の強さは圧倒的な開きだ。それでも数が多い。加えて、室内には被害者たちの怨念が残っている。彼女たちは叫ぶ。
寒い。ここは寒いわ。暗くてなにも見えないの。助けて。誰か助けて。
常一は大きく口を開ける。そして、部屋にこもる怨念を食らった。あああ、と部屋に彼女たちの叫びが残響する。いまの常一は霊的な存在でさえ胃の中で消化し、おのれの肉へと変えてゆく。
力が。力が常一の内部に満ちる。
肉と言えば、忘れてはいけない存在があった。二果だ。
床に倒れた二果はすでに事切れていた。苦痛に歪んだ顔。どれだけ苦しかっただろう。遅かったか、と常一は拳を握る。あまりにも強く握るものだから、拳の間から血が滴り落ちた。その数滴が二果の青ざめた唇に触れて──。
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