第3話:昔の女

 常一じょういちみさきと盲導犬を家に上げ、居間で話を聞くことにした。とりあえず麦茶と水羊かんを出す。それから雨戸を開けると、風が吹き込んできて、吊るした風鈴が涼しげな音を鳴らす。


 この家にはクーラーなんて文明的なものはない。その代わり、風が各部屋を循環し、暑さがこもりにくい作りになっている。昔の人の知恵というのはなかなかに侮れない。おかげで猛暑をしのぐことができる。


 もちろん、扇風機の活躍も忘れてはならない。一〇年以上、働いている老骨は今日も意気軒昂だ。

 岬は麦茶で喉を湿らす。からん、と氷が音を立てた。


「素敵な家に住んでいるみたいね。ここに来るまで暑くて仕方なかったけど、この中は涼しいわ」


 岬のとなりでは盲導犬が体を伏せたままじっと動かない。よく訓練されているようだ。

 一方、円理えんりは兄と岬を交互に見ている。なんだか不機嫌そうだ。常一に自己紹介するようにと言われても、最低限のあいさつしかしなかった。岬をひどく警戒しているように見える。


 しかし、いまはそれどころではない。常一は岬に聞きたいことが山ほどある。


「岬さん。いままでどこに行っていたんだ。探したんだぞ」

「あら。メールは送ったじゃない」

「わたしは神秘の扉を開けた。それしか書かれていなかった。あれはどういう意味なんだ?」

「言葉どおりよ。わたしは求めていた神秘をようやく見つけたの」


 岬の瞳は灰色で、感情の輝きとは無縁な、無機質なきらめきがある。まるで鉱石のようだ。そこにどんな希少鉱物が含まれているのか、読みきれない。

 ただ、以前の岬が人当たりの良い性格だったかというと違う。


 あの頃、岬の髪は円理と同じくらい長かった。長い黒髪をなびかせ、颯爽さっそうと学内を闊歩かっぽする姿は多くの男子学生を惹きつけたものだ。ただ、彼女は変人でもあったと思う。日陰で咲く花のような人だった。薄暗い話題にことのほか興味を示し、無遠慮に際どい単語を口にするものだから、彼女を嫌う者も多かった。


 しかし美人であることには違いがない。彼女に近づこうとする男は跡を絶たなかった。そんな彼女が何故、常一に興味を示したのか。常一は納得できる答えをもらっていない。


 怪奇小説や幻想小説を好み、世界の暗がりを見つめることを楽しみとしていた岬。彼女が見つけた神秘とはなんだろう?


 ふと、常一は岬がいつまで経ってもタバコを取り出さないことに気づいた。


「灰皿、出そうか?」

「お気づかいなく。タバコはやめたわ」

「やめた? あんなに美味しそうに吸ってたじゃないか」

「そうなんだけどね。この子の体に障るじゃない」


 笑って、岬はとなりで待機する盲導犬を撫でる。ずいぶんと大切にしているようだ。

 突然の別れと、予期せぬ再会。こうして言葉を交わしてみれば、しばしの断絶などささいなことだったように思われる。常一はごく自然に岬と会話を交わしていた。


 不意に円理が怖い顔をして常一の袖を引っ張った。


「兄さん、ちょっと」

「ん? どうした?」

「いいから、ちょっと」


 円理は立ち上がり、居間のとなりにある台所に常一を連れて行こうとする。

 仕方なく常一は岬に一言、断りを入れた。


「ごめん、岬さん。ちょっと待っててくれ」

「分かった。少しお庭を見させてもらうわね。──ラヴ、コーナー」


 ラヴと呼ぶ盲導犬に命じて、岬は縁側に移動した。盲導犬はぴたりと縁側の縁で止まってみせる。一人と一匹は、そこに座って花々の香りを楽しむ。目が見えなくても花を愛でることはできるのだろう。

 一方、常一と円理は台所に移って、小声で話し出した。円理は、兄と岬がどんな関係か気になって仕方ないようだ。


「兄さん。あの女は何者なんだ」

「何者って、大学時代の先輩だよ」

「それだけか?」


 円理は、常一と岬が深い仲だったことに気づいているようだ。少なくとも、先輩と後輩という関係だけではない、と確信しているに違いない。やはり正直に言った方がいいだろう。


「あー、実はな。付き合っていたんだ」

「そう、なのか……」


 円理は急に元気がなくなってしまった。

 ははあ、と常一は察した。


「おまえ、ヤキモチを焼いてたんだな」

「そんなわけがあるか!」


 円理が顔を真赤にして常一にパンチした。

 ぐふっ、と常一はあえいだ。腕の力だけにしてはなかなかいいパンチだ。


「あ、ありがとうございます……」


 何故か敬語になった常一を、円理は虫でも見るような目で眺める。

 ぞくぞくと背筋を走る感覚。常一にとって至福の瞬間だ。

 円理の声はいかにも苦々しい。


「我が兄ながら気持ち悪い」

「もっと。もっとお願いします。俺の存在価値を完全に否定するように」

「寝言は寝てから言え」

「そういうところが可愛い……食べちゃいたい」

「また殴られたいか?」

「それはそれでうれしいが、いまは来客中だしな。ご褒美はあとにとっておくよ。俺はお弁当の好物は最後に残しておくたちなんだ」

「この変態め」


 円理の罵りを心地よく受け止めながら常一は居間に戻った。

 居間の縁側では岬と盲導犬が相変わらず座っている。

 その背中に常一は声をかけた。


「戻ったよ」

「あら、早かったのね。──ラヴ、ストレート」


 岬は盲導犬に案内され、まっすぐ元の席に戻った。

 常一もテーブルの前に座る。ふと、気づいた。三つあった水羊かんは容器を残してきれいに食べられてある。


「ん?」

「どうしたの?」と岬。

「いや。水羊かんが食われているんだ」


 常一の説明に、岬は初めて情けない顔をした。あっちゃあ、と笑う。


「ごめんなさい。たぶん、この子よ。さっき、ちょっとだけわたしから離れたんだけど、たぶんその間に食べてしまったのね。この子、食いしん坊だから」


 岬のとなりにいる盲導犬は「わたしは知りませんよ」と言うかのようにしれっとした顔だ。が、口元にあんこがついていた。時折、舌を出してあんこを舐める。完全犯罪とはいかなかったようだ。


「ラヴ! ノー!」


 相棒の犯行を知った岬は早速、厳しくしかり出した。服従訓練というやつだろう。しょんぼり、と耳を垂らした犬の姿が悲しげだ。

 遅れて居間に戻った円理が何事かといぶかしむ。


「一体どうしたんだ?」

「実は岬さんの犬が水羊かんを食べてしまってね。ああ、でも意外だ。盲導犬は完璧な存在だと思っていたんだが。でも、そうでないと分かって、かえって興味が湧いたよ。愛嬌があっていい」


 犬の粗相を説明しながら、常一はみずからの率直な感想を語った。

 盲導犬という言葉は知っていても実態についてはなにも知らない、と思わされた。

 服従訓練を終え、岬は苦笑いした。


「そりゃあ、生き物だもの。訓練士の人たちはちゃんと訓練してくれるし、それはとても厳しいものなんだけど、時間が経つとしつけが甘くなる部分もあるのよ。わたしも使用者としてやれることはやるんだけど、それでもね」

「実は、俺は犬とか動物が苦手なんだ」


 常一は長く伸ばした髪を撫でる。


「どうも嫌われるみたいでね。俺としては仲良くしたいんだけど、なかなか上手くいかない。でも、いまのような話を聞くと、改めて仲良くしたいって思うよ」


 さて、と常一は真面目な顔になって岬を促す。


「中断してしまったが、岬さん、改めて話を聞かせてくれ。一体、親父になにがあった?」


 常一だけでなく、円理も岬も真剣な表情になった。

 和んでいた空気が引き締まる。

 口を開いた岬の声が床を這う。低く、低く、足元から室温を下げるようだ。


「その前に聞かせて。ジョー君も、それに円理さんも、あなたたちは真実を聞く勇気がある? 聞けば、世界は変わってしまうわ。それでも後悔しない?」


 常一と円理は顔を見合わせた。円理が無言でうなずく。

 となれば、常一も迷っている時ではない。岬の問いに答える。


「大丈夫だ。話してくれ」


 そして、岬は静かに語り出す。この町で行われている忌まわしい行為について。

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