第2話:盲目の探偵

 常一じょういちはふだん、早朝の起床とともにパソコンの電源を入れる。そして、テキストエディタを立ち上げ、うんうんうなりながらキーボードを叩く。小説を書くのが常一の唯一の趣味だ。三〇分ほどの執筆時間は、一日の中でもっとも充実している。


 ただし、常一の腕前はさしたるものではないようだ。小説投稿サイトに投稿しているが、目立った反応はない。それでも書き続けているのは、書くという行為に魅せられているからだろう。


 だが、父が死んだ次の日、常一はいつものように書くことができなかった。三〇分、ただパソコンの前でうなっただけ。壁紙にしてある犬の可愛らしさを再確認したのが唯一の成果だろうか。


 常一の心に静かな波が立ち始めている。かすかに、なにかに気を取られると意識できないほどかすかに、神経が乱れているようだ。


 諦めて、朝の支度を始めることにした。


 雨戸を開けると、縁側からは父が手入れしていた庭がよく見える。夏らしい青空の下、庭が輝いているかのようだ。アサガオが朝露に濡れて光る姿を見て、常一はぼんやりと考えた。これもこれからは自分が世話してやらなければならない。


 目覚めた時、父がいないという違和感があった。存在しないことの存在感とでも言おうか。例えば、父はいつも早起きだった。しかし、常一が起きてみると家の中の空気が動いていない。その淀みは常一の心象を表しているようだ。


 三人家族が兄妹二人だけになった。一人分の空白を意識すると、どうしても気分が沈む。しかし体は不思議なものだ。家族の食事をほとんど担当している常一は、自然と朝の支度を始めていた。


 ワイシャツの上にエプロンをまとう。それだけで気持ちが切り替わるようだ。


 鍋を火にかけ、そのとなりでフライパンに油をなじませる。冷蔵庫から取り出した魚を二切れ焼き始めるといい匂いが台所に漂い始めた。一方、沸騰し始めた鍋の湯にほうれん草を投じる。

 常一がそうやって動いていると、円理えんりが起きてきた。


「おはよう、兄さん」


 円理は昨夜、よく眠られなかったようだ。ピンク色の肌襦袢はだじゅばんは少し乱れている。それを直す余裕もないのか。


「円理、大丈夫か?」

「ああ、なんとか。兄さんは?」

「俺は大丈夫だよ。円理、味噌汁は頼めるか」

「ああ、わたしの仕事だものな」


 円理の手伝いというのは、インスタントの味噌汁をポッドの湯で溶かすことだ。


 片足の不自由な円理が台所に立って火や刃物を使うのは危ない。しかし、円理にもできる手伝いを用意しておくのは大切なことだ。それに常一には少しだけ横着をして味噌汁を作る手間を省きたい気持ちもある。朝食の度に味噌汁を自分で作るのはなかなかの手間なのだ。


 ほどなくして朝食ができ上がった。焼き魚にほうれん草のお浸し。白いご飯。それに味噌汁。お浸しはわさび醤油なのが村木家の常だ。


「いただきます」

「いただきます」


 兄妹はそれぞれの座布団に座り、テーブルを挟むように向かい合った。手を合わせて食事を始める。テレビの音が流れる中、二人は談笑を交わす。


 円理は魚の小骨をはしできれいに取りつつ、いつものように兄の腕前をほめる。そう、いつものように。そう振る舞おうとしているように見える。それもまた円理の戦いなのかもしれない。父がいた頃の暮らしを壊してたまるかと。


「うん、なかなかだ。兄さんは料理に関しては及第点をあげられる」


 円理のまわりくどい称賛。


 いつのも妹だ、と常一も焼き魚を一口、口に入れた。熟成された味わいがたまらない。円理の言うとおり、ご飯がどんどん欲しくなる。少し焦げていたが、生焼けで腹を壊すよりはずっといい。二杯、三杯と、常一はお代りする。痩せているが、常一はかなりの大食だ。


 常一はほうれん草にも箸を伸ばす。


「こっちのほうれん草のなかなかだぞ」

「どれどれ」


 うーん、と円理は満面の笑みでうなる。


「目が覚める。やっぱり、わさび醤油はいいね」

「おまえが作ってくれた味噌汁も美味いよ」


 常一は味噌汁をすすりながら答えた。最近のインスタントは侮れない。しじみのだしがよく出ている。


 テレビから流れてくる国営放送のニュースは地方版に移っていた。しかし、父の不可解な死には一切、触れられない。

 それについて円理はこう語る。


二果にかが言っていたよ」


 二果というのは円理が幼い頃から仲良くしている子だ。


「彼女が幼い頃、母親が亡くなった。それから二果は一日中、テレビを見るようになったそうだ。二果はずっと、人が亡くなればテレビのニュースになると思っていたんだな。祖母からそうではないと告げられて、なんとも言えない気分になったそうだ。その気持ちがようやく分かったような気がする」


 食べ終えて、円理は箸を置いた。

 まっすぐに兄を見すえる。


「兄さん。やっぱりわたしは納得できない。世間が父さんの事件を葬り去ろうとしているなら、わたしたちが解き明かすしかないじゃないか」


 円理は常一をじっと見つめた。訴えかけるような視線だ。


 常一は円理の目を見るのが苦手な時がある。自分を慕う視線が息苦しいのだ。自分はそんな立派な人間じゃない。狡猾なまでに波風を避けて生きてきた。一方、円理は物怖じせず、気に入らない人間には猛然と食ってかかるような戦闘的な性格だ。兄妹なのに、どうしてこうも違うのだろう。母親が違うせいだろうか。


 円理の強さは美しさにも通じている。だが、その美しさは彼女にとってプラスに働いているだろうか。常一にはそうは思えない。円理の美しさは周囲に波紋を呼び起こす。その波が円理自身をさらってしまいそうになったこともあった。


 将来が不安だ。常一は円理の母親にお願いされている。円理を守って欲しいと。


 だから常一は円理の安全を第一とする。

 あえてずるい言い方をした。


「事件の手がかりはなにもない。それじゃ調べようがないだろ」

「父さんは深夜に家を抜け出してなにをしていたんだ? 兄さんはなにか聞いていないか?」


 兄妹の父、計良けいらは生前、町役場に勤める公務員だった。町内会でも消防団でも評判はいい。それだけでなく、趣味で郷土史を研究し、そのサークルも主催していた。さらには震災関連のボランティアのために隣県にも出かけることがあった。五〇歳を過ぎてもなお盛んな父親。それが計良の顔だった。


 その父が殺された。殺されたのも悔しいが、遺体のあつかいも許せない。犯人を必ず見つけてやる。

 そう訴える円理に、常一はうなずけない。


「なにも聞いていない」


 常一が時計を見ると、八時を回っていた。本来なら常一も円理も学校に行っている時間だ。

 忌引きびきということで今日から休み。とは言え、常一はこれから葬儀の準備で忙しくなる。今朝のような平穏はしばらくないだろう。


 学校と言えば、常一が勤める高校には円理も在籍している。徒歩通学が困難な円理は常一の車で学校に通うのが常だ。


 円理は音楽の才能に恵まれている。ただ、英語は苦手のようだ。そこさえ克服すれば、音楽科のある大学に行くのは難しいことではないだろう。ただし、父が亡くなったいま、経済的な問題も出てきた。なんとか自分の手で円理が一人前になるまで育てないと。それが兄としての責任だ。


 不意に玄関で呼び鈴が鳴った。


 誰だろう? 常一が玄関に行くと、女性が一人、立っている。その横には大型犬が付き従う。大型犬の体には窮屈そうなハーネス。

 盲導犬だ。


 常一は犬をしげしげと見つめた。犬種けんしゅは確かラブラドール・レトリバーだと思う。

 黄土色の体毛は短く、すらりとした体躯が見て取れる。まるで王者のような堂々とした立ち姿だ。窮屈そうなハーネスを、むしろスーツのように誇らしげに着こなす。そう、この犬はいま、仕事の真っ最中なのだ。


 そして、盲導犬を従えた若い女性には見覚えがある。若い女性の、細い柳のようなたたずまい。すらりと伸びた長身にボブカットとパンツスーツがよく似合う。年齢は常一と同じくらいだ。

 常一はしばし呆然と立ち尽くした。


「岬さん……」

「その声はジョー君ね。久しぶり」


 朗らかに笑う岬は、しかし常一を見ていない。彼女の視線は宙をさまよっている。目が見えていないんだ、と常一は察した。


 相羽岬あいばみさき。彼女は、常一が大学にいた頃の先輩であり、恋人でもあった。だが、岬は突然、姿を消した。一通のメールを常一に残して。

 再び現れた岬は盲目になっていた。そして突拍子もないことを言い出す。


「わたし、いま探偵をしているの。それでジョー君に仕事をお願いしたくて来たわけ。あなたたちのお父さんとも関係してるわ。わたし、お父さんに油野養殖という会社を調べて欲しいってお願いしていたのよね。それを息子のあなたに引き継いで欲しいの。もちろん、お礼は弾むわ」

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