人魚の里に胡弓が鳴れば

北生見理一(旧クジラ)

第一章:静かに腐敗する

第1話:父の死

 追われた者がいる。悪とみなされた者がいる。

 俺がそうだ。あなたがそうだ。

 だから、妹に殺される結末に至ったのだろう。



 古民家に胡弓の音色が響く。リフォームされて現代の息吹が吹き込んだ家は、なるほど家主の趣味の良さを表す。平屋建てで、離れも含めるとなかなかに大きい。元々は自作農の家だったと聞く。


 常一じょういちにとって慣れ親しんだ我が家だ。

 大学を卒業してこの家に戻ると、父と酒を飲む機会が自然と増えた。常一はその時間を楽しんだものだ。


「今夜はきれいな月が出ているね。一杯、どうだい?」


 それが父の誘い文句だった。息子に対してもていねいな態度を崩さない人だったと記憶している。


 常一が父と縁側で酒を飲む間、妹の円理えんりは胡弓を弾くのが常だった。長い黒髪に着物をまとった美しい姿は、古民家での暮らしに溶け込んでいる。木材で作られた古民家が呼吸するのだとしたら、その呼吸にぴったりと合わせたかのようだ。そこに物憂げな胡弓の音色が加われば、幽玄としか言い様のない世界が現れる。


 月をさかなに酒器を傾ける穏やかな時間。酔い心地が快い。

 とかくいがみ合いが絶えない現代とは隔絶した暮らし。

 こんな暮らしがずっと続くのだと思っていた。



 父が死んだ。自殺だという。

 常一が二四歳、円理が一六歳の時だ。


 冷たい霊安室に寝かされた父の遺体に対面した時、村木常一むらきじょういちは改めて思った。自殺ではない。誰が見ても他殺だ。五〇歳を超えて引き締まった体つきだった父は、どうにも締まらない体になっていた。強いて言うなら、サンマからきれいに骨を取り除いたような状態だろうか。


 欠損している部分も多い。猛獣が食事をした後のように見える。


「背骨が抜けています」


 背後に立つ医師がそう告げた。感情の薄い声音が益々、事態の非現実さを表しているように思える。背骨がない。あまりにもおぞましい死に方だ。


 冷房は効いている。しかし、七月の蒸し暑さがここまで届いているかのよう。常一は背中に汗が伝うのを感じた。じっとりと、粘るような暑さだ。何者かの妄想が蛇となって首を絞めている。常一はそんな感覚を抱く。

 本当に、と常一は声を低めて確認する。


「本当に自殺なんですか?」

「ええ、間違いありません」


 非常識な答え。


 医師に激しく反応したのはとなりに立つ妹の円理えんりだ。円理は左手の杖で力一杯、床を突いた。リノリウムの床はその力を吸い込んで鈍い音を立てる。


「自殺だと? 自分で背骨を抜いたっていうのか? 馬鹿らしい!」


 円理はものすごい剣幕で医師をにらみつけた。いまにも杖で医師に殴りかかりそう。片足の自由が効かない体であることはこの場合、幸いと言えようか。その代わり円理は、着物の袖を盛んに振り回して怒りを表す。


 激高した妹をなだめるのはいつも常一の役割と決まっている。


「円理、落ち着け」


 常一は円理の小柄な体を抱きしめた。頭を撫で、長い黒髪を指でく。最初、円理は常一の腕の中で医師への暴言をくり返していた。それでも常一が「分かったから。話は後で聞く」とささやき続けると、次第に落ちついていった。


 これ以上、ここにいても仕方がない。


 常一は円理を連れて退出した。まずは葬儀会社に連絡する。長く不毛な気づかいから始まり、父の遺体を一旦、保冷してもらうまで長い時間を要した。


 常一はようやく病院を出た。明け方が近い。夜の底が白くなっている。

 外の空気が新鮮に感じられるのは淀んだ空気を吸い過ぎたせいだろう。


 常一は円理を連れて駐車場に停めた車に向かう。その間も常一は円理の肩を抱く。円理のかすかな震えは、怒りだけではないだろう。これからどうなるのか、という不安もあるに違いない。男性的な、鋭い口調で話すと言っても、円理はまだ一六歳。肉親の死に動ずるな、という方が無理だ。


 対して、常一はすでに大人だ。円理が通う高校の教師を勤める。耳を隠す程度に長い髪に眼鏡という外見は、柔和な文学青年と言ったところ。常一は静の雰囲気をまとって教壇に立つ。生徒思いの優しい先生という評判だ。


 ただ強いて難点を上げるとすれば、妹を愛し過ぎている点かもしれない。いまもまた、妹を守らなければならないという思いを強くしていた。


 円理が車に乗り込む時、甲斐甲斐しく体を支える常一の様子は、恋人への献身にも近い。妹を溺愛すると評判が立てば、好ましくないうわさも立つものだ。特に兄妹きょうだいが住むような小さな町では。


 しかし、そうした声が聞こえてきてもおかしくないほど、円理は美しい少女だ。絹のようにしっとりと輝く黒髪に、夜の空色のようにきらめく瞳。彼女は母親が残した着物をまとい、杖を突いて町を行く。片足が不自由であることは、彼女の欠点というより、非現実的なたたずまいを強調しているかのようだ。


 運転席のドアを開け、ふと常一は明け方の町に目を凝らす。


 霞が出ている。山々に囲まれ、風雪によって色あせてゆく町並みは、平成という時代から取り残されているかのよう。先ほど出てきた町立病院など、コンクリート建ての近代的な建物がかえって悪目立ちする。高層建築は一つもない。このまま霞の中に消えてしまいそうだ。


 神室町かむろちょうは小さな田舎町だ。人口はとうに一万人を割った。緩やかな滅びを確実とする、どこにでもある地方自治体。農業と林業の他に目立った産業は少ない。いずれは豊かな自然と完全に同化するだろう。そんな諦めが町をおおう。


 この町で唯一、元気なのは油野養殖あぶらのようしょくの関係者くらいだろうか。この会社は、数年前にやってきて、いまではすっかり町の中枢に収まった。油野養殖で働いている、と言えば一目置かれる。現在の町長はこの油野養殖と関係が深いと聞く。黒いうわさも。


 このような故郷に対し、常一の感慨は特にない。


 彼の目は、静かに腐敗する町と人を淡々と眺める。水のように澄んで、波の立つことのない静かな心は、達観と言うには出来過ぎか。一方で、この町での暮らしを愛おしく思う。終わりの時まで声を上げることなく、ただ静かに、みずからの末端が腐り落ちるのを眺める暮らしを。そんな田舎町での日常は、父の死をもって、いよいよ狂い出したのかもしれない。


 常一が運転席に乗り込んだ時、円理がぽつりと漏らす。


「父さんは二度、殺された」

「二度?」

「一度目は何者かによって直接。二度目はその事件を隠蔽しようとする者によって間接的に」


 円理の声は次第に力強さを取り戻してゆく。

 凛とした声で円理は訴えた。


「兄さん。父さんを殺した犯人を探し出そう。息子して、娘として、わたしたちにはその義務がある」

「しかしな」


 常一は渋い顔をしてハンドルを指先で叩く。きれいに整えられた爪が印象的だ。


「推理小説とは違うんだぞ。俺たちはふつうの市民だ。俺は教師で、おまえは高校生。捜査する権限なんてない」

「確かに父さんは、密室で殺されたわけでもないし、不可能犯罪で殺されたわけでもない。名探偵の出る幕はないだろう」


 父の遺体は水田に放置されていたらしい。密室でも不可能犯罪でもない。円理の言うとおりだ。このような事件にはロジックをねじ伏せるような腕力が必要ではないか。その腕力が妹にはない。常一の指摘はそこにある。

 それでも円理はひるまない。きっ、と柳眉を逆立てる。


「だが、殺されたのは疑いようもない。兄さんは、このまま泣き寝入りしろっていうのか」


 円理は助手席から身を乗り出して常一に食ってかかった。彼女は兄に対しても反抗することをいとわない。

 兄さん、と円理の細い手がみずからの右足を抑える。


「わたしはこの足だ。一人では捜査できない。兄さんの手助けが必要なんだ。頼む」


 円理の目は真剣だ。

 父の死と、その事件を隠蔽しようとする何者かに対し、怒りを燃やしている。その気持ちに同調できたら、どんなにいいだろう。

 ため息をついて常一は首を振った。


「駄目だ。俺はおまえを危険な目にあわせるわけにはいかない」

「この臆病者」


 吐き捨てる円理を無視して常一は車を出した。ヘッドライトが霞をつかむ。視界が悪く、なかなかスピードが出せない。こじんまりとした商店街を抜け、坂道を登ってゆく。円理は無言で、道の脇にある杉林に目をやるだけ。常一も無言だ。


 車内には居心地の悪い空気が漂う。常一は妹の真剣な頼みを断ってしまった。君子危うきに近寄らず。周囲の人間には常一がそんなモットーを抱いて生きているように見えるだろう。自分はふつうの人間だ、と常一も常々そう言い聞かせていた。我ながら面白味のない人間だと思うが、これは仕方ない。


 すでにモラトリアム期間は終わった。これからは社会人としての長い人生を生きなければならない。その坂を必死で登るだけだ。


 いま、常一が運転する中古車は、エンジンをうならせながら快調に坂を登っている。日々の整備が重要だ。きちんと手入れしてやれば、エンジンはいつもと同じ調子を維持する。それと同じことだろう。淡々と自分自身をメンテナンスする常一の目に強い感情はない。


 いつか壊れる時が来る。その時は捨てられる時が来たのだと思うしかない。そう思って常一は日々を生きてきた。大人になったということか、酒好きの同僚と飲む酒が五臓六腑ごぞうろっぷにしみる。


 そんな時に父の訃報が届いた。


 これからどうなるのか、円理は不安そうだ。妹を守らなければならない。

 常一の決意を乗せて車は家についた。


 平屋建ての古民家を改装した家は父の趣味だ。そこから渡り廊下をたどっていけば、小さな離れがある。

 円理が降りるのを手伝ってから、常一が玄関の鍵を開けようとした時。


「開いてる?」


 鍵が開いている。出かける時に確かにかけたはずなのに。

 嫌な予感がして、常一は立て付けの悪い玄関を勢い良く開けた。何者かの足跡がそこら中についている。


 何者かが侵入した。


 円理がぎゅっと常一の袖をつかむ。

 常一は靴を脱いで円理に向き直る。


「円理。ここで待ってろ。見てくる」

「嫌だ。わたしも行く」

「おまえを危ない目にあわせたくないんだ」

「ここだって危ないだろう。わたしにとって一番、安心できるのは兄さんのとなりだ」


 仕方ない。常一は円理を連れて家の中を見て回った。床板がきしむ度に侵入者に聞こえたのではないかと不安になる。しかし、その不安は杞憂きゆうだった。居間、寝室、台所、書斎、書庫、そして離れ。どこにも侵入者の姿はなかった。荒らされた形跡もほとんどない。


 例外は父の書斎だ。デスクトップのパソコンが破壊されている。


 盗られたものはないようだ。それがかえって不気味に思える。侵入者の目的はなんだ? 常一には皆目見当がつかない。

 不安を感じながら警察を呼んだ。しかし、警察はいい加減な態度で告げるのだった。


「ああ、物盗りですね」


 常一は、父が自殺だと断定する医者と同じ臭いを感じ取った。それは円理も同じだろう。円理はまたも激しい反応を示した。


「物取りだと? この状況を見て、そんなふざけたことを本当に考えているのか?」

「我々も忙しいんですよ」


 警官たちの口調は軽い。


「それじゃ、我々はこれで」


 警官たちが去っていった。兄妹は、何者かに荒らされた我が家に残される。

 家を片付けたところで兄妹の暮らしは元に戻らない。

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