第21話:逃げる?
雨が降るせいか、白い
絵の中に入れば、様々な不都合を感じることになる。
例えば、無意味とも思える付き合いに参加する度に、愚痴やら説教を聞かされるというのは、田舎ならでは。そうした儀式に参加することで初めて絵の住人になれる。できなければ、絵の外に追い出されるだけだ。
では円理はどこにいるのだろう?
絵の中? 絵の外? それとも?
円理にとって世界の中心は兄だった。自分を守ってくれる存在だと信じてこれまで生きてきた。しかし、兄への信頼が揺らげば、たちどころにみずからの立ち位置を失う。
雨滴が傘を叩く音が激しい。雨足が強くなってきた。
円理は屋根にあるバス停で一休みすることにする。バスは二時間に一本。いまは誰もバス停にいない。
円理はベンチに座って足をもみつつ、空を見上げたりしてぼんやりした。雨の勢いは一向に収まらない。出かけるのは無理があったか。そうも思うが、いまの状態で兄と顔を合わせているのも苦しい。こんな時、自由に走れる足があれば、と思う。
心が定まらないままひとりごちる。
「わたしは何者なんだろう?」
自分は人魚の血を引くという。図らずも、人魚を巡って争う魔術師たちの注目は円理一身に集まっている。円理の心中などおかまいなく。
また家の中の子供としても円理は迷っている。父が好きだ。兄はもっと好きだ。では、兄が父を殺した時、一体どうすればいいのか。
真実を追おう。最初はそう息巻いていた。しかし、いまは真実を知るのが怖い。このままなにも知らないままでいれば、自分は幸せではないか。そんな弱気が蛇のように鎌首をもたげる。いまの円理は蛇ににらまれたカエルだ。動けない。
このままなにも知らないでいられれば、兄に抱いた幻は滅ばずに済む。例え兄から離れたとしても、自分の中の兄が死ぬことはない。そんな風に兄を想って生きてゆく方が幸せではないか。
もし、いまこの瞬間に遠い街に出発するバスがやってきたら、円理はそこに飛び乗ってしまうかもしれない。あてがあるわけではない。一人で生きてゆく力があるわけでもない。それでも円理は息苦しさに嫌気が差していた。
しかし、円理の前に現れたのはバスではなくて。
ひょこっ、と視界に赤い傘が現れた。
「やっ、円理。こんなところでなにしてるの?」
傘を差して現れたのは
雨はまだ降り続けている。雨滴が屋根を叩く音だけが響く。
どれくらい沈黙していただろう、円理がぽつりと漏らす。
「わたしは兄さんに依存していた」
「依存。そうだね」
「わたしはずっと兄さんが好きだった。妹してだけでなく、女として愛していた」
円理は初めて二果に秘密を告げた。
二果の横顔をうかがったが、二果は取り立てて反応を示さない。
だから円理は身を乗り出して尋ねる。
「驚かないのか?」
「ま、円理を見てればね。予想はしてたよ」
「そう、か……」
「でも円理が自分で気づいてくれてうれしいよ。確かに円理は先生に依存していたかもね。依存する心を恋心だと思っていた、なんて言えるかも。じゃあ、円理はどうするの? 諦めてふつうの兄妹になる?」
ふと二果のスマートフォンがなにかの通知を知らせる。しかし二果はその知らせを無視した。かまわず話を続ける。
「あたしは円理に幸せになって欲しい。その幸せっていうのは、世間がいう幸せかもしれないし、そうじゃないかもしれない。大切なのは円理が納得できること。円理はどうすれば自分が納得できると思う?」
「わたしは、兄さんは立派な人だと思っていた」
「いまは?」
「そうじゃない兄さんもいると思う」
円理と二果が話す間も通知は続いた。もう、と二果は根負けしてスマートフォンを取り出して確認する。その顔がくもった。
どうした、と円理は二果に尋ねる。
「なにがあった?」
「まずいことになったかも。先生が」
「兄さんが?」
「昔、グールメイジって殺人鬼が仙台にいたよね。そのグールメイジの正体が先生じゃないかって、ネットに流れてる」
「なんで急にそんなことが?」
グールメイジとこの町になんの関係が? 円理にはそれが分からない。あまりにも唐突過ぎた。まるで何者かの意志が介在しているかのように思えてならない。
二果は自分の考えを語る。
「たぶん、反撃だね」
「反撃?」
「あたしたちは油野養殖に攻撃を仕掛けてる。それに対して油野養殖も手を打ってきたんだよ。これは部のみんなに相談しないと」
「部? 放送部のことか?」
「うん。あたしはそこで仲間を集めて事件の真相を追ってるんだよ。円理も来る? 歓迎するよ」
「わたしは……」
どうすればいいのだろう?
円理が迷っている間にバスがやってきた。大型だが、乗客はいない。バスの運転手は自動ドアを開けて、バス停にいる円理たちに声をかけてきた。
「乗りますかー?」
その声に二果が円理の反応をうかがった。
押し黙る円理に二果が優しく語りかける。
「逃げてもいいよ。あたしも一緒に行くから」
「いや」
円理は一瞬、目を閉じた。まぶたに映るのは兄との思い出。記憶の中の兄はいつも優しい人だった。だが、次々と明らかになる情報は、知らない兄の顔を映し出す。どちらが本当の兄なのか。確かめなければならない。
円理は目を開けて運転手にはっきりと告げる。
「すまないが、わたしは乗らない。わたしはまだ、この町でやらなければならないことがあるんだ」
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