第21話:逃げる?

 円理えんりは小雨が降る中、傘を差して歩いていた。神室町かむろちょうは大きな川に貫かれた町だ。その川べりをゆっくりと歩く。杖を突きながらであるから、歩む速度は遅い。その代わり、景色がはっきりと見える。


 雨が降るせいか、白いもやが漂う。水田では手入れするお百姓さんの姿がちらほら。そんな光景は絵画的でもある。見ている分には美しい景色だろう。しかし実際の暮らしは、夏の暑さはすさまじく、冬の厳しさもまた人を試す。絵からは伝わってこない生活の苦しみ。多くの人は絵を見ているだけで満足する。絵の中に入ろう、という人間はまれなのだ。


 絵の中に入れば、様々な不都合を感じることになる。


 例えば、無意味とも思える付き合いに参加する度に、愚痴やら説教を聞かされるというのは、田舎ならでは。そうした儀式に参加することで初めて絵の住人になれる。できなければ、絵の外に追い出されるだけだ。


 では円理はどこにいるのだろう?

 絵の中? 絵の外? それとも?


 円理にとって世界の中心は兄だった。自分を守ってくれる存在だと信じてこれまで生きてきた。しかし、兄への信頼が揺らげば、たちどころにみずからの立ち位置を失う。


 雨滴が傘を叩く音が激しい。雨足が強くなってきた。

 円理は屋根にあるバス停で一休みすることにする。バスは二時間に一本。いまは誰もバス停にいない。

 円理はベンチに座って足をもみつつ、空を見上げたりしてぼんやりした。雨の勢いは一向に収まらない。出かけるのは無理があったか。そうも思うが、いまの状態で兄と顔を合わせているのも苦しい。こんな時、自由に走れる足があれば、と思う。

 心が定まらないままひとりごちる。


「わたしは何者なんだろう?」


 自分は人魚の血を引くという。図らずも、人魚を巡って争う魔術師たちの注目は円理一身に集まっている。円理の心中などおかまいなく。

 また家の中の子供としても円理は迷っている。父が好きだ。兄はもっと好きだ。では、兄が父を殺した時、一体どうすればいいのか。


 真実を追おう。最初はそう息巻いていた。しかし、いまは真実を知るのが怖い。このままなにも知らないままでいれば、自分は幸せではないか。そんな弱気が蛇のように鎌首をもたげる。いまの円理は蛇ににらまれたカエルだ。動けない。

 このままなにも知らないでいられれば、兄に抱いた幻は滅ばずに済む。例え兄から離れたとしても、自分の中の兄が死ぬことはない。そんな風に兄を想って生きてゆく方が幸せではないか。


 もし、いまこの瞬間に遠い街に出発するバスがやってきたら、円理はそこに飛び乗ってしまうかもしれない。あてがあるわけではない。一人で生きてゆく力があるわけでもない。それでも円理は息苦しさに嫌気が差していた。

 しかし、円理の前に現れたのはバスではなくて。

 ひょこっ、と視界に赤い傘が現れた。


「やっ、円理。こんなところでなにしてるの?」


 傘を差して現れたのは二果にかだ。円理を安心させるように微笑む。傘をたたんでとなりに座った二果は、しかし、なにも言わない。まるで円理が話し出すのを待つように。

 雨はまだ降り続けている。雨滴が屋根を叩く音だけが響く。

 どれくらい沈黙していただろう、円理がぽつりと漏らす。


「わたしは兄さんに依存していた」

「依存。そうだね」

「わたしはずっと兄さんが好きだった。妹してだけでなく、女として愛していた」


 円理は初めて二果に秘密を告げた。

 二果の横顔をうかがったが、二果は取り立てて反応を示さない。

 だから円理は身を乗り出して尋ねる。


「驚かないのか?」

「ま、円理を見てればね。予想はしてたよ」

「そう、か……」

「でも円理が自分で気づいてくれてうれしいよ。確かに円理は先生に依存していたかもね。依存する心を恋心だと思っていた、なんて言えるかも。じゃあ、円理はどうするの? 諦めてふつうの兄妹になる?」


 ふと二果のスマートフォンがなにかの通知を知らせる。しかし二果はその知らせを無視した。かまわず話を続ける。


「あたしは円理に幸せになって欲しい。その幸せっていうのは、世間がいう幸せかもしれないし、そうじゃないかもしれない。大切なのは円理が納得できること。円理はどうすれば自分が納得できると思う?」

「わたしは、兄さんは立派な人だと思っていた」

「いまは?」

「そうじゃない兄さんもいると思う」


 円理と二果が話す間も通知は続いた。もう、と二果は根負けしてスマートフォンを取り出して確認する。その顔がくもった。

 どうした、と円理は二果に尋ねる。


「なにがあった?」

「まずいことになったかも。先生が」

「兄さんが?」

「昔、グールメイジって殺人鬼が仙台にいたよね。そのグールメイジの正体が先生じゃないかって、ネットに流れてる」

「なんで急にそんなことが?」


 グールメイジとこの町になんの関係が? 円理にはそれが分からない。あまりにも唐突過ぎた。まるで何者かの意志が介在しているかのように思えてならない。

 二果は自分の考えを語る。


「たぶん、反撃だね」

「反撃?」

「あたしたちは油野養殖に攻撃を仕掛けてる。それに対して油野養殖も手を打ってきたんだよ。これは部のみんなに相談しないと」

「部? 放送部のことか?」

「うん。あたしはそこで仲間を集めて事件の真相を追ってるんだよ。円理も来る? 歓迎するよ」

「わたしは……」


 どうすればいいのだろう?

 円理が迷っている間にバスがやってきた。大型だが、乗客はいない。バスの運転手は自動ドアを開けて、バス停にいる円理たちに声をかけてきた。


「乗りますかー?」


 その声に二果が円理の反応をうかがった。

 押し黙る円理に二果が優しく語りかける。


「逃げてもいいよ。あたしも一緒に行くから」

「いや」


 円理は一瞬、目を閉じた。まぶたに映るのは兄との思い出。記憶の中の兄はいつも優しい人だった。だが、次々と明らかになる情報は、知らない兄の顔を映し出す。どちらが本当の兄なのか。確かめなければならない。

 円理は目を開けて運転手にはっきりと告げる。


「すまないが、わたしは乗らない。わたしはまだ、この町でやらなければならないことがあるんだ」

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