第20話:逢瀬
その夜、
鎮まれ、鎮まれ、と常一は念じる。
ふすまの向こうには、眠っている円理の気配。
その寝息の悩ましさに常一はぐらりと揺らぐ。兄としての責任をすべて忘れ、背筋を貫く衝動に身を任せてしまえば、きっと最高の快楽が待っているだろう。そんな予感が常一を苦しめる。
どうすれば、どうすればいい?
不意に常一のスマートフォンに通知があった。深夜二時のことだ。
『常一先生。逢いてえです』
咲子からだった。
常一は一瞬、咲子の圧倒的な物量を思い出す。いまの常一に選択肢は残されていない。それに常一の方でも咲子に用がある。いずれ確認しなければならないのだとしたら、その時はいまではないか。などと、なにもかも自分に都合よく考えてしまう。
すぐに返事を返す。
いまから神社の境内で落ち合うことになった。
常一はそっと家から抜け出した。神社は常一の家からそれほど離れていない。おそらく咲子も徒歩だろう。そんなことを考えながら常一は暗い夜道を歩く。空には黒々とした雨雲が立ち込めていて、いまにも雨が振りそう。
神社のある小高い山が見えてみた。常一は林を切り開いて作った石階段を登ってゆく。人気のない社殿を前に、咲子は一人、境内で待っていた。境内の薄暗さが咲子の白い肌をいつも以上に強調する。
息が詰まりそうだ。ごくり、と常一は喉を鳴らす。
「咲子先生」
常一は咲子の背中に声をかける。
「こんな夜更けにどうしたんです?」
「鍵を返してねえと思い出したもんで」
「鍵?」
「計良先生がら渡されでた先生たちのお家の鍵です」
そう言って、咲子は首にかけていた鍵を取り出す。ブラウスからのぞく二つの膨らみは、悩ましいほど魅力的だった。あるいは、夜という時間の魔力がそうさせるのか。常一は手順を間違えないように質問する。
「いま、返す必要があったんですか?」
咲子は即答しない。
常一は次の一手をどうするか考えあぐねた。先に飛び込んできたのは咲子の方だ。言葉が、想いが、常一の胸に突進する。
「常一先生。わだし、なにが嫌な予感がします。このままじゃ、常一先生は大切なもんばねぐすじゃねえがって。わだしの前からいなぐなんじゃねえがって。お願えします。その前に」
咲子は、今度は体ごと常一のふところに飛び込んできた。咲子のすがるような眼差しを拒めるほど、常一は聖人ではない。
常一は内心、自嘲する。結局、自分はどうしようもなくいやしい男なのだ。
熱い抱擁。手に余るボリュームを、常一はようやく実際に確かめた。咲子の悩ましい吐息が益々、常一を狂わせる。常一は、自分の目的を果たそうと咲子の衣服をすべてむこうとした。しかし、咲子は「誰が来た時、困っさげ」と言って頑なに拒む。仕方なく、互いに局部だけを露出しての行為となった。
夏草の匂いも濃厚な慌ただしい情事。虫が寄ってくるのは二人の体に浮かぶ汗のためか。
「常一先生、わだしと逃げでけろ」
いっしょに逃げてください。
行為の間、咲子は何度もそう懇願した。媚びるような声に心が動かなかったと言えば嘘になる。常一は答えない。
分かっている。本当に抱きたいのは、本当に殺したいのは、この女ではない。体は確かに咲子の魅力に反応している。しかし、常一が愛するのはやはり円理だけなのだ。行為の最中も頭の芯は異様に冷たい。
常一のどこか本能的な部分が、警戒を解いていないような。そんな奇妙な感覚に常一は困惑した。これでは獣の交尾ではないか。
心のどこかで働く警戒心は、熱を放つと同時に益々、強まったようだ。
事が終わってしまえば、常一をあれほど苦しめた衝動もきれいに消えていた。咲子の体を利用したと言っていい。最低の行為だ。常一は罪悪感に責められながら衣服を整えた。
避妊具の処理をしつつ、咲子の体の線を目で追う。改めて思った。
こんな風に逢うのは最初で最後だろう。
空気の湿り気が強くなってきた。もうすぐ雨が降る。
「やっぱ」
咲子は悲しげに笑った。
「わだしじゃ、常一先生の心の中には住めねえんですね」
咲子の目が陰る。こういう時、常一はどうしようもなく切ない。自分にはなにもできないと分かっていても、この気持ちばかりはどうにもならないのだ。
別れの言葉を二、三、交えて常一と咲子は別れた。
常一が恐る恐る家の玄関をくぐると、幸い、円理も岬も寝ているようだ。ほっと息を漏らし、常一はシャワーを浴びてから床につく。ぽつぽつ、と雨が屋根を叩き始めた。
しかし、やはり寝付けない。
常一は仕方なくスマートフォンで時間を潰すことにした。布団の中でネットを泳ぐ。すると、こんな記事を見かけた。
『グールメイジの犯人の正体がついに判明! 田舎町の高校教師が何故、凶悪犯罪を?』
『真犯人と思しき人物が書いた小説を入手! 犯行の告白とも思える衝撃の作品!』
などと、グールメイジの正体について語る記事が目立った。
ああ、ついに。
常一は観念した。
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