第四章:兄を撃てば

第19話:いっしょにお風呂に

 次の日、常一じょういちはなかなか起きてこなかった。兄を待つ間、円理えんりは居間でぼんやりとテレビを見る。朝のニュースでは早速、常一が撮影してネットに流した動画の件を取り上げているのに軽く驚く。さらには警察の記者会見も紹介された。

 制服を着た警察幹部が記者の質問に答えている。


「昨夜、神室町の上空を軍用機が飛行したという住人の証言がありますが?」

「おそらく雷鳴と間違えたのでしょう」と警察幹部。

「しかし、軍用機は左に旋回しつつ砲撃をくり返したそうです。これはガンシップの飛行と思われます。日本周辺でガンシップを装備している軍はアメリカ以外にありません。何故、アメリカ軍が神室町の山を砲撃したのですか?」

「ですから、そのような事実は確認していないと申し上げています」


 のらりくらり。

 警察はあくまで事件を隠蔽するつもりだ。円理はそう感じた。歯がゆい。あれだけの事件が起こったのに、またしても隠されてしまうのか。


 常一が起きてこないので、まだ雨戸が閉まったままだ。薄暗い部屋の中でテレビが陰謀論を流す。あまり朝の空気にふさわしくない。

 円理が白湯さゆを飲みながらテレビを見ていると、みさきが使い魔を連れて離れからやってきた。


「おはよう、円理さん。ジョー君は?」

「おはよう。兄さんはまだ起きていないようだ」

「そう。ちょうどいいわ。話したいことがあるの」


 岬は座布団に座ってテーブルに手を乗せる。


「円理さん。あなたはこの事件をどう見てる?」

「どう、とは?」

「誰がお父さんを殺した犯人か、見当はついてるのかってこと」


 そう問われて、円理は考え込んだ。


 父の死には、村木家が生み出した背骨を巡る争いが関係していた。黒い背骨を継承した人物が父を殺したのだ。継承したのは兄だ。林崎りんざきはその背骨を兄から手に入れるために暗躍していた。そして、兄は背骨の力を使って林崎たちを撃退した。円理が見聞きした情報はそうなる。

 つまり、兄が父を殺した。


 円理はその可能性を改めて認識して青くなった。まさか、と思う。信じられない。湯呑みを持つ手が震えた。

 その様子に岬は薄く笑う。


「円理さん? どうしたの? 推理を聞かせて」

「兄……」


 円理は声を絞り出すように自分の推理を語る。


「兄さんが父さんを殺したのか?」

「そうね。いまのところ、もっとも疑わしいのはジョー君でしょうね」

「しかし」


 円理は白湯の入った湯呑みを置く。


「兄さんは何度もわたしを守ってくれた。それはどう説明する?」

「人を守ることは常に正しい目的で行われるのかしら?」

「どういうことだ?」

「利用価値があれば生かしておく。当たり前のことよね」

「兄さんがわたしを利用するために生かしておいたというのか!」


 ばん、と円理はテーブルを叩く。白湯がこぼれた。

 岬は使い魔を撫でながら笑う。


「あなたのそういうところ、わたしは好きよ」


 岬は円理の怒りを招いても一向に気にした様子がない。

 むしろ煽ってくる。


「結論を出す前にジョー君の背中を見てみたら?」

「しかし、どうやって?」

「簡単じゃない。いっしょにお風呂に入ればいいのよ」


 岬の言葉を聞いて、円理はかぁっと顔を赤らめる。

 な、な、な、と思わずどもった。


「あなたはなにを言っているんだ」

「あら。兄妹なんだし、いっしょに入るのになにか問題が?」

「それはそうだが」

「それとも、わたしの口からジョー君の体のことを聞きたい?」

「ありえない」


 兄の体のことを他の女から聞くなどありえない。円理は口の中でくり返す。わたしの体は兄さんのもの。兄さんの体はわたしのもの。

 押し切られるように話は決まった。円理はその日、兄を妙に意識してしまう。常一と目が合うと、恥ずかしくて何度も目をそらした。常一は不審げだ。


「円理? 今日のおまえはおかしいぞ」

「お、おかしくなんてない」


 夜まで時間があるのがかえって良くない。これでは意識しないでいる方が無理だ。

 そして夜になった。

 柱時計が八時を告げる中、円理は上ずった声を出す。


「は、八時になったな」

「ああ」と常一。

「に、兄さん。先に風呂に入っていいぞ」

「ん? 分かった」


 そう言って、常一はさっさと風呂場に行ってしまった。

 常一の様子が見えているはずはないのに岬はひどく楽しげに笑う。


「円理さん。今夜のことは、誰にも口外しないから安心して」

「あ、ああ」

「お風呂場から声が聞こえてきても誰にも言わないわ」

「声とはなんだ」

「美しく成長した妹を見て、兄は情欲を抑えられず……なんて、現場に遭遇できるかもしれないのよ。幸運だわ」

「あなたは最悪だ」


 恥ずかしいやら腹が立つやら。円理は以降、岬がからかってきても黙殺した。一〇分ほどして、円理も立ち上がる。岬がまたなにか言ってきたが、無視。と言うより、円理も余裕がない。これから兄に肌をさらす。もちろん、兄の背中を確かめるのが目的だ。それ以外ではない。

 ではあるのだが、いざとなると円理は気恥ずかしさが先に立つ。


「兄さん。入るぞ」

「円理? おまえ、どうしたんだ?」


 風呂桶に入った常一がすりガラス越しに見えた。

 円理は脱衣場で小さな椅子に腰掛ける。ゆっくりと着物を脱いでゆく。痩せて小柄だが、円理の女性的なふくらみはかなりのものだ。おそらく常一の周囲では咲子に次ぐだろう。円理はここに強い自信があったし、いつか兄に見て欲しいと願っていた。


 だが急に一緒にお風呂に入ることになった。気持ちの整理ができない。

 とは言え、裸のまま脱衣場にいつまでもいるわけにはいかないのも確か。意を決し、円理はバスタオルを巻いて洗い場へと入ることにした。


「は、入るぞ」


 洗い場には湯気が立ち込めている。兄はすでに体を洗ったのか、湯船に身を沈めていた。

 円理もいっしょに入ることにした。すると兄が自然に手を貸してきて、円理が転ばないように気を使ってくれる。円理も熱い湯に身を沈めると、お湯があふれてきた。さすがに二人がいっしょに入ると湯船は狭い。常一は足を大きく開き、その間に円理が座る。


 向かい合った二人はしばし言葉がなかった。

 常一は視線をさまよわせている。円理の胸や太もものあたりが気になるようだ。

 兄が自分を性的に見ている。

 そう確信して、円理はどうしていいか分からなくなった。

 円理自身も常一の体から目が離せない。痩せているが、しなやかに筋肉がついた体は円理が理想とする男性の美しさを体現している。服の上から想像するしかなかったものが目の前にあるのだ。心臓が高鳴る。


 なにより。

 大きく足を開いた常一はその猛々しい部分を隠せない。大きい。凶悪なフォルムに円理は喉が渇いてゆくのを実感する。


「に、兄さん」


 声が変な調子だ。


「変なことを考えているんじゃないか? その、そんな風にして」

「いや、これは違うんだ。おまえの体があんまりきれいだから、その、どうしても反応してしまって。決していやらしいことを考えようとしているんじゃなくてだな。不可抗力というか」

「さ、触ってもいいか?」

「おまえの方がおかしなことを考えてるじゃないか。そういうのは駄目だ。俺はもう上がる」


 円理が手を伸ばそうとすると、常一は急いで湯船から出てしまった。そのまま慌ただしく脱衣場でパジャマを着て出ていってしまう。

 その背中を円理は確かに見た。

 常一の背中に残る醜い手術痕。


 あった、と思った。やはり兄は父を殺したのだ。


 一方で、円理の脳裏はそれどころではない。常一の姿が克明に記憶され、脳裏で展開される。特に、あのたくましい部分が。子供の頃に見たものとはまるで違う。妻になるということは、あれに貫かれるということ。それを想像すると、内側が潤んでくる。

 不埒な思考を切り替えようと現状を確認した。


「兄さんは父さんを殺した」


 だが。だが。だが。


「きっと事情があるはずだ」


 考えているうちについ湯あたりしそうになった。

 円理が風呂から上がると、居間には岬と使い魔の姿しかない。


「兄さんは?」

「なんだか動転していたみたいで、すぐに寝てしまったわ」

「そう、か……」

「で、円理さん。どうだった? 背中に傷はあったでしょ?」

「ああ。あった」

「じゃあ、話はここからね」


 と言いつつ岬はポケットから小型拳銃を取り出した。ごとり、とテーブルに置く。円理に提示されたのは銃だ。金属的な光が示すのは、平和のために武器を持たないといけないという現実。こんな小さな拳銃でさえ、厳しい現実を円理に問うてくる。

 岬の言葉はまるで拳銃がささやいているかのようだ。


「あなたの身を守る武器よ」

「わたしを?」

「これはわたしが護身用に使っている銃なんだけど、あなたに貸してあげるわ」

「これでなにをしろっていうんだ?」

「誰を撃てというわけじゃない。使わないなら、それに越したことはないわ」


 岬の口ぶりはまるで兄を撃てと言っているかのようで。

 今日という一日に円理は消耗していた。円理を消耗させた当の岬はと言えば、平然とこんなことを言ってのける。


「喉が渇いたわね。円理さん。白湯でもくれない?」

「あ、ああ」


 円理は膝をすらせてポッドに寄る。手の震えが止まらない。お湯がこぼれて手にかかった。


「熱っ!」


 茶碗が転がってお湯が畳の上にまき散らされる。まるで兄に対する信頼に穴が空いてしまったかのよう。少女らしい思慕の念がすべて漏れ出してしまったら、自分には一体なにが残るのだろう?

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