第三章:産む機械
第12話:誘拐事件
今朝、
兄の
昨夜遅く、常一は帰宅したのだという。早朝になって円理が咲子に送られて家に戻った時、常一の姿があった。そして、岬を奇妙に意識していたのだ。
そして変化は岬にもある。その肌は妙に艷やかだ。色が匂うような気配を濃厚に発している。そんな岬を、常一がまた岬を見つめては視線をそらした。
かあっ、と円理は頭が熱くなった。兄が他の女を見ている。それが許せない。がたん、と席を立つ。
おい円理、と常一が
「まだ残ってるぞ?」
円理のごはんはまだだいぶ残っている。ふだんなら、米粒一つ残さず食べる円理だった。
ぎっ、と円理は怖い顔で常一をにらむ。
常一はたじろいで尋ねてくる。
「どうしたんだ? 今日のおまえはおかしいぞ」
「おかしいのは兄さんだ。その女となにがあったんだ?」
「いや、それは」
「言えないのか? 言えないようなことをしたのか?」
円理の追及に常一は答えない。気まずそうだ。
だが、今日の円理は容赦しない。
「だいたい、兄さんはどうしてこの家が魔術師の家系だということをわたしにだまっていたんだ?」
「それは」
やはり常一は答えなかった。
もういい、と円理は杖を突いて自室に向かう。背後から岬の声が聞こえてくる。
「この家には書庫があるのよね? あとで案内してくれる?」
聞きたくない。円理は耳をふさぎたくなる。
たたんだふとんに身を投げ出す。悲しかった。悔しかった。自分はこんなにも兄を想っているというのに、兄は他の女ばかり見ている。わたしだって女の子だ。どうして気づいてくれないんだ? そんな怒りを抱く。
円理は胸に手を当てる。この気持ちをずっと持て余してきた。兄に伝えることなどできない。かと言って、誰かに相談することもできなかった。円理はみずからの恋心とずっと格闘してきたのだ。いつか兄はこの気持ちに気づいてくれる。そう信じてきた。
だと言うのに。
悔しさに目がにじんだ。
兄が他の女と仲良くしている姿を思い浮かべただけで頭がどうにかなりそうだ。取られたくない。はっきりとそう思った。
時計に目をやれば、いつの間にか三〇分ほど経ったようだ。
意を決して居間に戻る。
居間では岬が使い魔を撫でながらテレビの音を聞いている。常一の姿はない。食器が片付けられているが、台所にもいないようだ。
円理は周囲に目をやった。
「兄さんは?」
「車を取りに行ったわ。あの廃病院に車を置きっぱなしにしていたみたいでね」
「そう、か……」
考えようによっては好機かもしれない。円理は自分の席について岬に向き直る。
「話がある」
「話?」
「昨夜、兄さんとなにがあったんだ?」
円理の真剣な問いに対して岬は回答を避ける。ふふ、と笑って視線をさまよわせた。
「円理さん。あなた、本当にジョー君のことが好きなのね。ジョー君はよくあなたのことを食べちゃいたいと言っているみたいだけど。本当はあなたもそうして欲しいと思っていた?」
「ああ、そのとおりだ」
「その気持ちは、妹としては越境じゃないかしら?」
「例え倫理の定めた境界を越えようとも、わたしは兄さんを愛している」
はっきりと円理は告げた。戦闘開始。
「
「心配しなくても大丈夫よ。あなたの大好きなジョー君を取ったりしないから」
岬は実に楽しげだ。一体なにが面白いのだろう。
「昨夜はちょっとね。慰めてあげる必要があったから。それは妹のあなたにはできないことでしょう?」
慰める。その言葉の意味するところを想像して、円理はまた頭が熱くなった。
わ、わたしだって、と円理は強がる。
「兄さんが必要とするなら、どんなことだって応えてやれる」
「例えば?」
「例えば、妻としての務めだって」
「でも兄妹は結婚できないじゃない」
それはそうだ。
しかし円理はひるまない。決然と言い返した。
「法的にはそうかもしれない。しかし気持ちの上では、わたしは兄さんの妻になる準備はできている」
「ふふ。本当に可愛らしい」
光を失った岬の瞳には、円理はどう映っているのだろう。鉱石のようなきらめきは無機質でなにも語らない。
一方、円理の瞳は夜空のようだ。星々の輝きが円理の意志を高らかにうたう。
「わたしと兄さんには積み重ねた歴史があるんだ。大学で少しいっしょにいたくらいのあなたには負けない」
「ふうん。ジョー君のことを一番、分かっているのは自分だってこと?」
「そうだ」
「円理さん。あなたのその強い気持ちはどこから来るのかしら?」
岬に促され、円理は昔のことを話し出す。
それは一〇年も前のこと。円理が兄への恋心を抱くきっかけだった。
◆
わたしは生まれつき片足が不自由だ。骨が歪んでいるらしくてな。だから、走ることはおろか、歩くことも杖なくしてはままならない。小学校の頃はよくからかわれたよ。たぶん、わたしは目立つ存在だったんだろう。悪い意味で、な。
だから小学校には一人で通った。杖を突き、長い時間をかけて坂を登って通学したものだ。
あの日もそうだった。しかし、不意に大きなバンがわたしの横に停まって、男がわたしの前に現れた。声を上げる暇もなかった。男は幼いわたしを車に押し込んで縛り上げると、車を発進させて連れ去った。
無力な子供だったわたしに抵抗できるはずもない。わたしは恐怖で下着を汚してしまった。なにか薬をかがされて、どこをどう移動したかは覚えていない。気がつけば、車は森の奥にある廃墟に止まっていた。たぶん、昔はなにかの施設だったんだろう。よく分からない機械がたくさんあって、いまもうなりながらわたしを威圧しているようだった。ぴかぴかと点滅をくり返す様子がなんとも恐ろしかった。
わたしが連れて行かれた部屋には、床に変な模様が描かれてあってね。魔法使いが描くような模様だ。それがあまりにも禍々しくて、また下着が濡れるのが分かった。
わたしを連れ去ったのは、ひょろひょろと痩せた大人しそうな男だ。男はわたしを魔法陣の上に寝かせると、ぎらりとナイフを取り出した。そして、猫なで声を出すんだ。
「君の内蔵はきっときれいなんでしょうねえ。ワタシに見せてくださいよ」
殺される。その恐怖にわたしの意識は遠のいた。
そして、気がついてみたら、兄さんがわたしを抱きしめていたんだ。そして言ってくれた。「俺は一生、おまえを守る」とね。あとで聞いたんだが、兄さんはわたしが連れ去られたと聞いて、あちこち探して回ってくれていたらしくてね。怪しいバンの目撃情報を追って、廃墟にたどり着いたそうだ。そこで男と遭遇し、なんとか追い払って、わたしを助け出してくれたんだ。
その時に思ったんだ。
わたしを守ってくれるのは、この人しかいないんだって。
◆
「そして、わたしはいま、兄さんへの恋心をはっきりと自覚している」
と円理は長い話を終えた。
岬がどう受け取ったのかは分からない。彼女は唐突にこんな話を始めた。
「あなたの恋は秩序に反しているわ」
「秩序?」
「そう、秩序。この前のテレビでグールメイジの事件を扱っていたわよね。被害女性たちはいずれも売春をしていた。もし、彼女たちが売春をしていたからこそ殺されたのだとしたら? 彼女たちを排除しようとする力が働いていたとしたら? その力こそが秩序なのよ」
「言っている意味が分からない。その秩序とやらはなんなんだ?」
「例えば、母親は朝食を作らなければならない。そう決めたのは誰かしら? 誰でもないわ。母親は朝食を作るべきだ、という人々の無意識による強制力なのよ。秩序とはそうやって人々に役割を押し付けてくる」
水を得た魚のように岬は説明を続ける。
「この力は簡単に排除に結びつく。例えば、結婚して子供を産むことが正しいとされているわよね? じゃあ、やりたくてもできない、あるいはそうする気がない人たちはどうなるのかしら? 世間を見れば、よく分かるわよね。すべては自己責任だ、なんてことになる。こんな風に秩序とは、定められた役割を演じられない人間を排除してしまうのよ」
「つまり、わたしも排除されると?」
「ええ、その可能性は否定できない」
岬は薄笑いを浮かべている。
腹立たしい。円理は言ってやった。
「わたしには兄さんがいる。そうなったら兄さんがわたしを守ってくれるはずだ」
その時、車のエンジン音が聞こえてきた。兄さんの車だ、と円理は玄関に向かった。車はやはり常一のものだ。常一は車を車庫に止めて降りてくる。
「おかえり、兄さん」
円理は玄関に上がってくる兄の腕を取った。朝食時とはまるで違う態度に常一は戸惑っているようだ。
いつの間にか円理の怒りは別のなにかに転換されたようだ。昔を語ることで、自分の気持ちをより一層、自覚したためかもしれない。
負けてたまるか、と円理は思う。わたしはいつか兄さんの妻になるんだ。
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