最終話:その朝は、始まるように終わるように

 一体いつから戦い続けていただろう?


 常一じょういち林崎りんざきとの戦いの中でおのれの観念に埋没していた。体は勝手に戦う。林崎の胸を手刀で貫く。頭を拳で割る。背骨を蹴り砕く。そうした殺戮を自動的に行いながら、心は冴え切っていて、自分の心の深いところに沈んでゆく。


 脳内でくり返される景色は古ぼけている。

 おびただしい数の死体の、山、また山。


 常一に移植された背骨は人類の歴史に深く関わってきた。虐殺が起きたところに必ずその影があった。

 虐殺の世紀という言葉がある。二度の世界大戦が起きた二〇世紀を指す言葉だ。この言葉は、しかし、二〇世紀以前に虐殺がなかったことを意味しない。むしろ内実はもっと恐ろしい。二〇世紀以前の人類も虐殺をくり返していた。二〇世紀になって、ようやくおのれの行為を問題視し始めたということだ。


 歴史が一冊の本だとしたら、そのページの多くは血で汚れている。ページとページが血で張り付いて、めくれない箇所も珍しくない。


 なんで殺したんだろう?


 終わることのない凄惨な風景を眺めながら、常一は虚しく思う。家族を守るためだった。主君を守るためだった。祖国を守るためだった。

 だから殺した。

 同時に殺されもした。


 まるで人類は殺し合うことでコミュニケーションしているかのようだ。言葉が封じられて殺すという行為でしか会話できなくなってしまったように。

 飢えたように敵を求めた。いなければ作った。


 敵はどこだ?


 常一の声で切々と声が聞こえる。正義が渦巻く。

 正義を実行している間、常一は自分の卑小さから解放される。その快楽は麻薬にも似て、効果が一旦過ぎてしまえば、すぐに次が欲しくなってしまう。そして、さらに大きな正義を求めるのだ。結果、常一の中で正義は巨大になった。


 小説を書いていたのは、少しでも自分を吐き出す場所が欲しかったからだ。そうすることで少し楽になれた。

 なにより円理えんりとの日々が常一にとって貴重な癒やしとなった。


 だが、常一たちが殺してきたのは円理のようなごくふつうの人間なのだ。常一は円理を通して、代々続いた自分たちの行為の罪深さを見ていた。常一は敵という記号に感情移入することはできない。だが、その姿が妹に似ていたら、話は違っていたかもしれない。


 古ぼけた景色に突然、色がついた。

 唐突に円理に似た少女が視界をよぎった。彼女だけがこの世界で色彩を持った存在であるかのように思えた。

 だから少女の白いワンピースを追った。


 常一は砲撃や爆撃で廃墟と化した街をさまよう。どこをどう走ったか。

 袋小路で少女は待っていた。


「待ってくれ。話がしたいんだ」


 常一の言葉に少女は答えない。

 それでも常一は訴える。


「一体どうすればいいんだ? 俺たちはどこへ行けばいい?」

「敵がいるじゃない」


 少女は人形じみた動きで常一を指差した。

 ああ、と常一は一瞬にして理解した。

 そうか、敵は自分だったのか。

 人々を殺し続けたなら、最後には自分を殺さなければならない。そうすることで初めて帳尻が合うのだ。



 そして常一は自分の体を食い始めた。林崎との戦いなど放って。


 腕を食う。すると、体積が増した。足を食う。また体が大きくなった。食えば食うほど常一は巨大になってゆく。同時に、常一から色彩が失われていった。常一はいつしか無色透明な存在へと移っていった。無数のあぎととなる。

 そのあぎとが林崎たちを食い始めた。


 林崎たちは恐慌に陥って戦闘を放棄した。我先に逃げ出す。

 常一は逃がさない。

 林崎たちはなにごとか言っているようだが、その言葉はよく聞こえない。どうでいいことだ。

 常一は巨大な食欲に変貌した。欲ではあるが、どこまでも透明で。

 まるで世界が抱える欲求そのものになったかのように。



 逃げる。逃げる。逃げる。


 最後の一人となった林崎はただただ暗い森の中を駆けた。背後には恐ろしい気配が。

 あれはなんだ?


 林崎には理解できない。だが、体は知っているかのようだ。あれと関わってはならないと。まるで父親に厳しく叱られたように。まるで母親に優しくたしなめられたように。巨大な赦しが迫ってきた。

 原初の記憶が刺激される。思い出せば、自分はおかしくなってしまう。

 逃げるしかない。だが、どこへ逃げればいい?


 アメリカにはもう戻れない。自分はアメリカのおかげで不老不死を実現したというのに、そのアメリカを裏切ってしまった。いずれ暗殺者が訪問するだろう。そうなる前に世界を自分の好きなように作り変えてしまうつもりだった。だから、兄の計画に乗った。


 それもご破産だ。

 自分はこの世界で居場所を失った。

 林崎は木の根に足を取られて転んだ。上等なスーツが泥だらけになってしまった。

 途方に暮れた林崎の耳に犬の吠え声が聞こえた。

 見れば、相羽岬あいばみさきという探偵が使い魔の犬を連れて、林崎の前に進み出たところだった。


「こんばんは」


 岬は朗らかに笑う。この状況下にはあまりにもふさわしくない。

 その笑みがかえって不気味だ。

 立ち上がった林崎は問わずにいられない。


「なにをしにきたんです? ワタシになんの用ですか?」

「目的はあらかた済ませたんだけどね。一つ、やり残したことがあって」


 そう言って岬は使い魔を抱き上げた。

 よしよし、と体を撫でる。

 嫌な予感がした。林崎は後ずさる。

 果たして岬は冷たく告げた。


「わたし、あなたを始末しておくように頼まれていたのよね。やっぱり不出来な弟を哀れに思ったのかしら」


 瞬間、岬の足元でなにかが口を開けた。すさまじい風が起こる。岬の足元にある影が周囲を吸引し始めたのだ。

 林崎はとっさに木につかまった。キメラの技術を応用して生み出した体はかなりの筋力を誇る。が、その力を持ってしても耐えることは難しい。

 次々と木々の枝や葉が飲み込まれてゆく。

 影へ。いや、その奥にあるのは光すら囚える暗黒だ。


「い、嫌だ。そんなところに行くのは嫌だ」


 林崎の手が次第に木から離れてゆく。

 ずっと自分が特別な存在だと思ってきた。だから強くなければならないし、たくさんの女を征服しなければならない。そうすることで初めて特別な人間であることが証明できるのだ。だが、誰もいない暗黒の中で、誰が自分を認めてくれるだろう? 誰もいない。永遠に孤独の中で自分の卑小さと向き合う羽目になる。


 嫌だ。嫌だ。助けてくれ。

 上着がちぎれて飛ばされる。

 ついに手が離れた。

 悲鳴とともに林崎は暗黒へと消えていった。



 暗黒への出入り口が再び閉じる。

 さて、と岬は周囲の様子を探ろうと鼻を使う。いいものが見つかった。

 岬は林崎の上着のポケットを探る。あった。タバコとライターだ。


「ラヴ、一本だけ。ね?」


 そう謝って、岬はタバコに火をつける。紫煙を吸い込むと、久しぶりの毒が体内を駆け巡った。ふうー、とゆっくり息を吐く。

 もし目が見えていたら、周囲の悲惨な状況が目に入ったことだろう。木々は倒され、動物たちは逃げ出している。強烈で大型の嵐が過ぎたかのようだ。


 それだけではない。

 いま、計良けいらたちの計画は第一段階における最高点までたどり着いた。秩序は崩壊した。秩序の力に守られて、傲慢に振る舞っていた人間たちが右往左往する様子が目に浮かぶ。まさに地獄絵図だ。

 岬が紫煙をくゆらす。

 世界の終わりを眺めながら一服する。なんて素敵な時間だろう。



 湖の岸辺で涙湖るいこが歌い続ける。涙湖は美しかった頃の姿に生まれ変わった。長い黒髪が風になびく。


 妹の歌声を聞きながら、咲子に宿る計良けいらは酒器を傾けていた。岸辺に持ってきた小さな机には極上の日本酒が置いてある。計良は椅子に座って、瑞々しい液体を喉に流し込んでゆく。机にはもう一つ酒器が置かれているが、空だ。


 穏やかな時間。

 騒がしいことはなにもない。

 集団自殺のために訪れていた人々の列も途絶えてしまった。涙湖の歌だけがあたりに響く。


「どうやら僕らの計画もしまいのようだね」


 ねえ涙湖、と呼びかけると、涙湖は無垢な笑みを見せた。

 その時、夜明けの空に大量の鳥が舞った。森になにか潜んでいるのだろうか。まるで大軍でも伏せているかのよう。

 なにかがおぞましい音を立てて迫りくる。


 それでも計良は動じない。酒器に残った酒を飲み干した。次いで、ずっと空だった対面の酒器に手酌で酒を注ぐ。

 ほどなくして、なにかが計良たちの前に進み出てきた。姿は見えない。しかし計良には分かっている。常一だ。常一はついに世界と同化し、怪物に成り果てたのだ。背骨に宿る怨嗟をまるごと飲み込み、さらには世界さえも飲み込もうと。


 それもいい。それも救済だ、と計良は微笑む。

 世界から逃げ出そうとした人々を救おうとした。一方、常一が宿すのは、世界に抗った人々の怨嗟だ。その怨嗟とようやく向き合うことができたというなら、父親として喜ばなければならない。

 ふと視線を転じれば、いつの間にか対面の酒器が空になっていた。

 ああ、やはり。計良はどこまでも優雅に思う。


「おまえが僕を止めるのか、常一」



 先ほどから円理えんりは落ち着かない。なにかが体を貫いたような痛みが走ったのだ。まるで大切な人を失ったかのように。


 胸騒ぎがする。

 円理は人々に断って、体育館から出た。

 すでに夜明けだ。空の端が白み始めている。夜空は次第に青く塗り替えられてゆく。一つの出来事が終わり、一つの出来事が始まる。そんな予感がした。世界は清涼な朝を迎えようとしている。


 風が吹き、並木道に植えられた木々がざわめく。

 円理はその先に常一の姿を見た。


「兄さん!」


 急いで駆け寄ろうとする。こんな時、いつも不自由な足が恨めしい。

 やっと前に進み出ると、常一は奇妙に清々しい顔で告げる。


「終わったよ、円理。なにもかも終わった」

「終わった? じゃあ、父さんは? 母さんは?」


 円理の問いに常一は自分の胸に手を当てる。


「この中にいる。俺はすべてを飲み込んだ。行き過ぎた正義の怒りも、そこから逃げようとした人たちも、抗った人たちも」


 常一は誇らしげだ。仕事を終えた男の顔をしている。

 円理もそんな兄が眩しい。


 やはり自分の目に狂いはなかった。自分が愛してきた立派な兄がここにいる。これからどんな暮らしが始まるのだろう? その予感に胸がときめく。遠い町で夫婦として暮らし、子供を育てる。そんな夢物語が円理の中でふくらんでいった。


「だから円理。最後に俺を殺せ」


 兄がそんなことを言い出すとは思わずに。

 な、と円理はしばし絶句する。

 常一は本気のようだ。だが、どうして?


「兄さん。なにを言っているんだ?」

「俺は遠い世界に旅立つ。秩序の力がおよばない世界の外だ。そこで俺の中にいる人々と向き合う。一人一人と話し合って、みんなに納得してもらう。どう生きればいいのかって。そのための時間が必要なんだ」


 分かるだろ、と常一は言う。

 この時、円理は初めて常一に違和感を抱いた。兄の姿はどこかぼんやりと映る。はっきり見たいのにはっきり見えない。まるで円理だけが兄を認識しているかのように、常一の声が脳内で聞こえる。

 円理は頭を振った。長い黒髪が揺れる。


「分からない。兄さんが言っていることがわたしには分からない」

「円理。おまえ、岬さんから銃を渡されていたな。それで撃て。三二口径じゃ大した威力はないだろうが、そんなことは問題じゃないんだ。妻に撃たれた、という事実の方が重い。俺の妻になったおまえにしかできないことだ」


 常一は勝手に話を進める。


「そして俺は、おまえが放った銃弾の力を借りて、世界から旅立つ」

「嫌だ。嫌だ」


 円理は子供のようにくり返す。恐ろしくて体が震えてくる。

 仕方のないやつだ、と常一は苦笑した。

 常一の腕が伸びて、円理の袖から拳銃を見つけ出す。それを円理の手に押し付けてきた。


「引き金はおまえが引かなくちゃいけない」

「できるはずがない!」


 これから幸せになるはずだった。それが、こんな終わり方。

 認められるはずがなかった。

 それでも常一はお願いをくり返す。


「なあ、円理。いまの俺はこの世界にいちゃいけないんだ。おまえを殺してしまうかもしれない。他の人も殺すかもしれない。いけないことだ、とずっと抑えてきた。でも、いつか限界が来る。こうなるのが俺たちの運命だったんだよ」

「わ、わたしも! わたしもそっちに行く!」

「それはできないよ」


 常一は悲しげに首を振った。


「追放される者がいるなら、追放する者だって必要だ。いっしょに行くことはできない」


 風は益々、強さを増してきた。空の高みでは雲が目まぐるしく流れてゆく。その激流は円理の内部でも起こっていた。

 ああ、と円理の目から大粒の涙があふれる。

 常一はその涙を優しく指でぬぐう。


「お願い、できるな?」


 円理は拳銃をかまえた。常一の胸に重厚を押し当てる。

 最後に常一は愛しげに確認した。


「愛しているよ、円理」

「わたしも愛してる。兄さんのことが大好きだ。いつまでも」


 何度でも言いたい。何度でも確認し合いたい。

 ずっと兄が好きだった。兄も好きになってくれた。ついに結ばれた。でも幸せの絶頂はすぐに過ぎてしまう。あとに残されるのは現実の問題だ。その対処を自分は兄に任された。

 だとしたら。

 旅立つ兄の背中を押してやらなければいけない。


──そして朝焼けの空に乾いた銃声が響く。



 国連に所属する病院船は今日も順調に航海を続けている。元々は豪華客船として建造されていたが、資金繰りで難があったらしく、途中で放棄されていた船だ。世界会議はそれに目をつけて、病院船として改装を施した上で竣工させた。以後、国連の活動という名目で、人目に触れさせたくない病人を収容してきた。


 その病院船の一室を、みさきは使い魔を連れて訪ねた。

 豪華客船として設計されたせいか、部屋はかなり大きい。高級ホテルも霞むような豪奢な作り。白を基調とした部屋にはなにより清潔感があると聞く。

 話に聞く限りでは、部屋の中には産着が目立つそうだ。部屋の主が自分で縫ったものが置かれている。

 その主が岬の来訪に、億劫そうに寝椅子から身を起こす。


「ああ、岬。また夢を見ていたよ」

「そう。また、あの夢?」

「そうだ。兄さんがたくさんの人たちに混じって、一人一人と対話してゆくんだ」

「今日はどんな話だったの?」

「相手は画家志望の青年だった。でも、夢が破れて不満を抱き、政治に傾倒するようになる。兄さんはそんな若者の話を辛抱強く聞いてあげた。友達になってみれば、彼は単に、自分ががんばっているのに認められないことに不満を抱いていたんだと分かったよ。やっぱり兄さんはすごいね。あんな子の心を開くことができるんだから」


 部屋の主──村木円理むらきえんりはうれしそうに語る。そして、体の一部をさするような気配。おそらく自分のふくらんだお腹を愛しげに撫でたのだろう。岬はそう見当をつけた。


 あの事件のあと、円理が妊娠していると分かった。

 そして十数年。円理は臨月を迎えたにもかかわらずいつまでも出産しない。


 船員の話では円理の容姿に変化はないそうだ。いまだ十代の少女のまま、円理はお腹の子を抱えている。確かに円理の娘らしい甘い香りはあの頃のままだ。そこに不思議と落ち着くような香りも付加された。母親が持つ柔らかい印象を、円理は備えるようになった。


 このまま円理は、歳も取らず、一〇〇年でも妊娠し続けるのではないか。岬は時にそんな突拍子もない考えに囚われることがある。


 円理が妊娠した子供を巡って、世界会議は文字通り会議の真っ最中だ。だが、いまだに結論は出ていない。この分ではいつまでも結論が出ることはないだろう。

 まったく無能な連中だ、と岬は内心であざ笑う。

 あ、と円理はうれしそうに声を上げた。

 どうしたの、と岬が確認する。まさか。


「お腹の子?」

「ああ。蹴られたよ。元気な子だ。やはり男の子だね」

「分かるの?」

「もちろん。母親だもの」


 円理は自信たっぷりだ。

 そう、と岬は暇を告げて部屋から退出した。


 常一はなにもかも解決して世界から去ったつもりだっただろう。だが、過ちが一つ。妹の円理に子種を残したことだ。

 これで計画は続けられる、と岬はほくそ笑む。


 計良けいらの計画は第二段階に入った。今度こそ、世界は変る。古い世界は終わり、新しい世界が訪れるのだ。岬には、円理が産む子が世界に新たな秩序を敷くように思えてならない。すなわち円理は最初の母になるのだ。

 悪とみなされて殺された人々が戻ってくる。岬の目的は、世の終わりを眺めながら一服すること。前回は果たされなかったが、今回こそは。

 通路を歩きながら岬はある言葉を引用する。


「そして私は信じる。大地の中に、我々すべての母、そしてすべての人類を産み、彼らが安らぐ子宮、彼女の名は──」


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人魚の里に胡弓が鳴れば 北生見理一(旧クジラ) @kujira

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