第28話:泥の中から咲く花は
坂の上にある小学校が水没を免れていた。かつて
その体育館は人々が密集して、人の
大人の怒鳴り声が聞こえたかと思えば、赤子の鳴き声もする。
公的な支援はまだだろうか。
人々はただ待つしかない。
円理の顔を見ると汚れて疲れた顔に喜色が浮かぶ。
みんな、と円理は一人一人の手を取って労をねぎらう。
「無事だったか。良かった」
仲間たちは風呂にも入っていなかったが、円理はもう気にならない。状況が状況だ。いまは生きていてくれて良かったと思う。
さあ、と二果は地図の前に立つ。
「作戦会議を始めよう。水没したのは町の低地部分。三分の二が沈んだ計算になるかな」
「そんなに」と円理。
「円理のお母さんが歌う声に誘われて、人々がこの道を通って町にできた湖を目指してる」
二果が指差す道路は県道だ。ちょうど円理の住む家に接する。
そして、二果は道をさえぎる封鎖線について触れた。
「自衛隊の封鎖線はどうなってる?」
「はい」
仲間の一人が報告する。
「封鎖線がまた構築されたそうです。人々の第二波を押しとどめているみたいですね」
「止めるよ」
二果が懸念するのはこの災害が収まったあとのことだ。
「もし自衛隊が国民に向けて銃撃するようなことになれば、大きな禍根が残っちゃう。自衛隊はできてから一度も国民に銃を向けてないんだ。それは誇りにしていいことだと思う。あたしたちがやらなければならないことは、人々の集団自殺を止めるだけじゃない。止めたあとの復興が滞りなく行われることも視野に入れなきゃ」
仲間たちは深くうなずく。
さて、と二果は円理を見た。
「円理の役目は、お母さんに対抗すること」
「対抗? どうやって?」と円理。
「人魚の歌が人々を招くなら、円理の演奏で打ち消せるはず。音楽に音楽で対抗するんだ。ただ、問題は」
「問題は、なんだ?」
「胡弓を人々に届けるためには放送機材がいる。それはこの学校のを使えばいいけど、問題は電力だね」
「非常用の発電機はないのか?」
「あるよ。でも、重油が必要なんだ。いまはとても貴重な。ここに避難している人たちも残った重油をどう使うか揉めてる。いまは大切に残しておこうってことでとりあえずの一致を見てるけどね。これを使うとなると、話し合いが必要かも」
「わたしが話す」
「できるの? 怖い目に合うかも」
二果は円理の目をのぞき込む。
できる保証は円理にもない。しかし自分には人々を説得する義務があるような気がした。もう守られているだけじゃない。
「わたしがやらないといけないんだ」
円理の答えに二果は満足げにうなずく。「いい答えだね」
あとは、と二果は次の問題を話す。
「円理の胡弓を持ってこないと。たぶん、家はまだ水没してないはず」
「自分が行きます」
すぐさま名乗り出る声があった。
残った仲間は放送機材の準備に当たる。円理と二果は人々の説得だ。
「よし!」
二果は勢い良く手を叩く。
「解散! かかれ!」
仲間たちがきびきびと動き出す。
円理は二果を従えて体育館に戻った。なにやら人だかりができている。揉めているようだ。
「もういい。もう疲れた。湖に行けば、生まれ変われるんだろう? じゃあ、それでいいじゃないか。この先、救助されたってどうなる? もうおしまいだ」
どうやら避難してきた人々の一部も来世に期待し始めてしまったらしい。
円理は人々のこれまでを思う。神室町は滅びを確実としていた。その不安を誤魔化しながら、なんとか日々を生きてきたのだ。だが、家や家族を流されれば、この世への未練もどこかへ去ってしまう。残された希望は来世だけだ。
自分になにができるだろう? 円理はみずからの力の無さを改めて実感する。いや、そうじゃない。自分はいつだって無力だと嘆いていた。それで物事は前に進んだか? 力のない人間にもできること。力がないからこそできること。絶望する人々を前にして、なにかしたいと胸を締めつけられる自分の心がある。飾る必要はない。
円理はいまにも殴り合いを始めそうな人の中へ入っていった。
なんだ、と人々は血走った目を向ける。口元がマスクで隠れているだけに異様な形相だ。獣と言っていい。
「わたしは」
円理は一瞬、言いよどむ。ゆっくり呼吸。
人々を一望して静かに話し出す。
「わたしはあなたがたの顔が見たい」
円理は殴られることも恐れず、一人に歩み寄って手ずからマスクを外す。
戸惑った顔があらわになった。
ほら、と円理はその顔を優しく撫でる。
「人間の顔だ」
そう微笑んで、円理は一人一人のマスクを外し、声をかけてゆく。家は? 家族は? 仕事はなにをしていた? 近くに親戚は住んでいる?
一人一人と目を合わせ、微笑み、体に触れる。
「みんな、マスクを外してお互いの顔を見よう」
円理の呼びかけに応じて、いまさっき激高していたばかりの人々はマスクを外してゆく。照れたような顔で互いの顔を見つめ合う。
「まず座ろう」
と円理は自分から座った。次いで二果がならう。
すると、人々もその周りに座り始める。人の輪ができた。
輪の中心にいる円理は改めて一望する。
見知った顔はない。円理にとって知らない人間ばかり。円理はこれまで知らない人間を恐れていた。このままでいたいという気持ち。このまま兄に守られていればいい、という気持ち。それではいつまでも子供のままだ。
外の世界に駆け出そう。足は不自由でも心は自由だ。
特別なことはしなくていい。そもそも自分は偉くもなんともないのだ。ただ寄り添い、一人一人の声に耳を傾ける。宝物のように名前を呼ぶ。それだけだ。救うとか、教えるとか、そういう難しいことは後回しにしようじゃないか。だって、今日もいい天気だから。
円理の突く杖の音が体育館に響く。
あなたは一人? なら、ここが空いているよ。
一人ずつ、円理は避難してきた人々の声を呼び集めていった。ぽつりぽつりと人々は話し出す。辛かった。怖かった。悲しかった。苦しかった。数多の声が集う。時には嗚咽が漏れた。
円理はたいしたことは言わない。言う必要もない。
優しさが枯れた世界のほとりに円理は立つ。
次の世界に旅立つ人、さようなら。
とどまる決意をした人、ありがとう。
日が沈んだ頃、仲間たちが胡弓を持って戻ってきた。
求めるとも求められるとも言えない穏やかな息づかいの中で、円理は胡弓を弾き始めた。繊細な調べが人々の神経を撫でる。そっと。ゆっくりと。心を解きほぐしてゆく。疲れた? なら休もう。起きるまで胡弓を弾いてあげる。
人々はこの世に憂いている。浮いた草が海を漂う。
誰かが願った。いまと違う場所に生まれ変わることができたらと。
その願いが正しいのか正しくないのか、円理は知らない。ただ、もっと大事なことを知っている。
いま、円理が微笑めば、相手も笑みを返す。円理が胡弓の音色を踊らせれば、聞く者の体が揺れて、波が起こる。波と波が重なってゆく。円理を中心として大きな波がうねり始める。押し寄せる絶望を押し返すように。
円理は求められればどんな曲も弾いた。そのうちの一曲を弾いているときのことだった。自然と歌が始まる。一〇年以上前に流行った国民的アイドルグループの歌だ。つたなくも素朴な合唱が体育館に響く。
いつの間にか円理から離れていた二果が仲間たちを連れて戻ってきた。放送機材を持っている。円理は重油を使わせて欲しいなどと一言も言っていない。言わなくても円理の希望はすでに満たされていた。
世界に疲れた人々が、同じく疲れた人々に向けて放送を始める。
円理はふと母を思い返した。兄との恋に生きた人。それ以外の言葉で母の人生を語るのは難しい。
かつての円理も同じ生き方をしていた。
例え血を分けた兄妹であっても違う魂を持っている。交わることもあるだろう。円理は兄の苦悩を知った。知った上で愛した。呪わしい血で彩られた家系を、自分は飲み込もう。自分の役目は次の世代に思いを託すことだ。
命が作る大河に円理は身を任せる。
円理の演奏が世界に向けて羽ばたいてゆく。
絶望を柔らかく包み込む。
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