第23話:戦闘開始

 俺は妹を食いたいと思っている。

 性的な意味ではない。肉料理としてだ。


 しかし一方で妹を愛してもいる。妹を手にかけるなど、できるはずがない。そう思って生きてきた。

 だが街で出会ってしまった。妹と瓜二つの少女と。


 殺した。食った。

 きれいな色をした臓物があらわになった時の、命が咲いたような美しさ。俺は決して忘れることがないだろう。


 あとはドミノを倒すようなものだ。一度、倒れてしまえば止まらない。

 俺は街で出会った女たちを次々と殺していった。女たちの命は俺の中で同化してゆく。その孤独も、その苦痛も、すべて俺が飲み込む。

 それが俺の救済の形だ。


(中略)



 円理えんりは冒頭を読んで目眩がした。

 兄が自分を食い殺そうとしている? その事実はあまりにも衝撃的で、円理を支えてきた思い出が壊れていった。兄は優しそうな顔をしながら、内心でそんなことを考えていたのか。自分は気づかずに兄を慕い続けていた。滑稽だ。


 文机ふみづくえの上に原稿を投げ出す。

 時計を見れば、すでに夜一〇時を回っている。本来、円理は夜九時には寝てしまう。早寝早起きを習慣とする円理だったが、この原稿を読んで興奮した頭で眠られるかどうか。

 それに一つだけ確認したいことがあった。


 円理はふすまの向こうにいるであろう兄の姿を想う。ノートパソコンの軽い打鍵音が聞こえてくる。小説を書いているようだ。原稿の続きだろうか。


「兄さん、入るぞ」


 円理はふすまを開けて膝をすらせて入っていった。

 常一じょういちの部屋はほどほどに乱雑だ。毎日、掃除をしているようだが、生活していれば散らかるのは仕方ない。それでも服はきちんとたたんでいるし、小物はまとめられている。ただ、本のたぐいはかなり積まれていて、部屋のそこかしこで小山が立つ。


 部屋のすみにある文机でノートパソコンに向かう兄の背中。大きい。小柄な自分よりずっと大きな体だ。

 常一は顔だけ向けてきた。


「円理。起きてたか。珍しいな」

「うん。少し読みたい小説があってね」


 そう答えつつ、円理はさらに常一に近づいていった。その背中に体を預ける。大きく息を吸い込んで、兄の匂いで肺を満たす。パジャマ姿の常一はすでに風呂に入ったあとで、石鹸せっけんの優しい匂いがした。そして、かすかに残る男の匂いも。


 ああ、やっぱり。

 円理は思い知った。頭では、兄が恐ろしい人だと理解している。一方で、体は兄を求めているのだ。内側が潤んでくる。


 体というのは恐ろしい。頭では気づいていない真実を体は瞬時に見つけてしまう。そのメッセージを読み間違えれば、自分の幸せが迷子になる。円理は自分の体が発するメッセージをずっと読み取ってきた。

 この兄に抱かれたいと。


 兄さん、と円理は甘えるように兄の背中にほおをこすりつけた。兄の匂いに自分の匂いを重ねるように。


「わたしは兄さんがどんな小説を書いているか、知っているよ」


 兄は答えない。

 円理はかまわず続ける。


「俺は妹を食いたいと思っている。刺激的な出だしだね。その妹がわたしなんだとしたら、刺激的どころの話じゃない。殺人鬼による自伝だよ。わたしは愛情と殺意が入り交じった殺人鬼の独白を聞いてしまった」

「円理。俺が怖くないのか?」


 兄は向こうを向いたまま語りかけてくる。

 その声はいつだって円理の体のもっとも奥まった場所に響くのだ。そこに兄を導いてあげたい、と円理は願ってきた。いまも。

 ああ、と円理は告白する。観念したように。


「わたしはなんていやらしい妹だろう。頭では分かっているんだ。父さんを殺した兄さんを糾弾しなければならないと。でも駄目だ。わたしは兄さんに抱かれたい。その兄さんに殺されようとしているのに、いまもわたしの体は兄さんを欲している。兄さんになら、すべてを捧げてもいい。わたしの体は兄さんのものだ」


 円理の周囲は、彼女が理知的な人間だと思っているかもしれない。しかし実情は違う。円理の言動には幸せになりたいという意志が貫かれている。その幸せは世間の常識と反するだろう。それでも求める。まっすぐに。

 円理の指が兄の背中をはい回る。


「それでも一つだけ確認したいことがある。これだけは答えてくれ」

「分かった」

「兄さんはいままでわたしに嘘をついたことがあるか?」

「ないよ。俺はおまえに嘘はつかない」


 兄の答えに円理は満足した。

 そうか、と体を離す。


「それを聞いて満足だよ。どうせ兄さんは他の質問には答えてくれないんだろう? 真実はわたしが自分で確かめる。覚悟しておくんだね。わたしは兄さんを裸にしてしまうよ」


 おやすみ、と告げて円理は自分の部屋に行こうとした。

 その時、玄関が急に騒がしくなった。玄関の前で何人かの男がなにかわめいているようだ。呼び鈴がひっきりなしに鳴る。

 なんだろう、と円理は常一を見た。


「少し見てくる」


 そう告げて、常一は玄関に向かった。鍵を開ける音。続いて、騒がしい声がここまで聞こえてくる。


「おめえがグールメイジなんだな? そうだべ? はっきり認みどめろ!」

「余計よげいなごどして。この町は油野さんがいねがったら、立ち行がね」

「屁理屈、こくでね! 警察さ、行ぐぞ!」


 口論する声が続く。

 そして銃声が響いた。


「兄さん!」


 円理は杖をついて必死に歩いた。玄関に出ると、兄の姿が目に入る。玄関先で血の海に沈む兄の姿が。

 銃弾は城一を貫通したらしく、玄関のガラスを割っていた。散乱するガラス片は月明かりに照らされて、まるで水晶のように輝いている。

 常一を撃ったのは町の人たちだ。猟友会なのか、どれも猟銃を持っている。その猟友会の面々は円理を認めると、円理にまで拳銃を向けた。


「おめも共犯だ!」


 撃たれる!

 円理が目をつぶった時、足元で不気味な気配が動いた。そして、猟友会の悲鳴が続く。目を開けると、足元の影から無数の触手が湧き出てきて、猟友会に絡みついていた。そして触手は猟友会を道路に放り投げてしまう。

 背後からみさきが唐突に現れた。


「あらあら。自分で考えることを放棄した人たちは本当に仕方がないのね」


 大方、と人の悪い笑みを浮かべる。


「グールメイジがジョー君だってことにすれば、事件はそれでお終い。とでも考えたんでしょうね。浅はかだわ」


 円理はそれどころではない。

 常一にすがりついた。血で汚れるのもかまわずに抱き起こす。城一は意識を失っている。


「兄さん! 兄さん! 目を開けてくれ!」


 もはや町は狂気に包まれたのか。

 しかし円理の心中は兄の生死だけが占めていた。このまま兄の口から真実が語られることなく、死に別れてしまうなんて。絶対に認められることではない。兄の口から語られる言葉だから意味があるのだ。そして、いつか必ず愛していると言わせてみせる。


 絶対に。絶対にだ。



 それから数日。常一じょういちは集中治療室から出てこない。医師は予断を許さない、と円理に告げている。円理は病院に足繁く通い、その回復を待つ。車は咲子さきこが出してくれた。

 咲子も常一が気がかりのようだ。車中で何度も口にした。


「常一先生、まだ目が覚めねんだべか」

「うん……傷は重いみたいだ」


 円理は無力な自分を呪った。こんな時になにもできない自分が恨めしい。いま、円理にできることは常一が書いた原稿の続きを読むことだ。恐ろしい内容ではある。妹を、すなわち円理を食い殺そうとしている、と殺人鬼の独白は続く。


 しかし、おかしい。読み進めるうちに円理は疑問を抱いた。確かに主人公は妹への殺意と食欲を抱えている。その代償行為として娼婦たちを殺してきた。そこまでは分かる。分からないのは、どうして抑える必要があるのかということ。

 常一は最強であるはず。その力は悪を殺すためにある。兄に恋する自分もまた悪だという。


 しかし円理が知る兄は常々、ふつうの暮らしを守ることを大事にしてきた。兄は自分に嘘をついていないと言ってくれた。だから、こうなる。ふつうの暮らしを守りたい常一。殺人に耽溺してきた常一。そんな二人の常一がいる。明らかな矛盾だ。まるで分裂しているかのよう。一体、本当の兄はどこにいるのか。


 分からない。原稿を読むことでかえって謎は深まった。

 今日もまた、原稿を読みつつ病院で一日を過ごそうとする円理の前に、岬みさきが顔を出した。彼女はいつも唐突に姿を現す。まるで影の中から出てきたようだ。


「こんにちは、円理さん。少しいいかしら?」


 そう言って岬は病院の屋上に円理を誘う。

 今日は風が強い。吹き荒ぶ風が円理の長い黒髪をもてあそぶ。その髪を手で押さえつつ、円理は岬に尋ねる。


「それで話というのは?」


 円理は岬が語り出すのをじっと待つ。その間も風の勢いは止まない。屋上で干されている白いシーツがはためいている。

 今日も快晴だ。空は鮮烈なまでに青い。空を見上げると、どこまでも落ちてゆくかのような錯覚を覚える。大地から離れて空へと落下するような浮遊感。その不安感は、同時に自由の獲得も意味している。

 では円理はどうなのか。円理は思う。自分もまた、恋に落ちてゆく。


「円理さん。あなたは疑問に感じない?」

「疑問? なんのことだ?」


 円理にはなんのことか分からない。

 岬が言うのは、不老不死に関することだった。


「村木家は背骨を移植する前に人魚を妻として不老不死になった。林崎さんはそう言っていたのよね。つまり、不老不死になることで背骨から受ける負荷に耐えられる体を手に入れた、と。じゃあ、ジョー君は?」

「兄さんは不老不死じゃない、ということか?」

「そういうことになるわね。ジョー君はふつうの人間として背骨の力を使ってきた。でも、もう耐えられなくなってしまったんじゃない?」


 でも、と岬は円理を指差す。


「あなたなら、ジョー君を助けられる」


 岬の言葉が意味するところ。

 兄の妻になりたい、と願ってきた。その時が来たのだ。だが──。


「その前に確かめたいことがある」

「あら。二つ返事でOKするかと思ったわ」

「兄さんは父さんを殺したんだろう。何故? 兄さんはわたしを食い殺そうとしながら、わたしを守ってくれた。何故? 兄さんはわたしが人魚の血を引くことをずっと黙っていた。何故?」


 何故、何故、何故。


 たくさんの疑問が円理の中で渦巻く。

 その答えがグールメイジの事件に隠されているように思えてならない。その演劇が催される祭りが迫っている。


「相羽岬。兄さんを頼む。また妙な考えを起こした連中が勝手なことをしないように見ていてくれ」

「いいけど。あなたは?」

「わたしは真実を解き明かす。それを知らずして兄さんにすべてを捧げることはできない」


 宣戦布告。

 その宣言は円理がようやく自分を取り巻く世界と対決することを意味している。

 円理は戦う。

 戦って、欲しいものを手に入れる。それが円理の生き方だ。

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