第17話:人魚を妻にして
その二果はすでに目覚めていた。
「円理。大変なことになっちゃったね」
「一体これは?」
「
「林崎が?」
そこまで話したところで当の林崎が扉から部屋に入ってきた。銃を持った部下たちを連れて、人を小馬鹿にしたようないつもの笑みを浮かべている。
「やあ、円理さん。目覚めたようですね」
「林崎! 一体どういうつもりだ! 縄を解け!」
円理は縛られたまま林崎に食ってかかった。椅子がぎしぎしときしむ。
その様子に林崎は一層、笑みを濃くした。
「それはできない相談ですねえ。これからあなたはワタシの妻になるんですから。その儀式をとどこおりなく行うためにあなたの自由は制限させていただきます」
「妻? 儀式?」
そこで円理は気づいた。床には文字や図形が複雑な模様を形成している。まるで魔法陣だ。一〇年前と同じ──。
まさか、と円理は林崎をまじまじと見つめる。
「林崎。おまえ、あの時の?」
「ようやく気づきましたか」
林崎はサングラスを外した。その目。暗い洞穴のような目があらわになる。
一〇年前の男の目だ。
ぞっ、と円理の体に怖気が走った。
「な、なにをするつもりだ?」
「ワタシはね。あなたのお兄さんが継承した背骨が欲しいんです」
「背骨? どういうことだ?」
「ご存知ありませんか? その背骨こそ村木の家が生み出した傑作。これを継承した者は、悪を殺す悪となって世界を守るのです」
いいですか、と林崎は滔々と続ける。
「秩序の力は不必要な存在を悪と定めます。これを排除することこそ正義。背骨を受け継いだ者は必要悪となって秩序の維持に貢献する。そのために最強の力を得ます。ワタシは背骨を手に入れて最強になりたいんです」
じゃあ、と円理の声が震えた。一つの可能性が脳裏に浮かぶ。
「父さんを殺したのは兄さんなのか?」
「そのとおりですよ」
「嘘だ。兄さんが父さんを殺すなんて。わたしは信じないぞ」
「仕方のない人ですねえ。そこまで言うなら常一さんの裸を見てみなさい。彼の背中には醜い傷があるはずですよ」
さて話を戻しましょう、と林崎はにたにた笑う。
「あなたがワタシの妻になる、という話です」
びくっ、と円理は怯えて体をこわばらせる。
「わたしになにをさせようというんだ?」
「人魚伝説では不老不死になるパターンが二つあります」
林崎は急に話題を変えた。
「一つは人魚の肉を食うというもの。八百比丘尼やおびくにの伝説がそれですね。もう一つは人魚の娘を妻とすること。その理屈は簡単です。人魚の体に不老不死を授ける因子があるなら、それを食しても、あるいは夫婦となって体液を交換しても得られるって話ですよ」
しかしですな、と林崎はふところからナイフを取り出す。刀身には冠をいただいた蛇が描かれている。その切っ先で、林崎は自分の指をつぷりと刺す。すると、じわじわと銀色の液体が漏れ出てきた。血液? いや、水銀か。
さて、と林崎は指を眺める。
「背骨を使用するには不老不死でなければなりません。通常の人間ではやがて耐えられなくなりますからね。だからこそ、村木家は人魚を妻としてきたのです。つまり、あなたもあなたの母親も人魚なんですよ」
信じられない話。
しかし、この期におよんで冗談を言うだろうか。円理はもう、異常な世界を疑うことができない。
「ワタシも背骨を手に入れる前にあなたを妻としたい。ええ、同意いただけないことは理解しています。そこで──あなたをまずワタシの使い魔にします」
林崎は水銀で濡れた指を円理に近づけてきた。
「魔術師が使い魔を得るには、こうして自分の血液を対象とする動物に飲ませる必要があります。もちろん、女だって動物です。さあ、遠慮なさらず」
「や、やめろ」
円理は必死に身をよじらせて顔を背けた。
ふむ、と林崎は部下を見た。部下の一人が拳銃を取り出して二果の頭に押し付ける。
林崎は楽しくて仕方ない風情で笑う。
「ご協力いただけないなら、ご友人がどうなっても知りませんよ?」
「円理! 駄目!」
二果が気丈に円理をいさめる。
「あたしはどうなってもいいから。円理は自分を大切にしなきゃ駄目」
「ずいぶんと美しい友情じゃありませんか」
林崎は二果に初めて興味を示した。
「あなたはどうしてそこまで円理さんに尽くすんです? 理由を教えて下さいよ」
「円理、覚えてる? あたし、昔はどもりがひどかったよね。でも、円理は笑わないで友達になってくれた。それだけじゃない。あたしのどもりを直すために協力してくれたよね。その一つが絵本の朗読でさ。その時、自分の語る言葉が人を感動させるって知ったんだ。だから、自分の言葉で世界を変えるジャーナリストに憧れたの。全部、円理のおかげなんだよ」
「いや、実に素晴らしい。しかし」
やおら、林崎は二果のふとももにナイフを突き立てた。あああ、と二果がうめく。林崎がナイフを抜くと、血が勢い良くあふれてくる。
林崎は顔を返り血で汚しながら円理に迫る。
「さて、動脈を傷つけました。手当しなければ五分しか持ちませんよ。どうします? ワタシの使い魔になれば、ご友人を助けてあげましょう。迷っている時間はありません。時間は血液のように大切です。さあ、さあ、どうします?」
「円理……駄目……」
いまにも命を失うというのに二果は最期まで円理を気づかう。その友情を失っていいのか。自分はまた二果を見捨てるのか。円理の苦悩は極まった。
兄さんが好きだ。兄さんに自分のすべてを捧げたい。そう思って守ってきたものがある。それを林崎に差し出すなど、考えただけでもおぞましい。しかし、そうすることで二果が守られるなら、決断するしかないのではないか。
円理が林崎の指に舌を伸ばす。
その時だった。
雷のような衝撃が部屋を襲う。コンクリートの破片が部屋に舞った。
一瞬、円理は体をこわばらせて目をつむる。
再び目を開けた時、壁を突き破って、黒い装甲をまとう怪人が姿を見せていた。中世の甲冑を黒く染めたような装甲が全身をくまなくおおう。わずかに開いている顔のスリットからは赤い眼光が漏れ光る。林崎への殺意がはっきりと見て取れた。
まがまがしい殺意を向けられても林崎は動じない。
「撃て」
林崎の命令に部下たちは一斉に短機関銃を撃ち始めた。弾雨が怪人に降り注ぐ。しかし、装甲を傷つけることはかなわない。
怪人が軽く腕を振るうと、部下たちは簡単になぎ倒されてゆく。これでも手加減しているのだろう。死んだ者はいないようだ。しかし、戦闘を続行することが困難なのは一目瞭然。床に倒れた林崎の部下たちは全員、半死半生だ。黒い怪人の拳一つに驚異的な威力が秘められている。
怪人が部下と戦っている間に林崎は部屋から逃走した。しかし怪人は林崎を追うより、円理たちを優先する。
腕を一閃。すると、円理と二果を縛る縄が切断された。
体が楽になって、円理は息をついた。
怪人は次に二果の傷を見た。そして、拳を強く握る。拳の間から血液が滴り落ちてきた。その滴が二果の傷に落ちると、傷はみるみるふさがってゆく。二果の治療が済んだところで怪人は円理に背を向けた。
森で出会った獣が姿を消す気配。円理は怪人が林崎を追うのだと確信した。待ってくれ、と背中に言葉をぶつける。
「兄さん? 兄さんなのか?」
円理の問いに怪人は答えない。現れた時と同様、すさまじい衝撃波を巻き起こして外に飛び出していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます