第25話:再演魔術

 演劇が催される公民館は町の中でも低地に属す。川の水があふれた時にどれだけ水かさが増したか、目盛りが残されている。ちょうど公民館の一階部分が飲み込まれたようだ。そのような恐ろしいことがもうないことを円理えんりは願っている。


 しかし洪水の記憶はすっかり遠のいてしまった。いま、公民館に集まっている人々のほとんどは意識していないだろう。


 上演は夕方だ。終わる頃には花火大会が始まる。

 だから暇を持て余した人々が来場するのは自然なことと言えよう。元々、娯楽の少ない町だ。しかも、いまもまた世間を騒がす殺人鬼が題材なのだから、なにかしら人々の琴線に触れる部分があるのかもしれない。


 公民館の二階には多目的ホールがある。ここを使用する目的は様々だ。映画を上映することもあれば、演奏会を催すこともある。

 円理は二果にかを始めとする仲間たちとともに多目的ホールに入った。内部にはほこりっぽい空気が漂う。汗など、人々の匂いとともに熱気が伝わってくる。人々の期待感は大きいようだ。そこかしこでざわめきがある。


 ホール内にはお年寄りの姿が多い。時折、魚肉ソーセージをかじる。ずいぶんとくつろいでいるようだ。

 多目的ホールが薄暗くなってきた。もうじき幕が上がる。


「ねえ、円理」


 二果はカメラの準備を整えて円理に尋ねた。


「もし。もしだよ。円理が期待するような真実じゃなかったら、どうする?」

「その時は」


 円理は袖の中で小型拳銃を握った。

 この銃を兄に向けることもあるかもしれない。


「ご来場の皆様。『人魚の里に胡弓が鳴れば』、上演開始です」


 電光掲示板が点滅した。

 いよいよだ。

 幕が上がる。



 舞台中央に立つ青年の声が響き渡る。


「僕は妹を食い殺したいと思っている。性的な意味じゃない。肉料理としてだ」


 細身の、神経質そうな青年だ。

 その妹というのは、黒髪を長く伸ばした娘で、古風にも着物を着ている。しかし杖は突いていない。


 兄妹の仲は睦まじい。まるで恋人のように。

『妹』は『兄』が殺人鬼とは気づいていない。気づかずに『兄』を無邪気に慕っている。彼女は『兄』に恋しているようだ。はっきりとセリフがあった。


兄様あにさまはどうしたら、わたしの気持ちに気づいてくれるんだろう? わたしは兄様の妻になりたい。わたしの体はずっと兄様が欲しいと叫んでいる。この叫びを無視することはできない」


 身につまされる言葉だ、と円理は肌で感じた。当然だろう。あれは自分がモデルなのだから。

 しかし他の観客の反応は良くない。眉をひそめるような気配が濃厚に漂う。席を立ってしまう姿もあった。確かに倫理につばを吐くような内容だ。それでも観客のほとんどが残っているのは、開幕直後の『兄』のセリフが効いているのだろう。


 すなわち、『兄』は本当に『妹』を食い殺すのか。


 兄妹の結末を観客たちは固唾をのんで見守る。

 舞台上では『兄』の殺人が続く。『兄』には奇妙なルールがある。食い殺す前、女たちと語り合うのだ。女たちの多くは娼婦で、『兄』は彼女たちの身の上話を聞き出すのが上手い。


 女たちは皆、問題を抱えていた。家庭や学校など、周囲の環境が彼女たちを威圧する。そこから逃げたい、と女たちは願う。そんな彼女たちは悪として世間から追われてゆく。彼女たちの願いを叶えるのだ、と『兄』は言う。


「僕は彼女たちを殺すのではない。彼女たちの命を飲み込むのだ。彼女たちの願いとともに」


 殺人は止まらない。

『兄』は舞台上で独白する。


「僕が本当に食いたいのは彼女たちじゃない。本当は妹を食い殺せばそれで満足なのだ。だが、あんなにも可愛い妹を殺せるだろうか。僕はあの子といつまでもいっしょにいたい。それが僕の迷いなのだと分かっていても」


 妹を殺したい。兄に抱かれたい。それぞれが想いを抱えながら、兄妹はついに一線を越えてしまう。『兄』が『妹』のお願いを拒みきれず、抱いてしまうのだ。


 それから年月が流れた。

 何年、経っただろう。いまだ殺人を続ける『兄』の前に怪人が現れた。

 黒い装甲に身を包む不気味な存在。

 急展開に円理は疑問を感じた。ちょっと待て。黒い怪人の正体は兄ではないのか。なのに、どうして『兄』の前に黒い怪人が現れる?


 円理の疑問はさらなる疑問を呼んだ。

 舞台上で『兄』が白い装甲に身を包んだのだ。

 おかしい、と円理は悟った。あの『兄』は自分の兄じゃない? じゃあ誰なんだ?


 白と黒の装甲が激突する。

 激しい音楽がホールに響く。

 戦いながら怪人たち二人は叫ぶ。黒の背骨は、秩序に逆らった者たちを食らってきた。白の背骨は、秩序から逃げ出した者たちを食らってきた。人々の違いは、戦うか逃げるかという一点だけだ。


 白い怪人が叫ぶ。「人間は弱いものだよ。逃走こそ、唯一の選択だ」

 黒い怪人が叫ぶ。「そんなことで妹を幸せにできるのか。俺は自分の妹にそんなことをしたいとは思わない」


 怪人たちの戦いに答えはなかった。

 そして『妹』が舞台にまた現れる。拳銃を持って。


「兄様。もうやめてください」


 彼女は『兄』の犯行に気づいていた。そして拳銃を向ける。


「兄様はわたしを食べたいんでしょう? なら、わたしを食べてください。それで終わりにできませんか?」


 円理の疑問は『妹』のセリフで益々、大きくなっていった。自分はグールメイジの事件であんなことは言っていない。そもそも兄が犯人だとは気づいてさえいなかったのだ。まして拳銃など向けた覚えもない。

 あの兄妹は一体、誰なんだ?


 舞台の上で兄妹が対峙する。

『妹』が長い黒髪を振り乱して叫ぶ。


「わたしには分かります。妹だから。兄様の子供を産んだから。兄様は決して満たされない修羅の世界にいるのです」

「そうだ、涙湖るいこ。僕を撃て。それで終わりにしよう」


 涙湖?

 その名前に円理は愕然とした。

 ねえ、ととなりの二果が肘を突いてきた。小声でささやく。


「この名前って円理のお母さんだよね?」

「ああ、そうだ」


 そうだったのか、と円理はようやく兄妹の正体に気づく。あの兄妹は自分の父母だ。父・計良けいら、母・涙湖。二人は実の兄妹だったということになる。恐ろしい事実だ。もし円理もまた実の兄に恋していなければ、打ちのめされていたかもしれない。

 舞台上では『妹』が拳銃を突きつけているが、なかなか撃つ決断ができない。

 迷いを見せる『妹』に対して観客からブーイングが上がった。


「撃て! あんな殺人鬼、殺して当然だ!」


 そんな声もある。

 二果は円理にだけ聞こえる声でささやく。


「これって、再演魔術かも」

「なんだ、それは?」

「過去に起きた出来事を再演してみせることで秩序の力を利用するんだよ。観客が望むとおりに内容を変えちゃうの。油野養殖はグールメイジ事件の結末を変えようとしているんだよ」


 何故、二果が魔術のことを知っているのか。

 その疑問を問いただしている余裕は、円理にはない。

 観客の声はどんどん大きくなってゆく。


 撃て。撃て。撃っちまえ。


 円理は周囲を見渡す。どの顔も怒り狂っている。正義の怒りだと確信していることがうかがえた。人々は正義に酔っている。怒号が巻き起こった。


「やめろ……やめてくれ……」


 円理は弱々しい声を出す。

 母が父を撃つ。そんなひどい結末など見たくない。

 しかし舞台に暗闇が降りた。銃声。


「ああ!」


 円理は悲しみに貫かれて顔をおおった。

 ホールは奇妙な気怠さが漂う。絶頂からなだらかに下降してゆくかのような。そんな気怠い時間。人々は正義が実行されて満足している。一方、円理は打ちひしがれていた。その円理の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

 嘲弄ちょうろうするような口調。


「いやあ、みなさん、ご苦労様です」


 舞台に上がってきたのは林崎りんざきだ。

 林崎だけでない。奇怪な装置も昇降機で舞台に上がってきた。女がつながれた機械──「産む機械だ」と二果が声を上げた。そして、産む機械につながれた女性を、円理は知っている。母の涙湖ではないか。一体なにがどうなっている? 円理の疑問は観客も抱いているのだろう。ホールはざわついた。


「さあ! みなさん、ここからが本番ですよ!」


 林崎が楽しげに手を叩いた。


「兄妹婚というのは、まあ、秩序に反する行為ですな。しかし、昔はそうではなかった。つまり、兄妹婚をいま行うというのは、秩序に反するだけでなく、古代への回帰も意味します。混沌の色合いが濃かった古代へと」


 観客は呆然としている。

 かまわず林崎は続けた。


「そして妻となった妹が夫である兄を撃つという行為にも意味があります。無敵の人という言葉を聞いたことはありませんか? 失うものがなにもない人間は無敵なのだと。兄妹であり夫婦でもある関係になりながら、その妹に撃たれるなど、まさに無敵になるということですよ。つまり秩序のおよばない世界に行くということです」


 そうして、と林崎は宣言した。


「兄は、妹に撃たれて、ようやく資格を得た。すなわち、寄る辺ない人々の父となる資格をね」


 林崎は真面目くさって注釈を加える。


「兄はずっと自分が殺してきた人間たちと同じ立場に立ちたいと願っていましたからねえ。人類みな兄弟ってわけです。いやあ、素晴らしい。ワタシは不出来な弟でしたが、これで少しは恩返しできますね」


 産む機械につながれた涙湖が苦しげな声を出している。呼吸が荒い。股の間から飛び散る飛沫。産まれる。なにかが産まれようとしている。そして涙湖が上げる声はまるで胡弓のように物悲しくて。

 人魚が歌っている。新たな命の誕生を前にして。

 観客の間で変化が生じた。魚肉ソーセージを食べていたお年寄りたちが異様な姿に変貌してゆく。目の間隔は離れ、魚のような顔に。背中はさらに曲がる。手足などは節がいくつも生まれてしまった。まるで魚人。

 林崎がくつくつと喉を鳴らす。


「新たな楽園にはやはり奉仕する種族が欠かせないですよねえ」


 大げさな身振りを交えて林崎が宣言する。


「そして世界から追われた命が妹に注がれ、新たな生物となって地上によみがえります。さあ、破水の時を待ちましょう。その大洪水が古い世界を洗い流してくれるのです」


 観客が逃げ出そうと立ち上がった。本能的な恐れが呼び起こされたのか。

 一方、円理も二果も逃げることはできない。パニックになった観客たちに飲み込まれるのは危険だ。実際、観客たちは扉に殺到した。一部は転び、続く人々に踏み潰されてゆく。

 混乱の中、林崎はいつの間にか円理の前に進み出ていた。


「さて、円理さん。あなたにもやって欲しいことがあるんですよ」


 円理はその時、観客たちが目指す扉の一つに一人の人物が現れるのを見た。黒い装甲が鈍く光る。ああ、と円理は嘆息する。また兄は力を使ってしまった。次はもうないかもしれないというのに。

 林崎はその姿を認め、ほくそ笑む。


「やはり来ましたね。でも、あなたの相手をするのはワタシじゃありません」


 舞台の上にまたも新しい登場人物が現れる。

 その人物とは咲子さきこだ。ばぎん、という金属音が響いた。咲子の背骨から白い棘が次々と飛び出す。そして咲子の体にからみつき、白い装甲と化した。

 さあ兄貴、と林崎はけしかける。


「今度こそ勝負をつけろ」


 白と黒の装甲が、親と子が、激突する。



 戦いの行方を円理えんりは見つめる。

 常一じょういち計良けいらの戦いは、すぐに屋外へと移っていった。高速で移動する二人には、公民館の中はあまりに狭い。


 すでに日は沈んでいた。

 天に満ちるは星。そこに白と黒の軌跡が交じる。縦に、横に、交錯をくり返す。町が破壊されてゆく。ただ足場にしただけで建物は無残に砕ける。恐ろしい力。人間には介入できない戦いだ。しかも肉眼で捉えるのが難しい。戦いはどちらが優勢なのか、円理には判断できない。


 しかも円理は追われている。林崎りんざきがいつ現れるか分からない。

 二果にかが手を取って円理を誘導する。


「屋上に行こう。いつ洪水が起きるか分からない」

「一体どういうことなんだ?」


「円理のお母さんはアースシーの血を引いている。アースシーから来た女はね、妻となり、そして母となることでアースシーの扉になるの」


 二果が、仲間たちが、円理を守りながら階段を登ってゆく。

 周囲の混乱は阿鼻叫喚の地獄と言っていい。断末魔がそこかしこから聞こえてくる。

 しかし円理はそれどころではない。


「二果。君はどうしてそんなことを知っているんだ?」


 ぴたり、と二果が足を止めた。

 その視線の先に、やはり林崎がいる。


「見つけましたよ、ワタシの母となる人」


 林崎が階段を降りながら円理に手を伸ばす。

 びくっ、と円理が体を震わせた時。

 林崎の手が宙を舞った。次いで、大量の水銀が飛び散る。


「があっ? き、貴様!」


 林崎が腕を抑えて狼狽する。

 その腕を切断したのは二果だ。二果の右腕は装甲でおおわれて剣と化している。その剣で林崎の腕を切り飛ばしたのだ。二果はさらに林崎を攻撃。その首を切り落とした。見事な動きだ。以前の二果とはまるで違う。

 二果が寂しげに笑う。


「円理。ごめんね、ずっと黙ってて。あたしね、一度死んだんだよ」

「死んだ?」

「廃病院でね。先生は間に合わなかったんだ。だから、あたしを使い魔としてよみがえらせた。そして、円理を守るように命じていたんだ」

「兄さんが、そんなことを……」

「それより急いで。いつ洪水が起こるか分からない。少しでも安全な場所に行かないと」


 円理たちは屋上に出た。

 常一と計良の戦いは依然として続いているようだ。

 円理はどちらを応援していいものか、分からない。


 迷う円理の前になにかが飛来してきた。破片が舞い散る。すさまじい速度で常一が落下してきたのだ。常一が押されている。円理はそう直感した。

 実際、常一の装甲は欠損が激しい。

 駆け寄ろうとする円理を、二果が押さえる。

 次の瞬間、またも衝撃があった。今度は計良が現れる。


「驚いた顔をしているね」


 咲子の声で計良が語る。


「どうして最強である自分が勝てないのか、疑問なんだろう? 簡単だよ。秩序の力とは、言うなれば意志の力だ。その意志が明確であるほど強い。そして僕はいま、世界からの逃亡を試みた人々の意思を代表している。強い力だ。秩序の力にも負けはしない」


 だけどね、と計良は常一を指差す。


「おまえだって人々を代表しているんだよ。その声に耳を傾けなかったおまえに勝ち目などない」


 その時、階下からすさまじい衝撃が起こった。見れば、入り口という入り口から水があふれている。ついに破水したのだ。激流は町を飲み込んでゆく。祭りに集まった人々はその中へと消えていった。

 そして計良は常一に最後の一撃を加えた。

 衝撃音とともに常一は水面へと落ちていった。


「兄さん!」


 円理は考えるより先に自分も水面へと身を投げた。どうしてだろう、自分には兄を助けられると直感したのだ。激しい衝撃。無数の気泡が円理を包む。水。水だ。自分はいま母なる海の水に触れている。

 冷たくはない。かと言って熱くもない。ちょうど心地よい温度の水だ。激しい水流さえなければ、母の胎内にこれほどふさわしい環境はないだろう。混沌世界アースシーはとても近い場所にある。母の胎内こそ帰るべき異世界なのだ。

 その世界で円理は変貌した。


 人魚へ。

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