第五章:生と死の境界線上で

第26話:兄妹は禁忌の河を越えて

 常一じょういちは見た。円理えんりが人魚に姿を変え、激流を乗り越えて自分を助けてくれるのを。


 そして気がつけば、常一たちは河原で抱き合っていた。

 すでにあたりは真っ暗だ。まだ一夜も経っていないことが察せられた。

 常一は濡れた円理を何度も撫でる。


 愛おしい。この愛が妹を殺す。だが、自分は愛情と向き合う時が来たのではないか。乗り越える方法は分かっている。以前の自分は気づかないふりをしていた。そのようなあいまいな関係ももう終わりなのかもしれない。

 やがて円理が目覚めた。


「ん……兄さん?」

「円理。助けてくれてありがとう」


 常一は円理を従えて歩き出す。円理の母が大洪水を起こしてから、状況はどう変わったのだろう。時折、風が吹いてきて、ひどい臭いを運んでくる。まるで地獄が蓋を開けたような臭いだ。

 常一と円理が歩くのは、かなりの高地らしい。山道で咲くのはどれも高山植物。円理は常一を運ぶ際、ずいぶんと上流へさかのぼったと見られる。川の濁りは相当なもので、下流からの激流が凄まじかったことがうかがえた。


 夜道をしばらく歩いていると、山小屋を見つけた。

 かなり手入れが行き届いているようだ。常一はストーブをつけ、濡れた服を乾かすことにする。幸い、清潔な毛布が残されていた。裸になった常一と円理は毛布にくるまって、ストーブの前で暖を取る。夏とは言え、冷たい川の水に浸かっていた体は冷え切っている。こんな時、温もりが恋しい。


 常一はコーヒーを淹れることにした。ストーブで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを用意する。

 二人でコーヒーを飲むと胃がじんわりと温まってゆく。


 円理はずっと無言だ。

 無言ではあるが、円理の視線は熱っぽく、なにかを常一に語りかけている。いままでもその視線に気づかないふりをしてきた。だが、それももう終いではないか。

 円理はコーヒーを飲み終えて、コップを床に置いた。


「兄さん。これから先、どうするつもりなんだ?」

「どうするって?」

「父さんと戦うつもりなのか、と聞いている」


 円理の問いに常一はすぐには答えなかった。

 二人の父である計良けいらは圧倒的な強さを見せた。父の背後には世界から逃げ出そうとした人々がいるという。逃避行へと傾く人々の意志は、漠然とした秩序の力を超える。果たして、自分に対抗する力があるのか。

 常一はコーヒーを飲み干した。手は情けないほど震えている。


「円理。父さんのことを黙っていてすまなかった。おまえには知らせたくないことがたくさんあったんだ」


 父が殺人鬼グールメイジであったこと。父と母が兄妹であったこと。いずれも娘の円理には衝撃的な事実だっただろう。

「兄さん。兄さんの小説は半分、私小説なんだね。半分は兄さん。半分は父さんだ。母さんとわたしは二世代に渡って、兄への恋に身を焦がしていた。なんとも滑稽だ」

「おまえには酷な話だな」


 常一はストーブの炎を眺めながら語る。


「親父は正気だったうちに俺に背骨を預けた。ちょうど、おまえが林崎りんざきに誘拐されたあとのことだ。だが、親父はとうとう仙台の街で正気を失った。俺はそんな親父と戦い続けたが、親父を殺す覚悟がずっとできなかった」


 だけど、あの晩。常一は父の訃報が飛び込んできた夜について語る。


「親父はおまえに手を出そうとした。その時、俺の中で親父は死んだ」


 常一は拳を握り、しばし黙り込んだ。


「おまえが気づかないうちになにもかも片付けてしまいたかった。そのために汚いこともするつもりだった。だが、事態は俺の予想を超えて、世界の命運を揺るがす規模になってしまった。もう、俺たち家族の問題とは言えない」


 説明を続ける常一に円理は身を寄せてきた。柔らかい体が当たる。

 兄さん、と円理は常一の首筋に頭をこすりつけた。


「兄さんはずっと戦っていたんだね。わたしを愛する気持ちと、わたしを食べたい気持ち。父さんのしようとしていることを話したい気持ちと、わたしに知らせたくない気持ち。兄さんの気持ちを全部、わたしは受け止めてみせる」


 すでに円理の中では気持ちの整理がついているようだ。

 一方、常一の心の中ではまだ後悔が渦を巻いている。

 震える手を見た。


「残念だが、俺にはもう力が残されていない。俺の体はもう限界だ。これまでだましだましに力を使ってきたが、もう終いだろう。それに秩序の力では親父に勝てない。逆転する方法は──いや、もういいんだ」

「方法はあるじゃないか」


 円理は常一の腕を取り、自分のほおに押し当てる。奇妙な言い方をした。

 口調は断定的ながら、体は甘えてこすりつけてくる。その矛盾した様子は、かえって円理の希望を物語るかのよう。実際、円理の体はミルクのように甘い香りを放つ。その香りに誘われて、押し倒してしまえたら。常一はそんな妄想を抱いた。

 果たして円理はその妄想を実行せよという。


「兄さん。わたしを抱いてくれ」

「円理。それは」

「兄妹でそんなことをするのは秩序に背く。それは分かっている。だが、兄さんに戦う力を授けるにはそうするより他にないじゃないか」


 第一、と円理は常一の胸に甘えてきた。


「そんな事情がなくても、わたしは兄さんに抱かれたいと思ってきた。なあ、兄さん。わたしでは不満か。わたしでは兄さんの欲を満足させられないか。正直に答えてくれ。兄さんはわたしを抱きたいとは思わないのか?」


 円理はまっすぐに常一を見る。

 情熱的な瞳。円理は全身で訴えている。

 長い黒髪が濡れた姿が美しい。髪だけではない。艶やかな唇も、その唇が放つ言葉も濡れている。

 抱いて欲しい。

 これほどまで情熱的に求められた経験は、常一にはない。


 常一はこれまで円理を守るために良き兄であることを自分に課してきた。だが、美しく成長した妹と接するうちに淫らな想いを抱き始めたのも事実だ。妹を手放したくない。自分の手で妹を女にすることができたら。そんな妄想を抱くようになってしまった。

 円理の声は一層、甘えて媚びるような響きを増してゆく。


「人魚の血を引くわたしを抱けば、兄さんはまた戦えるんだろう? なら、迷うことはないじゃないか。世界を守るために、世界の秩序に反する。それは悪かもしれない。だが、必要とされる悪だ。少なくてもわたしは、兄さんが正しいことを知っている。それだけじゃ不満か?」


 ストーブの火が燃え盛っている。常一の内部でも燃え盛っている火があることを、彼は自覚していた。

 それでも兄としての自覚が常一を押しとどめる。


「駄目だ。俺はおまえにちゃんとした恋をして、幸せをつかんで欲しいんだ」

「ちゃんとした恋ってなんだ?」


 もう円理は止まらない。


「血のつながった兄妹だって、違う魂を持つ一組の男女だよ。他の夫婦となにが違う? 確かにわたしは兄さんに依存していた。依存する心を恋だと思っていた。でも、いまは違う。わたしは兄さんを救うためにわたしの全存在を捧げていいと覚悟した。そうすることで、わたしは初めて兄さんと対等になれるんだ」


 円理の理屈は世間から指弾されるたぐいのものだろう。だが、常一だけは分かってあげたいと思う。そう思ってしまった。

 妹の指が常一の肌を這う。


「それとも兄さんは秩序の力からの支援を失うのが怖いのか」


 妹を抱くということは秩序に反するということだ。もう秩序の力を得ることはできないだろう。

 だが、それがどうした?

 常一は円理を愛している。肉的に食べたいのか、性的に食べたいのか、もう判別できない。ただただ愛おしく、常一はその感情に身を委ねる。

 常一は円理を押し倒した。


 すでに常一の一部分は猛り立っている。

 あとは言葉はいらない。

 兄妹は情熱に身を任す。星が何度も落ちた。



 翌朝、ラジオの声が流れる中で兄妹は朝食をとる。スープに乾パン。質素だが、山小屋で保存されていた食材では仕方がない。

 常一は円理の顔を注視するのが難しかった。


 円理は一層、美しい。いや、いまこそ円理の美しさは花開いたのだ。春雪の中から草花が芽吹いたかのよう。肌の輝きも違う。指を一本、動かすだけで女が匂い立つ。なんとも素晴らしい生き物が目の前にいる。これが自分の妹だとは思えない。

 常一は言葉をかけることもためらわれ、ラジオに傾聴した。

 ラジオはただならぬ情勢を伝える。


「水没した神室町を目指して人々が行進しています。人々は産み直してもらうために神室町を目指すのだとか。これは言うなれば、死の行進です」

「しかし、その行進を標的にして各地で虐殺が起こっています」

「治安出動を命じられた自衛隊では、現場でサボタージュが起きているという情報が入っています。虐殺は、政府が武器を渡した過激な政治グループが主導しているとのことです」


 次々と異様なニュースが飛び込んでくる。

 たった一日で状況は目まぐるしく変わった。

 常一は円理と顔を見合わせる。


「円理。行くぞ」


 最後の戦いが近い。

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