あぁ、くそったれ
乱暴に、玄関のドアを開ける音が響く。いつもの音だ。品性の、礼儀の、思いやりの、敬いの、欠片も無い、渇いた音。埃まみれの壊れたオルゴールを力任せに開けるような、綺麗に梱包されたプレゼントボックスをビリビリに破いてしまうような、そんな音が、食卓に響いた。それなのに、少女は音を立てた主に、笑みを向けた。
「お母さんっ、お帰りなさいっ」
少女の高ぶった声とは裏腹に、俺の体は雪すら凍らす程に冷え込んだ。全身の毛が逆立つ感覚を味わう。何も起こるな。何も話すな。今更になって、死んだ婆さんに蘇ろ、と願った。
つかぬ間の団らんを遮断した醜悪の権化は、少女に嘲るような鼻息だけを吹きかけた。腫れぼったい瞼に紫を塗りつぶし、大きな顔は赤みを帯びている。小さな口には朱色の紅を塗りたくり、鋭く尖った顎が魔女の靴を思わせる。ランプの明かりに煌めく派手な衣服に身を包み、小さな胸をこれ見よがしに見せつけていた。長い金髪だけが、少女との脆い繋がりを結んでいるようだった。
醜悪だ。死んだ魚のような眼差しを、いや、死んだ魚の方がまだ活きとしてる。下水を流れる潰れたドブネズミの様な眼差しを、少女に向けている。このまま、いつものように少額の金だけを置いて、あからさまに足りない少額の金だけを置いて出て行ってくれ。いつもの様に、少女の声に耳を貸さず、母子の繋がりを鉈で千切りきってしまうように、出て行ってくれ。
「あのね、お母さん」
少女の表情が沈む。俺の心臓は高鳴った。悪い予感なんて感じなければ良かったんだ。今更後悔しても、それは後先考えずに興味本位で猫の尻尾を噛んだドブネズミの様に、遅すぎる。
「お婆さんが、死んじゃったの」
そう伝えた少女の目は、助けを求めていた。この醜悪の権化がその助けに手を差し伸べるなんて、それこそ奇跡だ。どこぞの神が山羊に生まれ変わりたいと泣きわめくぐらい、仕様もない奇跡。
「あいつ死んだのかいっ」
排泄物で作り上げたような塊は、そういって笑い始めた。腫れぼったい紫を目一杯に見開いて、喜びを表現している。それが首を絞められたカワウソの様な笑い声を上げる度に、甘濁った口臭が狭い室内に漂う。
呆気に取られた少女の表情が、再び沈んだ。それでも、繋がりを求めた目線を排泄物に向けている。
「そうかい、死んだのか。寝室にいるのかい? 最後に唾でも吐きかけてこようかね」
ラフレシアの臭気を凝縮して作り上げた様な化け物は、そういって婆さんの寝室に目線を向けた。その汚らしい口元から飛び出る言葉は、酷い臭気を伴って部屋に飛び散る。
「お婆さんは庭に埋めたわ。お墓を作ったの」
少女の言葉に、化け物は眉間に皺を寄せた。
「なんだって。余計な事をするんじゃないよ、この愚図。あんなのは森にでも捨ててネズミの餌にでもすれば良かったんだ」
俺の脳裏に、泣きながら穴を掘り続けた少女の姿が浮かんだ。苛立ちと怒りが全身を支配する。殺意さえ沸いた。沸いたどころじゃない。俺の体が中型犬程に大きければ、確実に噛み殺している。ただこれほどの殺意を持ってしても飛び出せないのは、やはり俺もドブネズミ同様に臆病者なんだろう。
「そ、それでね、お母さん」
少女は無理矢理に笑みを浮かべて、なんとか平穏を掴み取ろうしている。端から見れば喜劇だろう。大砲に槍で立ち向かうような、何かしらの神に銅貨一枚で願いを託すような、最低な母親に親の務めを求めるような、笑えない喜劇だ。
「お、お母さんも、あの、お婆ちゃんも死んじゃったし、お母さんも、ここで一緒に、住んでくれないかなって、思ってるの」
母親との会話にしては
「フザケるんじゃないよ、まったく。誰がこんな所に住もうと思うんだ。せっかくあいつが死んでくれたんだ、二度と立ち寄る事はないさ」
それでも少女は、平穏を求めるように笑みを絶やさなかった。いつかは報われると信じるかのように。
「あのね、お婆さんの部屋も綺麗にしたの。お掃除だってお料理だって私がするわ。だから、お母さんと一緒に暮らしたいの」
「さっきから、お母さんなんて呼ぶんじゃないよ、この愚図。そう呼ばれる度に女としての価値が下がっていっちまうんだ。ここへ来る度にあんたが母親扱いなんかするから、その所為で最近は客の入りも悪いんだ。嫌がらせでもしたいのかい」
少女の母親であるという役目さえ捨て去るなら、俺はお前を人間とは認めない。傷んだジャガイモの様に押し潰して豚の餌にしてやる。
「ご、ごめんなさい」
少女の寂しそうな目線が床に向いた。小さな唇は震え、目元には今にも流れ出しそうな水滴が留まっている。そして俺の体も震えていた。どうしても飛び出せない意気地の無さも、それに拍車を掛けていた。
「あんた勘違いしてるんじゃないのかい?」
壁になげつけたトマトの様な笑みを浮かべて、人間では無い何かは続ける。
「お金を置いていくのは、別にあんたを喰わせようとした訳じゃない。あの死に損ないが世話をしなきゃ役場に密告するなんて騒ぐから、金だけ置いてあんたに世話をさせただけだ。何度も殺してやろうと思ったがね、そんな難儀をするよりは幾分も楽だったさ。それもあいつが死んで終わったんだ。こんなボロ小屋なんか二度と立ち寄るもんか」
「じゃあ、私も連れてって欲しい。迷惑は掛けないわ」
少女は最後の糸を必死で手繰り寄せている。その先には愛情があるのだと信じているのだろう。
「なぜお前を連れて行くんだい? それだけで迷惑ったらないじゃないか」
「じゃあ私はどうしたら良いの? お婆さんは死んじゃったわ」
「この豪華な一軒家にでも住めば良いさ。最高じゃないか。あいつの世話をした褒美にくれてやる」
「でも、それだと、わ、私、一人になっちゃう」
ついに、少女は涙を流した。辛抱強かったと抱きしめたかった。でもこの小さな前足では、それすらも叶わない。
「何泣いてんだいっ、苛つくね。婆さんの世話が無くなったんなら、あんたも働きな。もう十三だ。いつまでもガメツく生きてるんじゃないよ、この愚図」
「わ、私、十四才になったんだよ」
「だからどうしたんだいっ、まったく。十四ならなおさら一人で生きていくんだね。折角の良い気分が台無しだよ」
「仕事も決まったの。お金だって稼げるわ。迷惑なんて掛けないから、お願いお母さん。一人にしないで」
「だからそう呼ぶなっていってんだ。この能なし。あの人が産めっていうから産んだだけだ。あの人の女になりたかっただけで、あんたの母親になる気は無かったんだよ」
「お母さんと一緒に居たいのっ」
「いい加減にしろっ、この愚図っ」
俺は、真っ白になった。何かを考える事が出来なかった。小さな体だけが、食器棚の隙間を抜けて壁を走っていた。人間の皮を被ったドブネズミの奥歯よりも劣る何かが、少女に向けて手を振り上げている。体が勝手に動いていた。壁を中腹まで駆け上って、後ろ足が跳ねる。
細切れにされたミミズの尻尾よりも存在する価値の無い何かの首筋に飛びかかりながら、俺の真っ白だった頭の中が黒く塗りつぶされていく。殺してやる、その思いだけで。
何かが、少女の体を叩いている。俺はその何かの首筋に、前歯を突き立てた。無我夢中で、怒りに駆られ、忘れていたのかもしれない。俺はどれだけ背伸びをしても、元ドブネズミだ。短い前歯は、その何かの首筋に、小さな傷をつける事しか出来なかった。すぐさま、握り潰されそうになる力で、小さな体は捕らえらた。力任せに、食卓に投げつけられ、どこかの骨が折れる音を聞きながら、俺は床に転がった。
「なんだいっ、このドブネズミっ。踏み潰してやるっ」
「ピーターっ」
ひび割れた壁の様な顔をした何かの振り上げられた足を遮って、少女が俺を庇った。
「どきなっ、愚図」
華奢な体を踏みつける低音がやけに響いている。俺の揺れる視界には、目を瞑って全てに堪え忍んでいる少女の顔だけが見えていた。俺も、目を瞑ってしまいたかった。そんな顔を見るくらいなら、死んでしまった方がマシだと思った。ただこの場に少女だけを残して、俺が先に行くわけにはいかない。
「はっ、お似合いだね。一生そうしてな、愚図。まったく、気分が悪い」
耳の中に最低な聞き心地だけ残して、部屋に響いていた低音は止んだ。俺の視界は、どんどん狭まっていく。少女は歯を食いしばって、顔を上げた。それを最後に、俺の視界は真っ暗闇になった。体も動かず、耳だけが、少女の動きを捉える。
「どうすればいいの? 私は嫌われたって、お母さんと一緒に居たいの。何でもするわ。殴られたって良いから、ここじゃ無くても良いから、一緒にいたい」
「五月蠅いって言ってんだっ、この愚図っ。お前に居られちゃ迷惑なんだ。邪魔をするんじゃないよ、まったく」
少女の啜り泣きが耳に届く。だが、それで良い。早く出て行け。今は辛いかもしれないが、一週間もすれば忘れるはずだ。ここで、繋がりを完全に切ってしまえば、少女は自由だ。
ラフレシアの様な独特の臭気を放つ排泄物で作り上げた醜悪の権化は、苛立った鼻息を吹かせて、足音を響かせた。そうだ、そのまま出て行ってくれ。咽び泣いている娘を残して。それで良い。後は、乱暴にドアが閉まる音だけを聞かせてくれ、と俺は願った。だが、やはり俺はただの元ドブネズミ。神は願いを聞き入れない。ドアの閉まる音は響かず、足音が止んだ。
「そうだね、じゃあこうしよう」
やけに落ち着いた臭気が、部屋中に漂った。止めてくれ。何も言うな。殺してやる。
「仕事が決まったんだろ? 金を貯めて持ってきな。そしたら頭の一つでも撫でてやる。ちゃんとお前が約束を守り続けられたら、一緒に住むのも考えてやるさ。分かったかい?」
「ど、どこに、届ければ、良いの?」
声を詰まらせながらも、少女は聞き返してしまった。その声に若干の希望が含まれている事に、俺は気づいた。泣きながら話してはいるが、長い付き合いだ。それぐらいは分かる。急に全身の力が抜けて、俺の意識は聴力と共に失われていく。
「ヤンデ通りの茶色い建物だ。金が貯まったら持ってきな」
ドアが乱暴に閉まる音が耳を叩いた。それを最後に、俺の聴力は何かを諦めたように失われ、少女の泣き声すら聞こえなくなった。
分かってるさ。少女は約束を守るだろう。蜘蛛の糸よりも、腐った牛肉から生み出される粘り気よりも、千切った昆虫の体液よりも脆く細い糸が、繋がってしまったから。誰かに愛を求める少女は、それに頼るしかない。
そう決めたなら、そうすればいい。俺は少女を見守る事しか出来ない。当たり前だ。俺はドブネズミで、少女は人間な訳だから。
好きにすれば良いさ。あぁ、くそったれっ。
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