パイナップルの香りがするスカンクの放屁




 短い休憩を終えて、胸が大きな女は再び調理場に戻り、少女は受付に立った。俺は受付の中にある客室の鍵がいくつも飾られた壁の内側で、その壁に空いた小さな穴から少女の背中を見守っている。

 店主が宿場のランプに明かりを灯し終えると同時に、数人の宿泊客が受付に並んだ。今日からこの宿場を利用する新しい客だったり、少女と軽い会話を交わす連泊の客が、簡単な手続きをして受付を通っていく。


 数人の客をさばいて、少女が一息付きながら何かが書かれた用紙を整理していると、あの男が現れた。この宿場に一ヶ月ほど前から長期宿泊をしている、自称賭事が強い、目が細く鼻の潰れた短髪なのにあまり清潔感の漂わない男だ。まぁ奇跡や運命なんかにはほど遠いが、平凡には変わりない。

 男の登場に、少女の肩がこわばった。長い付き合いだ。そのこわばりが嫌な感情では無いことぐらい、俺は分かっている。


「やぁ、君の姿を見ると心が和むよ」

 男はやけにニヤついている。今日は賭事に勝ったのだろう。負けたときはあからさまに不機嫌な顔している。

「お、お待ちしておりました、お客様。いつもご利用ありがとうございます」

 ここからだと少女の顔は見えないが、おそらく顔を真っ赤にして下唇でも噛んでいる。長い付き合いだ。それぐらい分かるさ。

「今日は勝ったんだ。良い酒も買ってきた」

 男はそういって、受付台の上に白い酒筒を置いた。

「おめでとうございます。お部屋の方でゆっくりとお楽しみ下さい」

 少女は俺の方に振り向いて、部屋の鍵を取り上げた。予想通り、真っ赤な顔で下唇を噛んでいる。

「それでね、どうせなら誰かに酒を注いで欲しいんだ。僕はまだこの町に友人も居なくてね。せっかく勝ったのに一人で飲んでも寂しいだろ? そう思わないかい?」

 男は鍵を受け取って、少女を誘っている。さて問題は、内気な少女がそれに気づいてくれるかだ。もう少し押して行け、と俺は男に念じる。

「そういうことでしたら、酒場や町の中心街の方へ行かれてはいかがでしょうか」

「いや、僕はそういうの苦手なんだ。出来れば部屋でゆっくりと飲みたい。気の合う人とね」

 顔に似合わず中々やるじゃないか、と俺は感心した。だがもう少し直接的じゃなければ、少女は気づかないぞ、とさらに念じる。       


 予想通り、少女は返事にきゅうしている。おそらく小さな口をさらにすぼめて、視線を斜め下にでも向けている。頬を赤く染めて。俺からすれば、最高に可愛いらしく見えるはずだ。

 口を開かない少女に、男は顔に似合わず呆れたようなナルシシズムに浸り、仕様がないという具合に口を開いた。


「仕事はいつぐらいに終わるんだい?」

 男の質問に、少女の頭が細かく揺れた。

「君のさ」

 問いつめるように男は続けた。そうだ、それで良い。

「わ、私ですか?」

 少女は首を絞められた様に窮屈な声を出した。端から見れば滑稽でも、俺には熟したストロベリーの香りすら感じる。

「そう、君と飲みたいんだ。迷惑じゃなければね」

 少女の小刻みな身振り手振りが、その上擦った心境を後ろ姿だけで申し分無く伝えてくる。

「わ、私と飲んでも、楽しくないわ」

「楽しいかは飲んでみないと分からないさ。それに楽しみたいんじゃない。君とゆっくり酒を飲みたいんだ。迷惑かい?」

「迷惑なんて、そんな。とても嬉しいわ」

「じゃあ、仕事が終わったら、僕の部屋で飲まないかい?」

「でも、とても嬉しいし、私もご一緒したいのですけど、今日は忙しいから、三階のお片づけもあるし、いつもより遅くなると思います。お客様にご迷惑をお掛けしてしまいます」

「いつまででも待ってるさ。何か食べたいモノはあるかな? 今の内に買ってくるよ」

「本当にお邪魔ではありませんか? 私なんか」

「邪魔だったら誘うわけないじゃないか。それより本当に来てくれよ。君さえ良ければだけど。そうだな、じゃあ旬のフルーツなんかはどうかい? 用意しておくよ」

「いえ、お誘い頂けただけでとても嬉しいわ。本当にお待ち頂けるなら、私が軽食でもお持ちいたします」

「当たり前じゃないか、本当に待ってるよ。そうだな、じゃあこれで何か見繕ってくれ」

 男は受付台の上にいくらかの貨幣を置いた。

「そんな、お誘い頂いた上にお金なんて受け取れないわ」

「良いんだよ、今日は勝ったんだから。それじゃあ、僕は部屋で君が来るのを待ってる」

「本当に受け取れないわ」


 少女の不安な声を背中で受け止めながら、男は二階へ上がる階段へ向かった。中々いい男じゃないか。少女の気立てを見抜くなんて、若い男が出来る事じゃ無い。

 男の背中を見送った少女は、浮かれているのか一丁前に後ろ髪を何度も撫でつけている。気づけば、俺も貧相な尻尾を無意識に手入れしていた。


 首を右往左往と傾げながら、少女は恋に浸っている。その背中に纏う感情は、不安よりも喜びが勝っている様に見えた。俺だって、当たり前に喜んでいる。

 働いてはいない、自称賭事の強い男。それで良いと思っている。苦労もするだろうさ。別れる事も当たり前に考えられる。騙されているのかもしれない。ただ、それがもし嘘でも、少女は初めて人からの愛情を知る事が出来る。婆さんやあの生物には貰えることの出来なかった、そして元ドブネズミの俺では、どう足掻こうが無理だった事だ。


 平凡だ。騙される事もあるだろう。傷つけられる事もあるだろう。ただ、少女は愛情を知る事が出来る。最高じゃないか。歪んでなんかいない、平凡な日々だ。

 生涯に渡り愛され続けるなんてお伽噺おとぎばなしだ。一度も傷つかない恋なんて子供の描く空想だ。運命の出会いなんて夢物語だ。それは誰もが求める奇跡で、誰の元にも訪れないからこその奇跡だ。だから俺は、少女の平凡を願う。


 しばらく恋にふけっていた少女の前に、肥えた男が数人のお供を連れて受付に現れた。すぐさま少女の背中に写る恋は薄らいで、職を纏う。 

「いらっしゃいませ、お客様。ご宿泊のご予定ですか?」

「あぁ、宿泊じゃなくてね――」

 気の良さそうな笑みを浮かべる肥えた男と少女は、形式的な会話を続ける。

「それでは、三階のお部屋へご案内致します」

 少女はそういって、受付を出た。入れ替わりで宿場の店主が受付に入る。少女は受付に入った店主と軽い連絡事項を話して、団体客を三階に引き連れていった。俺はその背中を見届けて、調理場に向かった。


 この時間ぐらいから、少女は料理を注文した客へ配膳する為に、調理場と客室を何度も往復する。重い酒筒を何本も持って階段を上がる事もある。今日は三階の大部屋にも客が入っているから、大忙しだろう。

 それをずっと見守りたいし、なんなら少しでも手伝いたいのは山々だが、俺の外見は当たり前にドブネズミだし、片足がパイナップルの香りがするスカンクの放屁の様になってから、少女の後を追い続ける事も出来ない。まぁ以前の体を手に入れたからといって、宿場を走り回る少女の後は追えないし、手伝いも出来ない訳だが。

 だから俺は、少女の仕事が一段落着くまで、調理場で少女の護衛を続ける。護衛をしてるといっても、少女はいつも楽しそうに働いているし、誰かが少女に危害を加える気配は今の所無いが。


 調理場では店主の奥さんと胸が大きな女が、台にいつもより大量の器を並べて料理を盛りつけている。奥さんが盛りつけているのは綺麗で、やはり胸が大きな女が盛りつけている料理は見栄えが悪い。

 食器棚の上から、しばらく奥さんの手際の良さと胸が大きな女の奮闘を眺めていると、客を案内し終えたのか、少女が調理場に現れた。もう一年も働いている。手慣れたもんだ。言葉も交わさずに料理の盛りつけに加わる。奥さんほど、とは言えないが、少女の盛りつけは極めて繊細に見えた。


 いくつも器に料理を盛りつけた所で、よしっ、と奥さんが手を一つ叩く。いつもの合図だ。ここから少女と胸が大きな女の本格的な労働が始まる。二人は料理の並ぶ膳を手に取り、少女は意欲的な眼差しを、胸が大きな女は無意欲的な眼差しを携えて、調理場を出ていった。

 俺は食器棚の上に身を隠しながら、しばらく調理場と客室を行き来する少女を見守る。少女は疲れも見せずに、配膳を続けた。


 台に載せられた膳の数が少なくなり、疲労をけようと踏ん張る少女の背中を見送ってから、俺は食器棚を降りて壁の内側に戻った。

 専用の通路を通って屋根裏から屋上に出ると、月明かりが照りつけていた。絵に描いたような満月だ。まるで少女に纏わる恋の行く末を占っているような、そんな月明かりだった。

 俺は柄にもなく空を見上げて、満月と同じように、少女の恋を案じた。上手くいかなくても良いさ。ただ今日ぐらいは、夢を見させてほしい。仮初めでも偽りでも、誰かに求められる喜びを、少女に感じさせてくれ。


 穏やかな満月にそう願ってから、俺は壁を降りて排水溝に向かった。


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