寝起きがてらに本意気で賛美歌すら歌える


 

 いつものように下水道で数匹のドブネズミから多種多様な視線を浴びながら、俺は森の入り口に戻った。おそらく少女は、宿場で大量の食器を洗い始めてる頃だろう。


 一年前から、片足が真緑のまま変わることの無いカメレオンの表皮の様になってから、俺と少女が町への行き帰りを共にすることは無くなった。少女の仕事が終わる時間は不確定だし、俺の体がそれに合わせることが出来なくなったからだ。

 少女はおそらく、俺は一日中家の中に居ると思っているだろうし、俺も少女の仕事が終わる前には家に帰る様にしている。別に伝える気もないし、伝える手立ても無いわけだから、それで良いと思っている。


 ゆっくりと森を抜けて、俺はボロ小屋の軒下から、今は少女と俺が使っている元婆さんの部屋に入った。森の入り口が見える窓際に腰を落ち着けて、おそらくいつもより遅くなるはずの、少女の帰りを待つ。いつもの日常だ。

 俺は少女を待つ間に、一日の疲れを睡眠で癒す。不便な人間とは違って、元ドブネズミの俺は寝たいときに寝れるし、寝起きがてらに本意気で賛美歌すら歌えるほど、睡眠に関しては自由自在だ。


 目を閉じて、浅い睡眠を繰り返す。時折地べたを這いずる虫の足音で目を覚ましながら、少女の帰りを待った。何度目かの目覚めで体の疲労も抜けてきて、俺は意識して頭を目覚めさせた。誰かのリクエストがあればオペラでも歌い踊るが、端から見れば気の狂ったドブネズミにしか見えないだろう。

 いつもなら、忙しくともそろそろ少女が森の入り口に姿を現す頃合いだ。まぁ今日は初めての朝帰りになろうとも歓迎するつもりだが。


 俺はしばらく森の入り口を眺めて、床に降りた。家の中で少女を待つ間に行う、恒例の虫退治だ。この時期はコオロギやらカマキリやらムカデやらが、壁の隙間から何の考えも無しに家の中に侵入してくる。子育てやらフクロウの襲撃から難を逃れるやら何かしらの目的があれば見過ごしてやる事も考えるが、まず奴らに知能というのがあるのかすら疑わしい。大抵は挨拶も無しに部屋へ上がり込み、時には家主である少女に威嚇を見せる時もある。ドブネズミより遠慮ってモノを知らない。

 それに少女は虫の類があまり好きでは無い。急に目の前に現れれば、悲鳴を上げるときもある。だが虫にすら慈愛を与えるから、その体を叩き潰したり千切ったりしてゴミ箱に放り込んだりしない。時間を掛けて外に追い出す。それなのに奴らは感謝も口にせず、また部屋の中へ侵入を繰り返す。堂々巡りだ。だから俺は少女に代わって、奴らをとっ捕まえては千切り捨てている。


 虫を捕まえるぐらい、片足が深爪のモグラの様になっても簡単だ。やつらは無類の馬鹿だから、危険に目を輝かす少年ほどに、なけなしの金を酒に変えてしまう男ほどに、石ころをついばむむ鳩ほどに馬鹿だから、簡単だ。少し脅して、先回り。それで大抵、俺の鋭く尖った前歯の餌食となる。 

 いつもの手法で、まずは床を彷徨うろついていたコオロギとバッタを千切り捨てる。次は黒光る表皮を纏ったムカデだ。奴らは屈強くっきょうな雰囲気を醸し出しているが、最弱だ。足は鈍いし威圧的な鱗は見かけ倒し。折り紙で作り上げたウサギよりも脆い。なぜこんな奴が弱肉強食の世界で生き残れているのか、考え込んでしまうほど最弱だ。一つ答えを上げるとすれば、そのあり得ないほどの不味さだろう、と俺は思っている。

 そのムカデを、急ぐことも無く追いかけ、自慢の前歯を使用する事も無く後ろ足で押さえつけ、細切れにして捨て去った。


 俺は少女を待ちながら、そんなに広くは無いボロ小屋の中で虫退治を続けた。いつもより多めに虫を千切り捨てても、威勢の良いカマキリに少々手こずっても、まだ少女は帰ってこなかった。この三年間で大分家庭的になった俺は、少女の平凡を喜びながらも、明日の仕事に影響が出なければ良いな、なんて事を考えていた。

 ボロ小屋の中に侵入してきた虫を倒し終えて、再び森の入り口が見える窓際に腰を落ち着けた。戦利品の千切り取った鎌を振り回してみたり、ただ森を眺めたり、うぶな幼女の様に月を見上げたりしながら、暇な時間を過ごした。

 しばらく待っていると、俺の腹が空っぽを告げる音を鳴らした。同時に、森の奥に人影が現れる。まぁこの時間に、この時間じゃ無くても森に現れる人影なんて、少女しか居ない。


 その人影は、森の暗闇に紛れていても、ご陽気に体を揺らしているのが分かる。恋を味わった女の例に漏れず、鼻歌でも口ずさんでいるのかもしれない。朝帰りは叶わなかったが、それでも、平凡な恋を堪能出来た様だ。

 俺は当たり前に嬉しかった。このまま少女が恋を覚え、人の愛情を理解して、平凡に魅了され、ドブネズミの友人なんか気にも掛けなくなれば、俺の役目は終わる。まぁこれまで何の役に立っていたのかと問われても、胸を張って答えることは出来ないが、それでも、それが俺の自己満足でも、役目を終えることが、俺の願いだ。

 


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