夜に浮かぶ月が帰り支度を始めても


 少女は森の暗闇から抜け出して、月明かりを全身に浴びている。俺はその姿を確認して、窓際から離れた。部屋を移動して食卓の上に腰を落ち着けると同時に、ドアがご陽気に開いた。


「ただいま、ピーター」

 小さな布袋を胸に抱えた少女の、火照った大きな顔がやけに綺麗だった。その顔を見れただけでも、俺の小さな体は幸福感で満たされた。

「チューチュー(お帰り、楽しんだみたいだな)」

「あぁ、飲み過ぎちゃったかもしれないわ」

 少女はそういって、食卓の上に火を灯したランプを一つだけ置いた。椅子に腰掛けて幸せそうな物思いにふけりニヤけている。その赤みがかった大きな顔が、灯火ともしびの揺らぎに照らされていた。


「チューチュー(それで、どうだったんだ?)」

 少女は俺の鳴き声に深く息を吐き出して、食卓に片肘を付いた。酒の匂いに混じった微かなフルーツの香りが、俺の鼻を柔らかく刺激する。

「あのねピーター、今日はお酒を飲んで来たの」

 少女は若干怪しい呂律で、ニヤニヤと話した。

「チューチュー(誰と飲んできたんだ?)」

 当たり前に知っているが、礼儀の様に俺は訊く。

「誰と飲んで来たと思う? あのね、ピーター。驚かないで。私、誘われたの、あの人に」

「チューチュー(前に話してくれた、賭事の好きな男かな?)」

「そう、あの人よ。宿屋に連泊してるお客様。受付でお仕事をしてる時に誘われたの。部屋で一緒に飲まないかって」

「チューチュー(それで、なんと答えたんだ?)」

「それでね、本当に嬉しかったんだけど、最初は私なんか誘うわけ無いと思ったわ。だって私より可愛い女の子なんて町にたくさんいるんだもの」

「チューチュー(そんな事はないさ。君は誰よりも綺麗だし、誰よりも優しい)」

「だから何度も尋ねたの。本当に私で良いの、って。そしたらなんて言ったと思う?」

「チューチュー(君が良いんだ、かな?)」

「君が良いんだ、だって」

 少女は嬉しそうに、小さな唇を噛みしめた。

「チューチュー(良かったじゃないか)」

 本当に、良かったじゃないか。

「それでね、ピーター。仕事が終わってから、あの人の部屋に行ったの。本当に怖かったわ。ドキドキして心臓が破裂しちゃうんじゃないかって思ったの」

「チューチュー(良く聞く話だが、本当に破裂したって話は聞いたことがない)」

「私ね、部屋の前まで行ったんだけど、どうしてもドアが叩けなかったわ。本気にしたのかって笑われるんじゃないかって」

「チューチュー(君のそういう所に、あいつは惚れたのかもしれないな)」

「そしたらね、私の心臓の音が部屋の中まで聞こえてたみたいで、彼の方からドアを開けてくれたの。私もう凄く驚いちゃって、気絶しちゃうんじゃないかって思ったわ」

「チューチュー(内気な君の事だ、あいつがドアを開けてくれなければ、日が昇るまでドアの前にいたかもしれないな)」

「それでね、せっかく彼の方から開けてくれたのに、私緊張しちゃって、なんて話せばいいか分からなくて、誘ってくれてありがとうって言うつもりだったのに、もう全然口が開かなくて」


「絵が浮かぶよ。目を逸らして慌てふためく君がね」

「そしたら彼がね、どうぞって言ってくれて、部屋に入れてくれたの」

「どうせまた遠慮したんだろ? 本当に私で良いのか、って」

「部屋に入ってからも、私訊いたの。本当に私で良いのって。そしたら彼は笑ってね、じゃあ飲もうかって、お酒の入ったグラスを渡してきたの。それがもう凄く格好良くて、本当に嬉しくて」

「それで、どんな話をしたんだ?」

「それでね、彼に座ってって言われて、私座ったんだけど、もう緊張して、手なんかずっと震えるのよ」

「あぁ、そうだろうと思ってたさ」

「そしたら彼がね、来てくれてありがとうって言ってくれて。そんなつもりなかったんだけど、それが本当に嬉しくて、私泣いちゃって。私がありがとうって言わなきゃいけないのに、なんかもう、とても嬉しいのに、それが言葉にできなくて悲しくなったりで、泣いちゃって。あぁ、思い出してまた涙出てきちゃった」

「そんな涙なら、いくらでも流せば良いさ」

「何度も謝ったわ。せっかく誘ってくれたのに、ごめんなさいって。迷惑掛けてごめんなさいって。そしたらね、彼がねピーター、急に抱きしめてきたの。私、抱きしめられたのよ」

「男なら誰だって、君を抱きしめたくなるはずさ」

「とても嬉しくて、お礼も言わなくちゃいけないのに、でも涙が止まらなくて、もう本当に混乱しちゃって」

「お礼なんか、君の涙で十分だと思うがね」

「私は本当に愚図だったわ、ピーター。お婆さんやお母さんの言う通りね。泣くばっかりで、せっかく誘って貰ったのに、抱きしめてくれたのに、私は愚図だから、何も出来なかったの」

「君は愚図なんかじゃないさ。俺にとっては繊細でおしとやかで、器用で気立てが良い最高の美女だ」

「私嫌われると思ったわ。彼の気分を台無しにするんじゃないかって。でもねピーター、凄い事が起こったの。夢だったのかもしれないって、今でも信じられないんだけど」

「聞かしてくれないか」

「私ね、キスをされたの。本当よ、ピーター。信じられなかったわ。こんな私に、彼はキスをしてくれたの。最初は驚いたんだけど、もう本当に、体の内側が全部溶けちゃうんじゃないかってぐらい、幸せだったわ。このまま死んじゃっても良いってぐらい、幸せだったの」


 あぁ、良かった、本当に。

「永遠みたいに長くって、流れ星みたいに短くって、どれぐらいキスをしていたのかは分からないけど、夢を見てる気分だった。とても幸せな夢。体が浮いちゃったのかって思うぐらい軽くなって、そのまま雲の上まで飛んでっちゃうんじゃないかって思ったわ」

 俺は、この為に生まれたのかもしれない。少女のこの顔を見るために、生き続けたのかもしれない。

「私ね、彼が好きよ、ピーター。今まで嫌な事もたくさんあったわ。でもね、そんなモノ全部吹き飛んじゃうぐらい、今はとても幸せなの。彼の事を考えるだけで、森の暗い帰り道も、一人じゃ広いこの家も、全部が輝くわ」

 俺も幸せさ。君に負けないぐらい。願いが叶ったんだ。君の幸せを見届けられたんだ。誰にも負けないぐらい、幸せだ。


「彼は私が落ち着くまで抱きしめてくれたわ。それで、やっと私はお礼を言えたの。泣いちゃったけど、本当に嬉しいって伝えたわ。彼は笑って、頭を撫でててくれたの。もう体中が熱くなったわ。あぁ、彼とずっと一緒に居たいって思ったの。恥ずかしいし、迷惑かもしれないから、口には出せなかったけど、本気でそう思ったの」

 その願いが叶えば、俺はただのドブネズミに戻るんだ。優しい君は、寂しがってくれるだろうか。悲しがってくれるだろうか。少しぐらいは、探してくれるだろうか。


「それからね、彼とお話をしたの。私はやっぱり愚図だから、彼を楽しませるような話は出来なかったけど、彼の話はとても面白くて、楽しかったわ」

 聞かせてくれ。俺は君の話を聞くことしか出来ないが、それだけで幸せだ。君の弾んだ声は、砂漠に降る豪雨の様に、真っ白なキャンバスに塗る黄緑の様に、孤独な幼子が耳にする母親の呼び声の様に、俺の心を満たして彩るんだ。

「彼はね、違う国の生まれだって言ってたわ。そこでたくさんお金を貯めて、今は自由気ままに、旅をしてるんだって。私が羨ましいって言ったらね、今度一緒に旅をしようって誘われたの。本気で誘ってくれてるのかは分からないんだけど、もし本当に彼と旅行へ行けるなんて、想像しただけで舞い上がっちゃうな。それからね、ピーター」


 それから、少女は彼の事を楽しそうに話してくれた。幸せそうに、軽やかに、穏やかに、ただ恋を見つめて、愛に包まれて。俺には出来なかった事だ。少女が彼と呼ぶ男を、羨ましいと思った。嫉妬がないと言えば嘘になる。俺はただのドブネズミだ。しかも、人間になりたかったなんて思っている、馬鹿なドブネズミだ。少女一人すら、幸せに出来ない、馬鹿なドブネズミ。

 これで良かったと思っている。少女が愛を知ってくれて。感謝している。少女に愛を教えてくれて。だから俺の役目は、ただ話を聞き続けるドブネズミで構わない。


 夜に浮かぶ月が帰り支度を始めても、少女は話し続けていた。今すぐ眠ったとしても、いつもの半分ほどしか眠れない。ただそれを止めさせようとする邪魔者は居ないし、俺も聞き続けていたかった。

 少女は話しながら、大きな欠伸をして目を擦った。小さな目が、さらに小さくなる。それでも、その瞳は綺麗に見えた。それは俺の主観的な意見かもしれないし、客観的にどう見えるのかは分からないが、それでも、町でも見かけるいくつもの絵画に描かれた美女よりも、美しく見えた。


 少女は続けざまに欠伸をした。小さな口が大きく開く。孤独を存分に吐き出してから、幸せを噛みしめた。ニヤけた顔が、ランプの灯りに揺らいでいる。もし俺が人間だったなら、この美しい少女をどうしただろう、なんて無駄な事を考えた。

 少女は話しながらも、睡魔に堪え忍んでいる。明日の朝に眠りから覚めて、全てが夢だったなんていう喜劇を恐れているのかもしれない。


 このままずっと、続けば良いと思っていた。何の変哲も無い平凡が。平凡な男に惚れて、平凡な恋に浮かれて、平凡な日々を、平凡に謳歌する。奇跡なんかいらない。奇跡なんか起こらなくても、少女はその平凡を愛せるはずだ。俺はそう思っている。

 少女は幸せな夢から覚める事を拒否するかのように、何度も閉じかける小さな目に抵抗を加えては、彼と呼ぶ男の事を話す。俺はそれをただ眺めていた。


 少女が何度目かになる大きな欠伸をした。その穏やかな呼吸音に混じって、俺の耳を微かな嫌悪が揺らした。俺の顔がもし人間の様に豊かな表情を作り出せたなら、それは深い絶望を映し出しただろう。


 ボロ小屋の外から聞こえる、思い出したくもない、嫌な足音。幻聴であれと願った。ドブネズミの願いなど叶うはずもなく、それは確実に近づいてくる。少女はまだ気づいていない。幸せな睡魔に、身を委ねている。

 なぜ今なんだ、と体が震えた。怒りも、不安も、混乱も、悲しみも、絶望も、全てが溶け合って体中を駆けめぐった。笑みすら浮かべてしまいそうだった。


 足音は、二つだった。聞き覚えの無いもう一つの足音が、幸福を奏でる気配は無い。太く、地面を踏みしめる音だった。悪魔と死に神が、肩を組んでやってきたのかもしれない。


 ボロ小屋の前で、二つの足音は同時に止まった。俺に出来るのは、身を隠す事ぐらいだった。結局俺は、少女に何もしてやれない。急に酷く痛み出した左後ろ足が、お前はただのドブネズミだと罵っている様だった。


「どうしたの、ピーター」


 少女のニヤけた声が、俺の背中を押した。謝罪する事も出来ずに、俺は食器棚の隙間に身を隠す。同時に、ドアを凶暴に叩く音が部屋に響いた。

 

 少女の小さな目が、幸せな夢から覚めた。

 

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