病気で死んだ蝿よりも


  

 

 俺は食器棚の隙間から、不吉な音を奏でたドアを睨みつけた。少女は夢から覚めることを拒否するかのように、声を発しない。不穏が作り出す静寂に、ランプの灯りだけが揺れていた。


 痺れを切らしたかのように、再びドアが強く叩かれる。俺はその音に、さらなる不安をかき立てられた。

 もしあの生物なら、少女を生んだだけのあの醜い生物だけなら、夜中にドアを叩く配慮など、しないはずだ。やはりもう一人、別の人間がいる。何の為にこのボロ小屋を訪れたのか。あの生物と共に。どれほど愉快な予想を組み立てようとしても、それは酷く不安定な積み木の様に、すぐさま崩れていった。


「は……い」

 少女はか細い声を、ドアの向こう側に投げかけた。すぐさま乱暴に、まるで月を映し出す静かな水面に岩を投げ入れた様な、教会にあるグランドピアノを斧で叩き切った様な、そんな音を響かせて、ドアが開いた。


 あごの尖った華奢な男が、険しい顔つきで少女を確認して、微かな戸惑いを浮かべた。正装を着崩して、胸のボタンをやけに外している。

「他に誰かいるのか?」

 華奢な体に似合わぬ低音が、地響きの様に室内を揺らす。夢から引っ張り出された少女は顔に混沌を浮かべて、狭い唇を震わせていた。


 怯えたまま声を発さない少女に、華奢な男は頭を掻き毟りあからさまな苛立ちを表した。ゆっくりと外に顔を向けて、押さえる気も無い苛立った声を出した。

「おいっ、こっち来い」

 男の背後に、あいつが姿を現した。少女が母親と呼ぶ、人間では無い何か。その姿に、俺の体は苛立ちと怒りで震えだした。

 大きな顔は、余計な肉付きでさらに大きくなっている。体に張り付く悪趣味な煌びやかが、着飾った豚を思わせる肥満した体型を主張していた。俺の小さな脳裏に、健気に金を貯めていた少女の姿が浮かぶ。


「お母さん」

 俺の感情とは裏腹に、少女は安堵の混じった声をあいつに投げ掛けた。ただその言葉は宙を漂った後、ドアを通り抜けて暗闇に消えた。あいつは、ドブネズミも口にしない病気で死んだ蠅よりも劣るあいつは、少女に目を向ける事もなく、ただ険しい顔つきをうつむかせている。


「お前の娘か?」 

 華奢な男が、怒りとも呆れとも取れる口調で訊いた。病気で死んだ蠅よりも劣るあいつは、微動もせずに、口を開かない。

 急に何かを歯切れ良く叩いた音が、部屋に響いた。それが華奢な男に平手を受けたあいつの頭だと気づいて、俺は声を上げそうになった。当たり前に、歓喜の叫びだ。死んでくれと願っている俺の気持ちには程遠いが、ただそれだけで、華奢な男とは無二の親友にでもなれそうな気がした。


「やめてっ」

 やはり俺の気持ちとは真逆の叫びが、少女の口から発せられる。その悲痛な声に、俺の歓喜は行き場を失い、消え去った。少女の平凡を願う俺の内側が、様々な矛盾を抱えて押しつぶされる。今すぐにでもあいつには死んで欲しいが、当たり前に、少女の悲しむ顔を見たくは無かった。


「お前の娘か?」

 華奢な男は怒りの方を増幅させて、再び問いかけた。

「あぁ」

 苛立ちを吐き出すように、あいつは答えた。

「クソったれが」

 真っ当な罵倒を口にして、華奢な男は少女に目線を向けた。険しい顔つきはそのままに、若干の哀れみが混じる。

「夜中にすまないな。まさか娘だとは思ってなかったんだ」

 華奢な男は再び頭を掻き毟って、苛立ちをまき散らした。大きな舌打ちをして、話を続ける。

「まぁ、良い話じゃない。こいつの……お嬢さんの母親の、借金についてだ。俺は仕事で来てる。お嬢さんがまだ子供でも、何も話さずに帰る訳にはいかない。言ってる意味分かるか?」

 無愛想だが丁寧に、華奢な男は話している。俺はすでにあいつの頭を殴った時点でこの男に良い印象を持っていたが、やはり間違いは無かったと感心する。それでも、少女とこの男の間には、針の消えた時計よりも価値の無いあいつが挟まっている。それだけで、全てが悪い方向へ流れるような気がした。


 少女は混乱を浮かべながらも、必死に男の言葉を理解しようとしている。再び、男が口を開いた。

「ただ今すぐにでも、お嬢さんがこいつと……こいつとは何の関係も無いと言えば、話を聞く気が無いと言えば、こっちもお嬢さんに用は無い。すぐにこいつを連れて姿を消してやる。正直俺は、そっちの方が嬉しい。お嬢さんが話を聞くと言えば、話したく無い事まで話さなくちゃいけなくなる。ただそこからはこっちも仕事だ。手加減は出来ないし、するつもりもない」  

 覚悟を鈍らす優しさを吐き出すように、男はゆっくりと話した。険しい顔つきが、暗く沈んでいく。


 少女は顔に不安を浮かべながら、必死に男の言葉を体の中に染み渡らせている。

「答えないなら、承諾したと勝手に決定する。日が昇るまでお嬢さんの答えを待てるほど暇じゃない」

 問い詰める口調に、少女は混乱を飲み込むように喉を波打たせてから、ゆっくりと顔を上げた。揺らぐ瞳の奥に、優しい覚悟が宿っていた。


 分かってるさ、考えてる事ぐらい。最高な優しさで、最低な選択だ。その過大な優しさで、汚水にまみれたドブネズミを両手で抱えてくれる程の優しさで、全てを背負うつもりなんだろう。俺が何を叫ぼうとも、伝える事は出来ない。そんなことぐらい嫌と言うほど理解しているし、嫌と言うほど、悔しかった。


「母さんは、どうなるの?」

 震える少女の声が、男へ真っ直ぐに届く。

「順を追って話す。じゃあ、座らせてもらうぞ。話を聞くって事で良いんだな?」

 男は表情を消して訊いた。

「えぇ、聞くわ」 

「お前も来い」

 男が背後に立つあいつに声を掛けた。あいつはゆっくりと、まるで他人事の様に、首を横に振った。

「外で、待ってるさ」

「いい加減にしろよっ」

 男の怒声が上がる。どうせなら、そのまま殺してくれ。

「娘の前で顔を腫らしたくなかったらな、黙って言うとおりにしてろ」

 返事も待たずに歩き出した男に続いて、あいつも歩き出す。目元に浮かぶ怯えた感情を、誇張した不機嫌で覆い隠していた。


 少女の前に、男とあいつは並んで座った。少女は必死に、親子の絆を繋げようとしている。ただその思いは合わさることなく、ランプの揺らぐ灯りに溶けてなくなった。

 男が深く息を吐き出して、冷たい眼差しを少女に向けた。少女は気丈で泣き出しそうな、そんな矛盾を抱えた眼差しを携えて、男と目線を交差させる。


 二つの覚悟に目を背けて、あいつは眉間に皺を寄せた顔を俯かせている。幼稚な自尊心を見せつけるように、煙草を取り出した。萎びたマッチで火を点ける。その汚らしい指先は、険しい顔つきで覆い隠した心境を表すかのように、震えていた。

「じゃあ、簡潔に話す。どうするかは、話を聞いて決めろ」

 感情を殺した男の声が、まだ部屋の中に残っていた平凡を、冷徹な空気で凍らせた。


 少女の細かい息づかいが、つかぬ間の静寂に響いている。それは胸の内側で不安を煽り続ける心音の様で、俺の胸まで掻き毟った。

 もう引き返すことは無いと伝えるように、男は身を乗り出して食卓に両腕を載せた。

「まずは、こいつの借金についてだ」


 話し始めた男の隣で、あいつは口元から煙草を抜いた。震える指先を隠すように、ゆっくりと煙を吐き出していく。

 異臭を伴った灰色の嫌悪が、薄まることも無く宙を漂っている。それはまるで晴れることの無い曇り空の様に、少女を包み込んでいた。


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