吹雪く真夜中の海岸で孤独を味わう様な
「お嬢さんの母親は、ウチから金を借りている」
華奢な男から放たれる冷たい低音が、宙に居座る灰色の嫌悪に重みを加える。少女はその重圧に耐えるかのように、握り込んだ両手を膝に置いた。机上を見つめるその顔は、恐怖も、戸惑いも、悲しみも、優しさも、全てを映し出していて、全てに堪え忍んでいた。
恨んでやる。俺は漠然とした何かを呪った。あいつを殺してくれ。漠然とした何かに願った。クソッタレと罵って、助けてくれと祈った。左後ろ足が、酷く痛む。目の前で震える少女を励ます事すら、俺には出来ない。体の不自由なドブネズミなど、砂場に落ちた飴よりも無価値だと、その何かが耳元で囁いた。
「大雑把に言えば、八十万だ」
俺の存在など
「二年は楽して暮らせる金を何に使ったかは、こいつに直接訊けばいい。俺ら金貸しは、一々使用目的を尋ねる訳じゃない。困ってる奴が居れば、二つ返事で貸してやる。ただそれは、返済するという信頼があって成り立つ訳だ。なにも難しい事を言ってる訳じゃない。当たり前の事だ」
淡々と淀みなく話し続ける男の顔に、同情や哀れみが浮かぶ気配はない。ゆっくりと発せられる言葉の一つ一つが、まるで透明な岩石の様に、少女の体に重ねられていく。
「お嬢さんの母親は、その信頼を裏切った。返済するという信頼を、勝手に放棄したんだ。それを紅茶でも飲みながら笑えるほど、ウチは甘くない。裏切り者を放っておけば、他の客に示しも付かなくなる。そうなれば、こっちの商売は上がったりだ。借金を踏み倒してもお咎めが無いんじゃ、俺だって金を借りに行く。だがそんな楽園は、残念ながら現実に存在しない。どんなに脳天気な奴でも知ってる真理だが、この馬鹿女は……こいつは……ウチをそんな楽園だと勘違いしたらしい」
男の声だけが、壁を揺らし続ける。なんの感情も見あたらないその声は、だからこそ、体の中心に刺さり込んでくる様な気がした。
男の隣で、裕福な家庭に飼われている小型犬よりも大きな
「裏切り者の末路は簡単だ。金が無いんなら、身を削って貰うしかない。言葉通りの意味だ。世の中には、有り余るほどの金を持った変態ってのが結構いる。金を持ったから変態になったのか、変態が金を持ったのかは分からないが、俺ら金貸しの上客には変わりない。裏切り者の処分に金を払ってくれるんだから、甘すぎる紅茶に菓子も付けてもてなす」
男は話しに一区切り付けて、息を吐き出した。
「ここからは脅しだ、お嬢さん」
そういって、目を威圧的に細めた。
「その上客の変態様が何をするのかは、決まってる訳じゃない。この豚女の……こいつの運が良ければ、檻の中に閉じこめられて犬の様な生活でも送れる。死ぬまでか気が狂うまで、食に困ることはない。考え方を変えれば、幸せな人生だな」
男の話に、絵に描いた
「ただそれは運が良ければだ。大体は殺される。限界まで痛めつけられて、面白可笑しく残酷に殺される。両手両足を削ぎ落として高級なガラス筒に保存されるかもしれないし、番犬の訓練に使う大金持ちもいる。死なない程度に鉄の棒を体中に刺し込まれて芸術品の様に吊された女もいたし、体中に焼き印を捺されて皮を剥がされた男もいた。まぁ何にせよ、叫ぶだけじゃ治まらない苦しみを何度も味わう事になる。他人を痛めつける事に快感を得る変態ってのは、まるで無邪気だ。昆虫を解体する少年みたいに、それはそれは純粋な笑みってヤツを浮かべて悪魔の様な仕打ちを簡単にやってのける。つまりだ、お嬢さんの母親は今、その瀬戸際に立っている。その背中を押すも押さないも、お嬢さん次第だ」
「私は……」
少女は恐れながらも、ゆっくりと口を開いた。何かに感づいた俺の貧相な尻尾が、止めろ、口にするな、と暴れる。そんな事など、ただのドブネズミの事など構いも無く、少女の優しい決意を宿した眼差しは、今にも流れ出しそうな程潤っていく。
「私は……何をすればいいの? お母さんを、助ける為に」
少女はそれを、言葉にしてしまった。その言葉に、俺の体を支えていたモノが失われていく。怒りも、苛立ちも殺意も、あいつに向けていた全ての感情が霧になり、体の内側から逃げ出していった。
「背負うのか? こいつを」
男の声が、ランプの灯りを揺らした。その口調は冷徹な哀れみを、微かな矛盾を、生み出していた。
「だから私はっ……何をすれば、いいの?」
小さな叫び声が、部屋に木霊して沈黙を作り出した。俺は食器棚の隙間に身を隠して、それを眺める事しか出来ない。俺はいったい、何なんだ? そんな自問を繰り返しても、頭の中には明確で最低な答えしか、浮かんでこなかった。
「すまないな。俺の方が、覚悟が足りなかった。じゃあ伝えてやる。どうすれば母親を助けられるか」
男は声を異様に落ち着かせて、何の感情も見えない無表情を張り付けた。
少女の目は、揺れながらも、濡れながらも、沈みながらも、それでも、決意していた。恐怖に縛られても、脅しに打ちのめされても、それでも母親を助けたいと願う、健気な子供の眼差しだった。膝に置かれた両手は、未だ震え続けている。あいつを助けたところで、春先の太陽は昇らない。そんな奇跡は、起こらない。やっと手にした平凡を失って、豪雨の沼地を歩き続ける様な、吹雪く真夜中の海岸で孤独を味わう様な、そんな生活になるだけだ。ただ少女の目は、それすらも覚悟している様に見えた。
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