無意味な謝罪も、偽りの励ましも
「簡単に説明する。母親の借金八十万を、お嬢さんが肩代わりすれば良い。それだけで、母親は助けられる。何も今すぐ八十万を出せと言う訳じゃない。金貸しってのは、利息で生計を立てている。それさえ払ってくれれば、立派な客として扱う。意味が分からなければ、質問しろ」
少女は俯いたまま、目元だけを拭った。
「話を進める。難しい事じゃない。毎月四万を、持ってこい。永遠にだ」
少女の肩が大きく震えて、ついに泣き声が漏れる。鼻を啜る悲痛な音にも、男は表情を変えなかった。
「その金額が利息ってヤツだ。元金の八十万を減らしたければ、八万でも十万でもいくらでも持ってこい。四万を省いた金額を元金の返済に充てる。簡単に説明すれば、こんな所だ。お嬢さんが俺の話を理解出来て、承諾するなら、この用紙にサインしろ。名前を書くだけで良い」
男はそういって、胸元から紙切れと小瓶、羽の付いたペンを取りだし、机に広げた。
「最初に言っておくぞ。さっき話した、変態の話だ。なぜ裏切り者のこいつを金持ちの変態に売らずに、こんな面倒臭い事をしているのか教えてやる。この世は残酷な事に、人間にも値段が付けられている。お嬢さんの母親は、高く見積もっても三十万だ。高級な牛一頭分よりも安い上に、元金の半分にも満たない。まぁ身の丈を超えた金を貸し付けたウチの経理にも責任があるわけだが、つまりこんな事は、借金の肩代わりなんて事は、特例だ。金にならないって事で、お嬢さんの母親は首の皮一枚繋げて、今ここにいる。ただそれは、お嬢さんの母親だからだ。先に言っておくぞ、お嬢さんは安く見積もっても、その若さだけで軽く百万は超える。こっちも商売だ。もし利息を払えなくなったり、逃げ出したりすれば、地獄の底まで追いかける。こんな都合の良いことは起こらない。それが、お嬢さんが借金を背負うって事だ。これは脅しでも何でもない。事実だ」
男は返事を待つような間を空けて、再び口を開いた。
「俺の話はここまでだ。質問がなければ、後はお嬢さんがこの契約書にサインをするかしないかだ」
少女は、耐える事も出来ずに、泣いていた。震える手をゆっくりと膝から離して、食卓の上に転がっていた羽付きのペンを手に取った。
「お母さん」
呟いた。寂しそうに、辛そうに、悲しげに、ただ呟いた。もう駄目だ。耐えきれなかった。見ていられなかった。その悲痛な声を聞きたくなかった。ただ、そこから目を背けてしまえば、俺はドブネズミですら、なくなってしまう様な気がした。
あいつはそんな声も、少女の優しさも、覚悟も、決意も、全てに目を背けて、その全てを濁らす程の醜悪を、ゆっくりと吐き出した。
少女は結ばれる事の無い繋がりを求めながら、ペン先をインクに浸して、紙切れに手を置いた。主張の強い一枚羽が、今にも飛び立ちそうに震えている。
「なぁ、最後に言っておくぞ」
男が、少女の手元を睨みつけた。
「分かってると思うが、やけっぱちで背負える金額じゃ無い。仕事としてじゃ無く、大人として伝えとく。お嬢さん、いくつだ?」
少女は身動き一つせず、顔も上げなかった。
「俺の話を聞きたくないのは分かるさ。質問に答えなくても良い。でも聞いてろ。三流演劇みたいな事を言うぞ。俺にも、お嬢さんよりは幼いが、娘が居る。普通の親なら、我が子にこんな金額背負わせない」
少女は口を縛った。吐き出そうな全てを、押さえ込んでいる。
「なぜ俺がここに来たのか考えてみろ。オカシいと思わないのか? こいつの借りた金で、なぜこんな話をお嬢さんにしてると思う? こいつは逃げようとしたんだ。町からな。お嬢さんを連れていく気があったとは思えない。馬鹿で臆病な男に貢いで、結果この様だ。そのままこいつが何も言わなければ、確かにウチとしては損失だが、こんな所に来ちゃいない。外見を気にしない物好きな変態に売り払って、おさらばだ。ただそんな事にはならずに、俺は今ここにいる」
その先は言わないでくれ。頼むよ。少女は、それでも背負うんだ。そのクソ女は、母親なんだ。少女の大切な、家族なんだ。
少女はもう、声を上げて泣いていた。顔を悲しみだけに歪ませて、絶望だけに震えていた。
「もう分かっただろ? こいつは捕まって、自分の命欲しさに、お嬢さんの――」
「分からないわっ。聞きたくもないっ」
全てを拒否する様に、首を振った。
「お母さんがっ、困ってるならっ、助けるのが家族でしょっ。私は分からないわっ。嘘付かないでっ。お母さんが苦しんでるならっ、分け合うのが家族でしょっ。何もオカシい事なんてないわっ。私はお母さんを助けたいのっ。早く出て行ってよっ。お金なら払うわっ。いくらでも払うわっ」
勢いに任せて、紙切れにペンを走らせた。
「早く出てってよっ。嘘つきっ。ここは私たちの家なのっ。早く出てってよ」
言葉にならない叫び声を上げて、食卓に顔を伏せた。
「あぁ、すまなかった。契約書は貰って行く。返済は来月からで良い。ヤンデ通りの赤レンガの建物だ。余計な事を言って悪かった。稼げる仕事が欲しければ、相談にも乗る」
男は立ち上がり、少女を見下ろした。深い謝罪を険しい顔に滲ませて、目を逸らした。
「じゃあ、俺は帰らせて貰う」
振り返る事も無く、部屋を出ていった。男が出て行っても、あいつは、動かなかった。ゆっくりと、煙草を吸っている。
叫ぶような泣き声を押さえ込んで、少女が顔を上げた。その顔は怖い夢で目覚めた子供の様に、母親の眼差しを求めていた。あいつは煙草を床に捨て、ハイヒールで踏みにじり、間を持て余したかの様に腕を組んだ。少女と目は合わせず、宙を睨んでいる。
「お母さん」
少女の小さな声が、やけに響いた。ずっと鳴り響いている様だった。もしかしたら婆さんが死んだあの日から、それよりもずっと以前から、このボロ小屋にはその声が響き続けていたのかもしれない。
あいつは、ゆっくりと立ち上がった。少女と目線を合わせる事もなく、ドアに向かって歩き出す。
「お、お母さん」
背中だけを見せつけながら、静かにドアは閉まった。少女の顔が全てを諦めて、崩れた。俺は片足を引きずって、食卓に上がった。
何もしてやれなくて、すまなかった。
大丈夫さ、俺が付いてる。
無意味な謝罪も、偽りの励ましすら口に出来ず、俺はただ食卓に伏せて泣き続ける少女の腕に、灰色の小さな体を、寄り添わせた。
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