第四幕

自分で死ぬには、臆病者なんだ



「チューチュー(いってらっしゃい)」

 俺はいつもの様に食卓の上から声を掛けた。少女は振り返りもせず、やせ細った背中だけを見せつけて、静かにドアを閉めた。あの日から、少女が紙切れに母親への愛情を奪い取られたあの日から、一ヶ月ほど続くいつも通りの日常だが、未だに慣れない。もしかすれば再びドアが開き、笑みを浮かべた少女が挨拶を返してくれるはずだ、と願い続けてはいるが、叶った例しは無い。


 俺は元婆さんの部屋へ戻り、森の入り口に消えるにじんだ少女の背中を眺めた。灰色の景色を写し出す窓の向こうには、季節外れの大雨が下品な笑い声を上げて降り注いでいる。どうせなら微笑みの様な雪になり、少しでも少女を楽しませろ、と俺は暴言を吐きかける。寒さと雨は、やはり嫌いだ。


 あの日から一ヶ月、このボロ小屋の中で少女が笑みを浮かべることは無くなった。その眼差しはまるで、来世は記憶を持ったまま雄の蚊に生まれ変わる運命だと定められたぐらい、気づけば混擬土コンクリートに混ぜ込まれていたミミズほどに、粘着式の罠に背中を取られたドブネズミの様に、生気の全てを失っていた。ただ毎日を操られた人形の様に働き続ける。少女の生活は、そんな日々に様変わりした。


 それでも少女は、宿場や新しく働き始めた酒場でそんな暗い気配を消し去る。笑みを浮かべて、心配など掛けまいと、前以上に意欲的な姿勢で働いている。俺はそれを何も言わず、何も言えずに眺めている。

 豪雨の沼地を歩き続けるだとか、真夜中の吹雪く海岸だとか、そんな生やさしいモノじゃない。どんな沼地でどれほどの豪雨でも足を上げれば前には進める訳で、吹雪く海岸で孤独だとしても、待っていれば太陽は昇る。仕事で疲れ果て、ボロ小屋の食卓で俯いたまま身動きしない少女の目には、それっぽっちの希望すら、浮かんでいなかった。おそらく奇跡なんていう王族はその絶望を鼻で笑い目を背けて、今頃綺麗な娘にガラスの靴でも渡しているに違いない。


 この一ヶ月、少女が加速してやせ細り、周囲の人間から体調を心配する言葉が出始めても、俺には何も出来なかった。何もしなかった、に等しい。お前はドブネズミだ。寝ても覚めても耳元で囁かれる。気が狂う前に、そんな気力すらも奪われた。俺はただ少女を眺めて溜息を吐く。頬に豆を詰め込んだドブネズミよりも、無価値な存在だ。

 それでも俺は少女の平凡を願った。胸の大きな友人も居る。清潔感の無い男だって居る。たったそれだけの平凡で、少女は救われると思っていた。だが現実なんていう劇作家はそんな平凡すらも書き換えて、観客のいない悲劇を作り上げた。


 胸が大きな女は、最近宿場に姿を見せない。流行病に掛かったと、店主の奥さんが話していた。身よりの無いその女を、少女はわずかな休憩時間を使い、周囲に止められながらも、看病している。

 清潔感の無い男は、あの日以来顔をニヤけさせる事は無い。自称強い賭事に、負け込んでいるんだろう。内気で繊細な少女が、金も時間も無い少女が、自ら誘うなんて事はあり得ない。


 一つ言えるとすれば、この一ヶ月程で少女が朝帰りをする事が二度あった。先にボロ小屋へ帰る俺に何が有ったのかは分からないし、朝日と共に帰ってきた少女の顔はいつも通り疲れ果て、いつも通りドブネズミなんかと会話をすることは無いから、気持ちを読みとる事も出来ない。それでも、それだけが唯一少女に残された平凡なら、どうにか守らせて欲しいと、俺は願った。

 それこそ、俺は願うだけだった。毎朝毎夜、おそらく俺をドブネズミと蔑む何かに、ただ少女の平凡を願った。幸せを願い、奇跡も願った。思いつく全ての懇願を捧げた。もしそれが羽と引き替えに馬の足を欲しがる鶏の様に無意味で滑稽な願いだとしても、俺に出来るのはそれだけだった。


 今日は雨だ。下品な笑い声を上げる雨だ。俺は外に出れない。あの日以来、悪い予感はしていない。左後ろ足は、常に痛み続けている。それが少女に纏わる悪い予感なら、誰か早く俺を殺してくれ。自分で死ぬには、臆病者なんだ。


 いつまで続くか分からない。少女はいつまで悲しんで、いつになったら笑ってくれるのか、俺には何も分からない。当たり前だ、お前はただのドブネズミなんだから。耳元で飛び回る小蠅の様に、何かがずっと囁いている。気が狂いそうだ。

 今日もどうせ俺は、疲れ果てた少女の帰りを待って、悪夢に苦しむ少女の寝顔を眺めて、目覚めた少女に独り言を話すだけ。


 こんなドブネズミなど、消え去ってしまえばいい。耳元で囁く何かじゃなく、俺自身が、そう思っていた。

 

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