丸眼鏡と鼻髭が知的に見える、希有な男


 相手が悪かったな、バカ犬。この森は俺の庭だ。一年間も少女の野草集めや木の実キノコ集めに付き合ったこの俺が、森で新参者のお前に捕まるわけが無いだろう。そんな事を思いながら、すでに森の終わりに近づいている少女の足下に顔を出した。


「お家に帰ってなかったの? さっき犬の鳴き声がしたのよ。危ないから早く帰りなさい」

「チューチュー(そうさ、危なかった。君がな)」

「また町へ遊びに行くの?」

「チューチュー(遊びに行く訳じゃない。これは仕事さ)」

「夕飯までには帰るのよ」

「チューチュー(君こそ悪いヤツに騙されるんじゃないぞ)」

「それじゃあ」

「チューチュー(また帰る時にな)」


 俺は町の入り口で少女と別れた。いつもの習わしだ。俺は元ドブネズミだが、気は利く方だと自負している。普通に考えれば分かると思うが、人間はドブネズミにあまり良い感情を持たない。まぁそれはお互い様だが、つまり町中で俺が少女の足下を這い回っていたら、そりゃあもう気持ち悪がられるだろう。

 いくら俺が元ドブネズミでも、そんな簡単に外見が変わる訳じゃない。道ばたで酔いつぶれている人間よりは清潔にしてるつもりだが、全身灰色の毛並みは急に縞模様や水玉に変わらないし、貧相な尻尾は裕福に膨れたりしない。そればっかりはどうにもならない。いくら首に鈴を付けても、フリルの付いたミニスカートを履いてみても、外見はドブネズミだ。


 少女が魔女通りに入るのを見届けてから、俺はその通りから二軒跨にけんまたいだ家屋の屋根に上る。そのまま少女の後に付いて見守りたいのは山々だが、ドブネズミにとってこの魔女通りはいわく付きだ。 

 まぁ簡単に言えば、二年前この通りに住む魔女が、三百匹以上のネズミをこの通りに誘い込み一斉捕獲した後、何かしらの魔術に使用するために虐殺した、らしい。

 俺を含めて難を逃れたドブネズミの中で、事実を知る者や真相を確かめようとする向こう見ずな名探偵はいなかったが、それ以来町のドブネズミも元ドブネズミの俺も、この魔女通りを避ける。といってもこの通りは元々町の端で後は森が続くだけ。そもそも訪れる用事も無いし、少女以外でここを通る人間も居ない。まさしく魔女の為の通りだ。


 俺は屋根を伝って大通りに向かう。丁度酒場の屋上に出た所で、少女も大通りに姿を現した。意気揚々と大手を振って歩く姿を眺めてから、俺はまた移動を開始する。

 いつものコースだ。老夫婦が住む部屋のベランダを駆け抜け、通りを跨いだ向こう岸の建物まで、なんの為に繋がっているのか分からない細い糸をサーカス団員の様に綱渡り。雨水を排水するパイプの中を通って下に降りてから、潰れた魚屋の、いや、少女を騙したから仕返しに俺が潰した魚屋の裏口に開いた隙間から中に入って、荒れ果てた店内から少女の安全を確認する。食欲をそそる微かな腐臭が、未だ漂っている。


「おいっ」

 急に響いた声に、俺は振り返った。若いドブネズミが睨みつけている。頭の毛並みを意味もなくおっ立てている所を見ると、まだ生を受けて半年といった具合か。

「なんだ?」俺は柔らかな口調を心がけて訊いた。 

「ここは俺様の住処だ。すぐに出て行け」

「可笑しな事を言うじゃないか。いつからお前の住処になったんだ?」

「フンッ、お前は知らないだろうがな、この魚屋は俺様が潰したんだ。人間を追い出してな。だから俺様の所有物だ。さぁ出て行け」

 自慢げに威圧を重ねる若いドブネズミの言葉に笑いそうになったが、何とか耐えて質問をする。


「ほほぉ、どうやって人間を追い出したんだ?」

「いいだろう、聞かせてやる。まずはそこらじゅうに糞をまき散らして、店に並ぶ魚に片っ端から噛み跡を付けていくのさ。ネズミがいるってな。そしてここからが俺様の凄い所さ。人間で溢れかえる真っ昼間に、何度も走り抜けるんだ。人間の足下をな。何度も捕まりそうになったが、俺様はそこら辺のドブネズミとは違う。さぁ分かったら今すぐここから出て行け」

「その話は誰から聞いたんだ?」

 俺の的を射すぎた質問に、若いドブネズミは目を見開いて、すぐにその表情を険しさで覆い隠した。

「お、お、俺様から聞いた話だ」

「俺様ってのは二ネズミいるのかい? じゃあ質問を変えよう。なぜわざわざ魚屋を潰したんだ? 理由を教えてくれ」

「なな、なんでそんな事をお前に言わなくちゃならねぇ」

 荒い鼻息で今にも飛び去ってしまいそうな若いドブネズミに、俺は可愛らしさすら感じた。

「可笑しな話じゃないか。なぜ豪華な食事を用意してくれる魚屋を潰そうと思ったのか、俺には理解出来ない。そんな事をしても君には損しか残らない。だから理由が知りたいのさ。君が潰したと言うのなら、なにか理由があるんだろ? ぜひ教えて頂きたい。なぜなんだい?」


 プシューッ、とついに鼻息で浮かび上がった若いドブネズミは、別に浮き上がった訳じゃないらしく、泣き出しそうな顔をしながら俺に突進してきた。子突猛進ってやつだ。まったく、若いってのは素晴らしい。俺に君ほどの気概があれば、種別すら気にせずに生きられるだろうな。

「追いつめてすまなかった。それでは帰らせて頂くよ」

 俺は半年に一度町へ興行に訪れるマタドール(闘牛士)の様に若いドブネズミをひらりと避けて、内装を知り尽くした魚屋を走り抜ける。

「ま、待ちやがれぃ」

 すまないが君に構っている暇はないんだよ。もうここからでは少女の姿が確認できない。さらばだ、若ネズミよ。その純粋な気持ちを忘れずにドブネズミらしい道を真っ直ぐに歩んでくれ。


 俺は床に放置された食欲をそそるいくつもの木箱を右往左往と走り抜け、裏口の隙間から外に出て壁を駆け上る。鼻息で空を飛ぶドブネズミ、という奇跡の生体も目にしたいが、そんな事よりも少女の安全が第一だ。

 屋根に登って広場に続く大通りの道筋に目を向ける。たくさんの人混みに紛れて、少女の姿が確認出来た。無垢なドブネズミと遊び過ぎたようで、その姿は小さい。少し急がなくてはいけないようだ。

 屋根伝いを駆け抜けると、次の建物まで路地を跨いだ谷間がやってきた。いつもは下まで降りるが時間がない。寄り道が好きな少女を見失う恐れがある。俺は足を止めず、谷間の間際で後ろ足を蹴った。


 怖くないと言えば嘘になる。その証拠に貧相な尻尾がこれ見よがしにおっ立っている。体というのは正直だ。四肢を広げ尻尾をおっ立てた空飛ぶドブネズミというのは、ダイエットに励む豚や俊敏に動くナマケモノ、仲間外れの狼みたいなモノだ。所謂苦笑の対象。仲間に見られる訳にはいかない。

 何とか次の建物に跳び移れた俺は、誰かに見られてないか素早く周囲を確認する。白色の鳩が一羽、豆鉄砲が頭上を掠めたような顔で飛び去っていく。俺は安堵の息を吐いて、少女の護衛を再開させた。


 スキップ混じりで歩く少女を見下ろしながら、屋根を歩く。少女は花屋に寄って、一番安い一輪の花を一つだけ買った。少ない生活費から絞り出す月に二回だけの小さな無駄遣い。おそらく芋二つ分ほどだろう。それ以外はほぼ食費に消える。

 元ドブネズミの俺から見ても優しそうな母性溢れる女性が、少女に笑みと花を差し出す。少女は満面の笑みでそれを受け取って、またスキップを始めた。


 それからは何事もなく、少女は勉強会の行われる広場に到着した。同時に俺も一息付いて、背の高い植木の陰から少女を見守る。

 簡易的な日除けテントの中に、それこそ簡易的な机と椅子が並んでいる。そこに座るのは明らかに少女と同じ境遇にいると思われる十数人の子供たち。まぁ端的に言えば貧乏で家庭内に難があると思われる子供たちだ。少女の見窄らしい服が一気に一般的となる場所だ。

 少女はその中でも頭一つ飛び抜けている。勉強が出来るという比喩ではなく、背が高い。あと半年しか通えないの、と寂しそうに話してくれた夜を思い出した。


 テントに到着した少女は、やせ細った無垢達に挨拶をして、教壇に立っている白シャツを着た男に近寄っていく。丸眼鏡と鼻髭が知的に見える、希有な男だ。だいたいバカそうに見えるはずなのに。

 少女はその男に近寄って、照れたように挨拶をしている。顔を背けたまま、少なすぎる小遣いから出費した一輪の花を差し出した。  

 バカそうに見えない丸眼鏡の男は、それを受け取って少女の頭を撫でた。少女は堪えきれない喜びに口元を綻ばせて、顔を真っ赤にしている。


 俺は何故か込み上がってきた溜息を吐いて、そこから目を背けた。別に何の感情も湧いていない、はずだ。少女は人間で、俺は元ドブネズミ。少女の幸せを見守る事が、俺の仕事。騎士な訳だから。

 これからしばらく少女は大好きなお勉強とやらに励む。俺が見守る事も無い。さて、仲間に顔を見せにでも行ってくるか。



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