こいつは読心術でも使える奇跡のドブネズミなのか



 暗い森の中で、少女と共に食材集めをしていた日々が蘇る。俺は走り回り、手当たり次第に木の実やキノコを運んだ。それを少女が選別していく。これは食べられないわ、これは美味しいのよ、これは苦いからダメね。そんな幸せの中で、一度だけ少女が俺に怒った事があった。赤と白の水玉模様、まるで着飾った幼女の様に可愛げで小さなキノコだ。

「これは猛毒のキノコよ、ピーター。間違っても口に入れないで。少し食べただけで、大人でもすぐに死んじゃうんだから」

 少女がそう頬を膨らませた毒キノコは今も記憶通り、背の高い木の根本に生えていた。俺は安堵の息を吐いて、それを千切り口に挟んだ。


 このキノコの毒は、人間には猛毒でも、ドブネズミの俺には効かない。少女に怒られたあの日、向こう見ずで若かった俺は、その目を盗んで食べている。おそらくドブネズミには、舌先が軽く痺れて貧相な尻尾がしおれる程度の微毒。当たり前に尻尾のしおれたドブネズミなんて、下顎が成長し過ぎて頬袋の無くなったリスだとか、タンコブだらけのフクロウ程に滑稽な訳だから、二度と食うかと思っていたが、まさか役に立つ日が来るとは思いも寄らなかった。俺はそれを口に挟んだまま、森を駆け抜けているつもりで歩く。無理は出来ない。もう若くは無い訳だから。


 それにしても、記憶の中の俺はやたらと走り回っていた。若かったんだと懐かしみ、小さなキノコを口に挟んだだけで出産間近の雌ネズミより動けていない今の現状に、笑ってしまう。笑うといっても、端から見れば息も絶え絶えの老ネズミが毒キノコを食べながら奇声を上げているだけだ。もし暗闇の中で出会えば、絵にも描けない恐怖だろうさ。

 ひたすらにゆっくりと、何度も休憩を挟みながら町の入り口に到着した頃には、朝日が空を橙色に染めていた。少女の好きな朝焼けだ。あの部屋から、空を眺めているだろうか。少しは、気が晴れただろうか。あぁ、心配は尽きない。出来ることなら、全てを忘れて、誰かに愛され続ける夢でも見ていると良い。俺は重厚な腰を上げて、いつもの、少しばかり久しぶりな、下水道へ向かった。


 排水溝の隙間に身を潜り込ませると、すぐさま懐かしき腐臭が鼻を賑やかす。まるで肥えた雌ネズミに母ネズミの暖かみを思い出す様な、屈強な雄ネズミに父ネズミの背中を思い出す様な、独り立ち直後の不安げな少ネズミに若気の至りを思い出す様な、まぁ、嫌な気分では無い。元々、そして今も、俺はドブネズミな訳だから。

「おっ、久しぶりだな、三本足」

 まだ、居たのか。下水を少し進むと、あの頃よりもさらに一回り痩せたいつもの久し振りなドブネズミが、声を掛けてきた。

「モガぶ痩せガンブんじゃないガ? まるゲ一本足ガバ(大分痩せたんじゃないか? まるで一本足だな)」 

 すでに軽く舌が痺れている上に、キノコを口に挟んだままだと、酷くしゃべり辛い。まぁ、尻尾がしおれていないだけマシだ。それにわざわざこいつの為に、足を止めてキノコを離す訳が無い。

「何だって?」

 久しぶりのドブネズミは、訝しげな表情を浮かべて至極真っ当な疑問を口にする。

「急いべブるんだ。ズまないが、ヒギド話してビる時間バ無い(急いでいるんだ。すまないが、君と話している時間は無い)」

 俺は足を止めずに、用件だけを伝える。伝えられた気はしないが、気にもならない。

「まぁ良いさ。それにしても、老け込んだな」

 久しぶりのドブネズミは、見た目に似合わず的を射る。

「ばぁ、仕方がバい。ビボウビボクってやつガ(まぁ、仕方がない。自業自得ってヤツだ)」

牛蒡ごぼうが何だって?」

 俺は久しぶりのドブネズミをついに無視して、足を進めた。

「ふんっ、クソジジィが気取りやがって。死んじまえ」

 背後にそれこそ台詞を捨てられて、久しぶりのドブネズミが遠ざかっていく足音を聞きながら、俺は振り返ることも、苛立つ事もなく、下水を進んだ。


 下水道には、相も変わらず老若雄雌(老若男女)のドブネズミと、足の多い虫達が闊歩している。俺が年老いたからといって、そいつらから向けられる視線に、あまり変わりはなかった。いつもの様に哀れみと蔑み、好奇と疑惑を浮かべている。少し違うのは、若干哀れみが増えた事と、口に挟んだキノコの所為か、若いドブネズミが話しかけたそうに付いてくるぐらいだ。俺は目一杯の話しかけるなという気配を、何着も纏った。   

「何を運んでいるんだ?」

 臆することも遠慮も無く、話し掛けてきやがった。若い奴ってのはどうしてこう、空気を読めないのか。

「ボグギノゴだ(毒キノコだ)」

 わざと、分かりづらく俺は答えた。

「どうして毒キノコを運んでるんだ?」

 意に反して、若いドブネズミは目を輝かせた。さっき出会った久しぶりのドブネズミが、可愛らしくすら思える。まぁここで声を荒げて、取っ組み合いなんて出来るはずがない。おそらく、という言葉すら踏みつぶされる程、コテンパンにやられるだけだ。

「ジンゲンボ、ゴゾズンダボ(人間を、殺すんだよ)」

 俺は頭すら年老いたドブネズミを演じて、真実を答える。若いドブネズミは急に声を上げて笑った。

「人間を殺すって? 面白すぎる冗談を言うじゃねぇか、ジジィ」

 こいつは読心術でも扱える奇跡のドブネズミなのか、と俺が感心と苛立ちを共有させると同時に、この若いドブネズミは面倒な事を口走る。

「ジジィ独りじゃ不安だろ? 俺が付いていってやる」

 チュチュチュチュと、下品で甲高い笑い声を上げた。

「迷、惑、だ。止めて、くれ」

 俺は丁寧に、必死で口を動かして、思いを伝えた。

「何だって? 呆けちまったのか? ジジィ」

 苛立ちが感心を覆い尽くしていく。俺の闘争心は未だ、枯れてはいないのかもしれない。今は邪魔なだけだが。よし、と決意して、俺は無視を決め込んだ。どうせドブネズミだ。すぐに飽きてどこか別の興味へ走る。

「それでどうやって人間を殺すんだ?」

 若いドブネズミは、俺の横で質問を続ける。

「無視するなよ、つれねぇな。どうせ無理だろ。だって人間だぜ。ドブネズミが用意した毒キノコなんか、食うはずないだろ?」


 ドブネズミが用意しなくても、人間は目の前に置かれた毒キノコを食わない。そんな言葉を返したいが、俺は口を噤む。それにお前は知らない。人間は、おそらく俺が知る動物の中で一番、食に無警戒だ。特に、人間同士で食を振る舞う場合に限っては、まるで張り膨らんだ乳房に吸い付く赤子の様に、親の仇を目の前に銃を与えられた少年が躊躇もなく引き金を引く様に、全くの無警戒でそれを口にする。俺はそれに賭けている。一々説明しなくても、読心術を使える頭の悪いお前には、伝わるだろ。

「人間の作った料理に混ぜるのか?」

 意地悪の甲斐も無く、やはり奇跡のドブネズミは俺の思考を読みとる。キノコを落としそうになったが何とか耐えて、表情もどうにか抑えて、俺は無視を続けた。若いドブネズミは、年に一度肉屋の地下で行われるドブネズミ界唯一のお祭りにでも向かう様に、俺の横に付き添ってハシャいでいる。


「可哀想じゃないか。止めるんだ」

 急に背後から響いた野太い声に、俺は目線を向けた。まるでドブネズミ界の伝説と詠われる、からすにたった一匹で挑んだ上に打ち勝ち捕食したと語り継がれる英雄が体現された様な精悍な顔立ちのドブネズミが、多大な哀れみと若干の険しさを携えて、こっちを睨み付けていた。

「あぁ、なんだよテメェっ」

 奇跡のドブネズミは、急に見窄らしく脇役へ成り下がる。まぁ、役相応だ。

「可哀想だと言っているんだ。爺さんを虐めて何が楽しい」

 至極もっともな意見だ。まさしく英雄に相応しい。

「虐めてねぇよ。このジジィとは友達なんだよ。邪魔するな。殺すぞ」

 まるで用意されたかの様な台詞を言い放って、奇跡の脇役は劇の主役を引き立たせる為に、乱暴な鼻息を吹かせて俺から離れていく。まぁ、劇としてはクソ程に面白くは無いが、俺にとっては、拍手喝采でも送りたいほど有り難い演劇ではあった。

 我関せずと、俺は目線を戻して下水道を進む。背後から甲高い叫び声が上がったが、何があったのか興味も湧かない。それにあの英雄には悪いが、この下水道を歩いていて一番傷ついたのは、可哀想という言葉だ。まぁ、それは助けてくれたお礼に、黙っておいてやろう。


 それからも俺は多種多様な目線を浴びながら、時折好奇心旺盛な若いドブネズミをアシラいながら、何度も休憩を挟んで、やっとのことで宿場に一番近い排水溝から外に出た。あぁ、さすがに疲労困憊だ。だがもう少し。後は、目的を果たすだけだ。

 中々整わない息に嫌気が差した俺は、まるで付き合い経ての恋人同士が繋ぐ手の様になった地面と尻を無理矢理に引き離して、久しぶりのいつもの様に、壁の中腹にある小窓から、宿場の中に入った。


 昼過ぎ、人の気配は無し。時間が掛かりすぎた、なんて弱音を吐く元気は奪われている。それでも俺は、いつもの様に階段の中腹にある花瓶置き場の裏に開いた穴から、まるで俺の為に用意されてるとしか思えない壁と壁の隙間に、身を潜ませた。ここまで来れば、後はどこにでも行ける。あいつの部屋は、二階の一番奥。俺は壁の中を走って、そこに向かった。

 俺は目的の部屋に、おそらく脱衣所らしき場所に設置された壁と同一化しているタンスの中に開いている穴から、侵入した。あいつの、まるで顔が体を表した様な怠惰たいだのおかげで、タンスの扉は開いていた。俺はそこから這い出て、ベッドの置かれた狭い室内に向かう。

 あいつは居ない。おそらく少女の金で、少女から奪い取った金で、賭事に興じているんだろう。最後の遊びだ。存分に楽しめばいい。俺は狭い部屋に置かれた小さな花瓶の裏に、身を隠した。


 腰を落ち着けると、下水で巻き込まれた久しぶりのドブネズミらしいやりとりと、あまりの疲労に薄らいでいた殺意が、穏やかな川が土砂降りの雨を飲み込み水かさを増やしていく様に、俺の思考を覆い尽くしていく。あぁ、これだ。殺してやる。

 俺はあまりの殺意に、高揚すら感じていた。体が震え、笑みさえ浮かべそうになる。逸るな、と体を押さえつけた。年老いた唯一の特権は、冷静に待ち続けられる事だ。いつまでも。あいつを殺すまで。


 窓の外では、寒さに弱い太陽が早めの帰り支度をしている。もうしばらくすれば、あいつが帰ってくる頃だ。今日は勝っていると良い。あいつは、賭事に勝つと大抵ここで夕飯を注文する。俺はそこに、この着飾った毒キノコを、混ぜ込むだけ。別に今日じゃ無くても構わない。いつまででも待てるさ。あいつを殺すまで。当たり前だ。俺は少女を守る、年老いたドブネズミな訳だから。



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