着飾った幼女は、白色の舞台に見事と言えるほどに溶け込む



 部屋に入り込んでいた日差しが、黒々とした陰に浸食されていく。その濃さに比例して、俺の鼓動は高鳴る。太陽はまるで腐りかけた木の実が枝から落下する様に、すぐさま姿を消していった。

 暗い室内に、俺の背後から寝起きの満月が淡い光を注ぎ込む。あいつの部屋に似合う埃がその光を反射させ、あいつの部屋には似つかわしくない、幻想を作り出す。足下に置いている着飾った毒キノコが、舞踏会と間違えて踊り出しそうだ。


 立て付けの悪い窓枠が、おそらく身を千切るほどの冷たさを持った風に、カタカタと震えた。隙間風が小さな体を切り刻んでいく。それでも、俺の殺意は貧相な尻尾の先程も揺るがない。役立たずな左後ろ足さえ、まるで革命への追走を決意して鍬を握る貧民の様に、今は全ての痛みに堪え忍び、その狼煙が上がる瞬間を待ちわびていた。


 不潔な足音が、不意に届く。まるで固形物になった埃すらも舞い立たせそうな、大量の虫が這い住まう腐った床板を引き剥がし続けている様な、そんな足音が近づいていくる。俺は乱れそうになる呼吸を落ち着けた。

 ドアが開く。不潔を体現した主人の登場に、埃達が忠誠を誓う舞いを見せた。廊下から差し込んだランプの灯りが淡い月光を部屋から追い出し、毒キノコが踊る幻想的な舞台は瞬く間に下品な寝室へと成り下がる。廊下のランプはそのまま、雄鳥の鶏冠の様に赤く、不気味な突起を張り巡らすあいつの顔面を、俺に見せつけた。

 不躾な里芋を思わせる体型のあいつは、右手に持った蝋燭で、壁に三カ所備え付けられたランプに明かりを灯し、蝋燭の火を吹き消す。部屋の壁際にある腰より低い椅子に腰掛けて、目の前にある丸机に短く太い足を乗せた。左手に持つ酒筒を口に運び、踏みつぶした里芋の様な笑みを浮かべている。胸内から数枚の紙幣を取り出し、机の上に散らかした。分かり易く、今日は勝ったのだろう。俺の鼓動が跳ねた。


「あのクソ女、何休んでんだよ」

 鼻息混じりの侮蔑した呟きに、左後ろ足が千切れる程に痛んだ。今はまだ、飛び出す訳にはいかない。その口元に、下水の隅に延々と放置されている黒ずんだ布切れから延びる粘り気が住み着くその口元に、無理矢理にでも毒キノコをねじ込みたい衝動に駆られたが、俺は年老いた特権を活用する。落ち着け。冷静に、待ち続けろ。時期は来る。確実に、殺すんだ。失敗は無い。

「抱いてやってんだから金ぐらい出せってんだ」

 痛みを伴うほど、前歯を食いしばった。あぁ、殺してやる。今のうちに笑ってろ。お前の命は、ドブネズミに奪われる。苦しみ藻掻き死に絶えたお前の死骸に、唾をまき散らしながら笑い声を浴びせてやる。あの世で、存分に馬鹿にされるだろう。俺は待ち続けられるぞ。お前を殺すまで、いつまででも。今の内に、笑ってろ。俺が殺してやるから。くそったれ。


「あぁ、腹減った。早く持ってこいよ。愚図が」

 あいつは腹を触りながらドアを睨みつけた。貧相な尻尾が珍しく暴れる。分かってる。落ち着け。機会が来るとは限らない。確かに、準備は整い始めた。だが、その舞台に上がるにはまだ不十分だ。俺は勇み立つ尻尾を落ち着かせた。

 あいつは不愉快な舌打ちを響かせる。続けざまに左手を握り込んで見つめた。その拳は、不自然に赤みがかっている。目眩を起こすほどの殺意が、俺の全身を支配した。その手で、少女を殴ったのか。

「馬鹿女がっ」

 その言葉に、体は動き出す。頭の中で、誰かが今だと叫んだ。全身の毛が逆立ち、体中がその憤怒を受け入れる。許せるはずがない。怒りに、支配された。今すぐ、殺してやる。

 不意に激痛が脳を揺らし、我に返る。あぁ、そうか、お前が止めてくれたのか。俺は役立たずだと蔑んでいた左後ろ足を、何度も撫でた。体中の隅々が、あいつを殺すために協力してくれている様な気がした。待ち続けろ。まだ、幕は開いてない。


 控えめな、ドアを叩く音が鳴る。まだらな赤い突起を纏う里芋が立ち上がった。その汚らしい顔面にお似合いの、へりくだった笑みを浮かべてドアを開ける。

「お食事のほう、お持ちいたしました」

 聞いたことの無い、まだ幼さの残る声が漏れる。あいつの背に邪魔されて、顔は見えない。

「あぁ、ありがとう。今日はシチューかな?」

 当たりの良さを被せた吐き気をもよおす声が、俺を苛立たせる。

「そ、そうだと思います」

 上擦った幼い声が、まだ仕事に慣れていない事を伝える。

「緊張しなくても大丈夫だよ。今日は忙しいのかい? もし良かったら――」

 別にお前が誰を口説こうと構わない。少女の愛を踏みにじったお前に、また少女を愛して貰いたいとも思わない。お前と少女は、切り離された。

「え、えっと、その、今日は忙しいので、その、家にも帰らなくちゃいけないので、ごめんなさい」

「いや、謝らなくても良いんだよ。忙しいところ悪かったね。また今度、もし良かったら」

「は、はい、ありがとうございます」

「じゃあ、がんばって」


 ドアの閉まる音が鳴った。あいつは振り返り、顔に張り付けていた笑みを汚れた上履きの様な無表情に切り替える。右手に持つ匙の差さった大皿が、湯気を上げていた。

「ブスが調子に乗ってんじゃねぇよ」

 椅子に腰掛け、丸机に大皿を置く。湯気を上げているのは、やはり聞こえた通り、俺の目的を後押しする様なシチューだった。この料理なら、毒キノコを混ぜ込んでも気づかれない。余程命を狙われる生活に身を置く大富豪でも無ければ、まるで雨上がりの水溜まりに行列を成して飛び込み続ける蟻の様に、暗闇の中燃えさかる炎に舞い踊る羽虫の様に、何の疑問も抱かず死へ向かうはずだ。後はこいつが、毒キノコをシチューに混ぜ込む、その時間を作ってくれるかだ。焦るな。いつかはやってくる。俺は貧相な見た目に似合わず暴れ出した尻尾を右後ろ足で押さえつけた。


 あいつは匙を手に、大皿を睨みつけながらいくつかの食材を持ち上げた。その表情に険しさが浮かぶ。

「肉が一個しか入ってねぇじゃねぇか。クソが」

 そういって、机に散らかる紙幣を一枚手に取り、立ち上がった。

「せっかく勝ったのに肉食えなきゃ意味ねぇだろ」

 そんな独り言を呟きながら、部屋を出ていく。あいつの不潔な足音が遠ざかっていく度に、俺には歓声をあげてしまいそうな程の、希望が近づいてくる気がした。全てが、味方をしている。ウサギを砂に埋めて石を投げつける行為を遊びと言い張る餓鬼共の様に、自らが与える不幸を眺め笑う現実は、おそらくドブネズミの俺より、あいつと遊ぶ事を選んだようだ。

 足音が消えて、俺は花瓶の裏から床に降りた。すぐさま丸机に上る。毒キノコをシチューに混ぜ込んだ。着飾った幼女は、白色の舞台に見事と言えるほどに溶け込む。あぁ、笑ってしまいそうだ。今なら現実と肩を並べて、あいつの苦しむ姿を楽しめる気がする。


 俺は再び花瓶の裏に身を隠した。不潔で可哀想な足音が、現実に好かれた貧弱な足音が、近づいてくる。すぐさまドアは開き、不機嫌な顔をしたあいつは椅子に腰を落ち着けた。

 匙を持ち、手持ち無沙汰に食材を転がす。その先が毒キノコに触れたが、気づく気配は無い。暇を持て余したかのように、芋を匙に載せ、口に運んだ。食材をゆっくりと咀嚼して、飲み込む。俺は漏れ出そうになる笑い声を、押さえ込んだ。

 あいつが食材を口に運ぶ度に、心は躍った。楽しくて仕方が無い。早く、死んでしまえ。気づくな。苦しみ藻掻け。少女を傷つけた罪にしては軽すぎるが、無様な死に様を見せてくれれば、許してやろう。


 控えめな、ドアを叩く音が鳴った。あいつは気色の悪い笑みを浮かべて立ち上がる。先ほど現れた幼い声の主と、先ほどと同じ様な会話をしてドアを閉めた。数枚の肉切れが載った小皿を丸机の上に置いて、再び食事を始める。

 あいつは肉を一切れ食べて、酒を飲んだ。満悦な表情を浮かべる。気分が良さそうであれば有るほど、俺の前歯はせり上がっていく。まるで蜘蛛に恋をした蝶がその巣に向かって羽ばたく様な、蝋の翼を与えられた青年が喜び勇んで崖から飛び降りてしまう様な、そんな滑稽な物語が、目の前で起こっている。

 俺をさらに楽しませたいのか、あいつはついに毒キノコを匙に載せた。やはり予想通り、その白濁液に汚れてしまった幼女を見定める事も、その可愛げな内身に潜む無尽蔵の殺意に気づくことも無く、口に運んでいく。あぁ、可哀想に。


 あいつは口の中で、汚れた幼女をさらに汚すかの様に、毒キノコを噛み砕いている。若干の険しさが浮かんだ。その顔はすぐさま、ムカデの体液を吸い出した(苦虫を噛み潰した)様な表情に変わり、苛立ちに任せて呷った酒と共に体内へ流し込んだ。口直しのつもりか、肉を一切れ口内に放り込む。微かに浮かんだご満悦はすぐさまに消え去り、再び険しさが張り付く。右手で喉を触りながら、華奢な狼を思わせる頼りない唸り声を出した。俺の尻尾が、右後ろ足を振り払って暴れ出す。

 顔に浮かんでいた険しさはすぐさま怯えた表情へと変わり、その全てが苦しみに潰れていく。ついには両手で喉を掻き毟り、絶叫する鴉の様な鳴き声を上げ始めた。椅子から転げ落ち、足を暴れさせる。体中が、瞬く間に熟していく野イチゴの様に赤く染まり始める。その赤みが増す程に、絶叫していた鴉の声量は老人の鼾程に弱々しくなり、暴れていた四肢は急に動きを緩め、まるで惚けた蛙の様に床を泳ぎだした。吐き出されていた呼吸は赤子の寝息の程に霞んでいき、俺の耳にすら届かなくなる。あいつは目を見開いたまま、完全に動きを止めた。あぁ、可哀想に。


「チューっ」

 笑い声が、漏れてしまった。眼下に横たわるあいつの体から、まるで床に溶け込んでしまいそうな程、生気が失われていく。最後に頭を打ち付ける音を響かせて、まるで最上位の謝罪でも表すかのように、顔を床に伏せた。あぁ、死んでくれたらしい。

「チュチュチュッ」

 待ち望んだあいつの死に、俺は花瓶の裏で笑い続けた。ドブネズミに殺される人間など、サーカスで生まれ育った虎に噛み殺される調教師よりも、踏み固められた土の中で餓死する蝉の幼虫よりも、屋根裏に置かれた意味不明なチーズに飛びつくドブネズミよりも、無様で滑稽な死に様だろう。あぁ、死んでくれた。


 床へ降りて、あいつの死骸を眺める。言葉通り、微動もしない。俺はその体に上った。足先から、湯気でも上がりだしそうな熱が感じられる。思い描いた通り、その無様な死骸に唾を吐きかけようと口を開いたが、目的を達成した安堵か、無理矢理に閉じこめていた不安がついに溢れ出したのか、不意に少女の姿が頭の中に浮かび上がり、俺の喉は絞め付けられた。

 全身へと広がる罪悪感を振り払う。当たり前に、こいつに向けられたモノじゃない。頭の中で、少女はこいつの死に涙を浮かべて悲しんでいた。喜ぶ姿など、いくら誇大に膨らませようと、想像も出来ない。分かっていながら押さえ込んでいた不安が、目を背けていた迷いが、罪悪感となって目の前を覆う。俺はまた、過ちを犯したのか。


 徐々に冷えていく死骸の上から、結局俺は唾を吐きかける事も、微かな笑い声さえ上げる事も出来ず、床に降りた。大丈夫だ。こいつが死んで、少女が不幸になるはずはない。婆さんが死んで、少女の生活は平凡になった。少女が母と呼ぶあの醜悪な生物は、やはり殺すべきだった。大丈夫だ。少女が悲しんでも、先の見えない不幸の一つは、取り除けたはずだ。俺は不安に胸を叩き始めた鼓動と、それに比例して痛み出した左後ろ足にそう言い聞かせた。

 人間を殺した、少女の不幸に立ち向かった余韻は消え去り、凍える程の冷たさが身を包む。頭の中に浮かぶ少女は、ずっと悲しんでいた。すまなかった、と俺は想像の中で震える少女に話しかけた。俺も、君を傷つける不幸の一つだ。もう、側に居るべきじゃない。


 決意したはずの思いが、胸を締め付ける。今ここで死んでしまうなら、それも良い様に思えた。それでもやはり、最後にもう一度だけ、少女に会いたかった。別れの言葉を、伝えたかった。未練など、微塵も残す気は無い。少女の為に、俺が消える事が、今の俺に出来る、全てだ。

 出もしない涙に、俺は少女を真似て、鼻を啜る。せめて最後は、俺だけでも、笑っていよう。もう少女に、僅かばかりの悲しみすら、重ねてはいけない。帰ろう。これで、最後だ。


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