真実味を帯びた矛盾
少女は森の入り口から、ボロ小屋に近づいてくる。薄い雲から覗く月明かりがまるで愉快だと言いたげに、羽の千切れた蝶が地面を這いずる様な、首の折れたキリンが顔を引きずりながら歩く様な、そんな少女の姿を、俺に見せつけた。
その月明かりが笑い声を上げて、少女の顔を照らした。心臓と呼吸が、燃え
俺は少女から目を背けた。見続ければ、明確な答えが分かってしまう。見間違えだと願った。あり得ない。いくら何でも、酷すぎる。分かってるはずだ。見間違えなんかじゃ無い。なぜ目を背けた。当たり前だ、辛すぎる。俺は夢を、見ているんだ。よく見ろ、現実だ。嘘だ、これは、夢なんだ。くそったれ。
目に映りこんだ真実が、両極端な思考を生み出す。ただそれは貧乏人同士の罵り合い程に、それこそ明確な答えだけを、漠然と浮かび上がらせた。それでも俺は全てから目を背けて、全てに願って、食卓のある部屋に向かった。夢なら早く、覚めてくれ。
食卓に上がった俺の耳に、足を引きずる音が届く。それは力任せに押さえつけられた赤子の産声や、互いに体中を刺し合い心中を試みた老夫婦の断末魔の様に、この世の残酷をかき集めた音だった。そんな音を、ボロ小屋のドアは重く迎え入れた。
少女の姿は、まさしく残酷な絶望を纏っていた。俺の鼓動が瞬く間に消えかけて、反動を付けたように胸の内側を焦がしていく。凍てついた
少女の顔は、暗がりでも分かるほどに酷くやせ細り、青白い暗闇を放っていた。右側の頬は場違いに膨らみ、主張の強い赤に染められている。元々小さな右目は、もう開くことを諦めたように張り膨らんで、潰れていた。狭い唇は所々血が滲み裂けていて、痛々しさを助長させる。俺の目には、まるで全ての時間が止まったように、その姿が映り込んでいた。潰れた少女の目が、俺に気づく。あぁ、誰にやられた。誰が少女を傷つけた。殺してやる。
「まだ、居たのね」
か細い声が、俺の体とボロ小屋を強震させる。そう呟いた少女がどんな表情をしてるのかさえ、俺には分からなかった。泣いているのか、微笑んでいるのか、怒っているのか、絶望しているのか、それとも、もう何かを浮かべる力すら失ったのか、何一つ分からなかった。返事さえ出来ずに、俺は未だ時間の止まった空間に支配されていた。それでも少女は、まるで絶望を描いた絵画の中に写る人物が動き出すように、俺から目線を外して歩き出した。
少女が視界から消えて、俺の金縛りは解ける。すぐさまその姿を追った。少女は乾いた金髪を揺らしながら、元婆さんの部屋へ入っていく。俺は食卓を降りて、その背中を追った。追った所で、何が出来る。分からない。でも、少女が傷ついている。放ってはおけない。また、傷つけるのか。もう傷つけない。俺は、少女を守りたいんだ。同じ事の繰り返しだ。お前はまた、少女を傷つける。五月蠅い、黙れ。俺は、少女を守る、騎士なんだ。お前は、ドブネズミでも無い。少女に依存する、ただの不幸だ。止めろっ。止めてくれ。じゃあ、早く、殺してくれよ。
この世の真理さえ理解した哲学者が幼子の一言で全てを覆されるような、どこぞの神が毒蛇に噛まれただけで死んでしまうような、年頃の少年が両親を罵倒しながらも、誰よりも自身が傷ついていく様な、そんな真実味を帯びた矛盾が、俺の中で言い争っている。答えが出る気配は無い。俺は耳を塞いで、それでも聞こえる言い争いを無視して、少女の後を追った。
元婆さんの部屋に入った少女は、そのままベッドへ倒れ込んだ。俺はその横に備え付けられた背の低い棚に駆け上る。少女は埃を被った枕に顔を埋め、微かな息さえ、押さえ込んでいた。
もう止めろ。俺自身が胸の中で呟いた。少女を守るのが、俺の使命だ。偉そうに、俺が叫んでいる。いったいいつ、その使命を全う出来たんだ。呆れたように、俺が訊いた。分かっている、また傷つけるかもしれない。それでも、助けたいんだ。誰かが願った。無理に決まっている。それはお前の役目じゃ無い。本当は、分かっているんだろ。誰かが薄笑いを浮かべた。俺は口さえ開けず、ただ少女を見つめていた。
枕の隙間から、鼻を啜る音が漏れた。押さえ込んだ嗚咽が混じり始める。少女の体が、小刻みに震えだした。細い指が、枕に食い込む。俺はそれを、見つめる事しか出来ないのか。俺は本当に、君に依存した不幸なのか。俺はただ、君に誰よりも、幸せに――
「チュー……チュー(何が……あったんだ?)」
あぁ、止めろ。口を閉じてくれ。
「チューチュー(誰が、君を殴った。頼むよ。教えてくれ。俺が殺してやる)」
お前はまた、同じ過ちを繰り返すんだ。
「チューチュー(俺が腐り切った梯子よりも役立たずな事は分かっている。それでも君を、守りたいんだ)」
お前は取っ手に毒針を仕込まれた梯子だ。ただ少女を傷つける為に存在している。いい加減に、理解しろ。
「チューチュー(俺にとって君は、湿気だらけの食料保管庫で
少女にとってお前は、ガラス片が混ぜ込まれたシチューよりも、ボウフラの湧いたココアよりも、危険で最悪な存在だ。
「チューチュー(俺の前で、泣かないでくれ)」
少女の前から、消えるんだ。
「チューチュー(あの時、君を守ると決めたんだ)」
あの時、死ぬべきだったんだ。
「チューチュー(誰が君を傷つけた?)」
俺が少女を傷つけた。
「チューチュー(許せないんだ)」
あぁ、分かってる。許せるはずないんだ。
「チューチュー(俺は、もうすぐ死ぬ)」
君を思う事さえ、出来なくなる。
「チューチュー(だから最後にもう一度だけ)」
君の為に生きる事を、許してくれ。
「チューチュー(俺が君を)」
守るんだ。
争い続けていた隣国同士が、強大な他国の侵略に手を取り合うように、俺の中で背を合わせていた矛盾が、少女の為という理由で解け合った。不思議と、左後ろ足の痛みが引いた気がした。体の隅々に散っていた余力が、腹の中心に集まる気配を感じた。最後にもう一度だけ、君の為に生きる事を許してくれ。
枕に顔を埋めていた少女が不意に腰を上げ、悲しみが支配した険しい顔つきで、俺を睨んだ。
「うるさいっ、この愚図っ」
俺はついに、頭がオカシくなったのかもしれない。泣き叫ぶ少女に、遠慮の無い罵倒に、喜びすら感じた。そうさ、君は優しい。おそらく、何も言えずに、全てを溜め込んで、このボロ小屋に帰ってきたんだろう。俺にだけは、全ての本音を吐きだしてくれ。遠慮なんていらない。君が幸せになれるなら、少しでも心が晴れるなら、殺してくれても構わない。
「チューチューチューチューうるさいのっ。私は食べ物なんか持ってないの。餌ぐらい自分で取ってきてよっ。何かを買うお金なんてもう無いのっ。何で私が殴られなくちゃいけないのよっ。なんで私が我慢しなくちゃいけないのっ。自分で遊ぶお金ぐらい、自分で稼げば良いじゃないっ。何が次は勝つよっ。賭事なんか止めて、働けば良いじゃないっ。なんで私があなたの遊ぶお金まで用意して、殴られなくちゃいけないのっ。ふざけてるっ。うるさいっ。皆うるさいっ。お婆さんも、お母さんも、あの人も、誰も私を愛してなんかいなかったっ。もういらないっ。もう何もいらないっ」
少女は泣き叫びながら、ベッドの枕元に置かれていた人形や枯れきった花のささった小さな花瓶を、俺が居る辺りに投げつける。宙を流れる小物の数々は、何一つ俺に当たることは無く、頭上を通り過ぎていった。あぁ、なんて君は優しいんだ。こんな時すら、ドブネズミの俺を、気遣っているのか。君に比べれば、平和を詠いながら信者へ争いを煽る神など、割れた花瓶の欠片よりも、首の取れた埃まみれの人形よりも、無価値な存在だろう。
「私はっ、何の為に生きてるのっ」
少女は最後にそう叫んで、跳ねるように咳き込んだ。まるで全ての不幸から身を守るように、ベッドの上で体を丸めた。俺にはその内側から殴られている様に跳ね続ける薄い背中を撫でる事も、励ましの言葉を掛ける事も、同じ苦しみを分かち合う事も、出来ない。それでも、こんな俺でも、出来る事がある。話してくれてありがとう。君の不幸を、殺してくる。
俺は咳き込み続ける少女をベッドの上に残して、ボロ小屋を出た。当たり前にその体調への心配は尽きないが、俺が見続けた所で、悪くなることはあっても、良くなる事は無い。あまりの心労にやるべき事を見失うほど、若くはない。
あいつを殺そう。まるで豚の
左後ろ足はやはり痛む。呼吸は枯れて体は重い。それでも俺は、森に向かった。暗闇を目立ちたがりの月が照らす。明日は満月か。四肢を削ぎ落としていきそうな風が吹く。顔を出すまでには時間が掛かりそうな、引っ込みじあんな雪の匂いがした。
「私はっ、何の為に生きてるのっ」
暗闇の中で、少女の叫びが耳の中に響き続ける。決まってるさ。君は幸せになる為に、生きているんだ。そう思うだけで、俺の体は熱を帯びた。
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