最終話 少女に奇跡は起こらない
まさしく、と言わんばかりに、魔女の名を付けられた通りだった。来る者を拒む前に、立ち入りさえも拒絶するような、雪さえも飲み込もうと待ちかまえている暗闇が、狭い道筋を覆っている。通りを囲む壁に備え付けられた、いくつもの小窓から漏れるランプの薄明かりが揺らいで、気味の悪さを際だたせていた。
魔女が住んでいると思われる住宅は、すぐに分かった。通り沿いにはいくつもの建物が並んではいたが、出入り口らしき空間は、一カ所だけだった。まさしく、魔女の通りなのだろう。俺は壁際に沿って、その、唯一通り側に向けて作られてた出入り口らしき場所へ、暗闇すらも吸い込んでいるかの様な暗闇を放つ、その場所へ向かった。
幅の狭い階段が、二階へ続いている。質素な装飾すら見あたらない無機質な闇が、まるで抜き身の刀身を、処刑台にぶら下がる無骨な縄を思わせる冷徹な闇が、俺を見下ろしていた。意を決する事も無く、俺は階段を上がる。覚悟なら、有りとあらゆる覚悟なら、全て纏めて、ボロ小屋に置いてきた。
甘ったるく、矛盾するように鼻奥を刺激する異臭が、段差を上がる度に、その濃度を増していく。赤黒い霧でも見えてきそうだ。俺はすでに惑わされているのかと、不安にもなった。
階段を上りきり、木製の扉を見上げた。やはり無機質で、すぐにでも朽ち果ててしまいそうな、砲弾すらも跳ね返してしまいそうな、そんな矛盾を生み出す扉が、立ちはだかる。
忍び込む意味も、時間も無い。もしここに住む者が、魔女と呼ばれる下らない奇跡じゃ無ければ、俺は振り出しすらも振り切って、針の
「ジュッ、チューっ」
木製の扉へ、体を叩き付けた。意に反して、その扉が奏でた微かな衝撃音を覆い尽くす呻き声が、俺の口元から飛び出る。嫌気が差すほどの老いた体を引きずり起こして、俺はもう一度、扉へ体当たりを喰らわせた。
「ジュガッチューっ」
老いた体の叫びなど、気にもならない。何度でも、命が尽きたとしても、少女を助けてやる。俺は再び、自発的な拷問に怯えて震えだした体を引きずり起こして、木製の扉を睨みつけた。右後ろ足を蹴り上げる直前、扉の向こうから、微かな足音が聞こえた。俺の老いた体が、肩の力を抜いて、安堵の息を吐いた。俺も、胸をなで下ろす。さすがに、奇跡かどうかも確かめる前に、死ぬわけにはいかない。足音が、扉の向こう側で止まった。俺は扉の隅に移動する。
「誰だ?」
女の声が響く。高く、掠れた声だった。存分に含まれた苛立ちが、暗闇を震わせる。鳴き声を上げようかと迷った。僅かな選択すら、間違う訳にはいかない。乱暴に叩かれた音が、扉の向こうから二度鳴った。
「誰だ、こんな真夜中にっ」
俺は声を上げなかった。今ここで、姿も見せずに叫ぶドブネズミの鳴き声に、意味は無いような気がした。頑丈そうな鍵を開ける音が、扉の二カ所から漏れる。その音が止み、静けさが暗闇に張り付く。ゆっくりと、扉が動き出した。目の前に、薄い光が射し込む。俺は女を確認する前に、僅かな隙間に身を潜り込ませて、室内に足を踏み入れた。
「ふざけやがって、誰も居ないのかっ……くそったれが」
女の舌打ちを背に、部屋の中で暗がりを探す。大きさを確かめる前に、いくつも並ぶ棚と棚の隙間に身を隠した。ドアを乱暴に閉める音が鳴り響く。俺は振り返り、二つの鍵を面倒くさそうに施錠している女を、魔女を、見上げた。
女にしては短い黒髪を巻くし上げ、彫りの深い顔立ちには、分かり易い不機嫌を刻んでいる。暗がりの室内に溶け込む浅黒い肌をしていた。その肌色に反比例する様な、膝下まで覆う真っ白な一枚布を細身の体に纏わせ、手元には、存分な富を思わせる貴金属類が、いくつも巻かれている。俺は目線を外して、室内を見渡した。
部屋の中心には、厚みのある本や用途不明なガラス筒、同じように用途不明な鉄筒が乱雑に積み重なる幅の広い机が置かれ、その机を囲むように、所狭しと背の高い棚が並んでいる。若い頃に忍び込んだある識者の部屋模様に似ていたが、棚の中には、明らかな異質を漂わせるモノが、理路整然と並んでいた。
魔女らしい棚だ、と俺の心境は僅かに跳ねる。無色透明な液体が詰まるガラス瓶の中に、蛙や蛇、様々な草々類、キノコや、当たり前の様に、ドブネズミも、そして俺では何なのかさえ理解しかねる青色の布切れの様なモノや、細かな気泡を生み続ける固形物、不可思議なモノの数々が、棚の中に並んでいる。それらはまるで、傷だらけで足を引きずる兵士達が、それでも忠誠心を見せようと王の御前で隊列を組み行進をするように、雷雲が張り巡らす空で、暴風雨に晒されながらも海を渡ろうと群を成す渡り鳥の様に、異質な秩序を、部屋の中に作り上げていた。
女が鍵を閉め終えて、舌打ちを響かせる。扉に背を向けて、歩き出した。迷う前に、迷ってる暇など無いと気づく。どうなるかなど、考える意味も無い。少女を助けられない俺のネズ生(人生)など、水の漏れ続ける壷だ。飾られない絵画に、真っ黒なキャンバス、一時の休息すら許されない町外れのボロ小屋だ。たった一つの役目も果たせずに老い果てるドブネズミなど、まるで立ち入りを禁じられた斜塔(無用の長物)。産まれてすぐに殺されていた方が、幾分も真っ当な死に様だろう。
「チューっ(待ってくれっ)」
俺は棚の隙間から出て、部屋の中心に置かれた机に上った。女はすでに立ち止まっていて、俺を見下ろしている。その目には、驚きも蔑みも、疑問すら、ある種の老人達が浮かべる偽善の眼差しすら、感情の何一つ、浮かんでいなかった。暗がりの中で、深い藍色のガラス玉が二つ、全てを見透かすように淡い光を放っている。俺はその藍色を、女の目線を、見返した。
「チュー、チュー(頼みが、ある)」
時間は無い。紛う事なき滑稽な懇願。それでも、その僅かな可能性に、正直者が大金を得る程、年端も行かぬ少年が母の慈愛に気づく程、弾幕に襲われた名探偵が無傷で難を逃れる程、それほどに僅かな可能性でも、俺には頼ることしか出来ない。
俺の懇願に、女は表情を変えない。ランプの揺らぎが、その顔を照らす。僅かに張り付く老いの内側に、若々しい血気が流れている。
「チュー、チュー(頼みが、ある)」
俺はもう一度、滑稽な懇願を試みた。女の眉間に、微かな皺が寄る。俺を見定めるように、深い藍色が僅かに動いた。口は開かない。諦めるという選択肢はない。何度でも、続けてやる。
「チューっ、チューっ(頼みがあるって、言ってるんだっ)」
「おい……お前みたいな死に損ないのネズミに用はない。どこから忍び込んだか知らないがね、殺されたくなかったらさっさと出て行け」
「チューチュー(頼みが、あるんだ)」
俺は女の目を見返したまま、鳴き声を上げた。女の顔に、険しさが浮かぶ。細い肩が、疑問を纏って上下した。二つの深い藍色が、俺の内側を探っている。そんな気配を感じた。部屋を沈黙が包む。女の細い肩が、再び上下に動いた。
「おい…………なぜ逃げない?」
女の言葉に、俺の貧相な尻尾が僅かに震える。ドブネズミに問いかけをする人間など、少女以外に、俺は知らなかった。頼む、と今にも消え去ってしまいそうな可能性を、俺はたぐり寄せる。
「チューチュー(助けて欲しい、人間がいる)」
再び、沈黙が包む。女の顔に浮かぶ険しさが、疑問だけを残して、徐々に解けていく。俺を見据える二つの瞳が微かに揺れて、女は小さく鼻息を吹いた。
「下らないね……まぁいい、おい、ネズミ、殺されたいのか?」
俺は、首を横に振った。分かり易く、大袈裟に、少女を、人間を真似て、首を横に振った。女の口元が、笑みと疑惑を同時に浮かべた。
「殺されたくはないってことか? 笑っちまうね。偶然にしても面白い。お前みたいに表情があるネズミってだけでも珍しいが、人間と会話が出来るつもりなのかね」
「チューチュー(お前の言っている事は、理解している)」
俺は大袈裟に、今度は首を縦に振る。女は笑い声を上げた。目を見開いて、好奇を存分に映し出す。
「言葉が分かるのか? 人間の」
「チューチュー(あぁ、分かる)」
「そこで回ってみろ」
俺は机の上で体を回転させた。女は歓声を上げる。腰を屈めて、顔を近づけてきた。
「本当に分かるのか?」
女は俺の目の前で、目尻の皺を覆い尽くす幼さを、藍色の瞳に纏わせた。
「チューチュー(言うことは何でも聞く。尻尾だって噛み千切る。だから、俺の頼みを、叶えてくれ)」
頼む、このまま、少女を、助けさせてくれ。俺は微かな可能性を、下らない奇跡を、願い続けた。
「もう一度回って見ろ。今度は二回だ」
俺は二度、体を回す。
「鳴いてみろ、そうだね、五回だ」
「チュー、チュー、チュー、チュー、チュー」
「そこにあるフラスコを、ガラス瓶を、床に落とせ」
俺は指先で指定されたガラス瓶を床に落とした。甲高い悲鳴の様な音が、部屋に鳴り響く。女は、足の長い紳士から花束でも贈られた幼女の様な笑みを浮かべた。
「本当に分かるのか?」
藍色の瞳が、純粋を纏って俺を見つめる。首を縦に振った。女は笑い声を上げる。
「まるで奇跡だね。不思議な夜だと思ってはいたが、人間の言葉を理解するネズミが訪ねてくるとは思わなんだ」
「チューチュー(俺の言葉は、分かるのか?)」
女は質問に答えず、笑みを浮かべたまま俺を見つめる。
「チューチュー(頼みが、あるんだ)」
「私に……何か伝えたいのか?」
女の顔に、初な好奇心が浮かんだ。
「チュー、チュー、チュー(あぁ、頼みが、ある。助けて、欲しい)」
俺はゆっくりと話し、ドブネズミなりにこれでもかと、表情に懇願を作り上げた。女は楽しげな笑い声を上げた。
「待て待て、まったく、なんて夜だ。お前が何か話したがっているのは分かってるんだ。少し時間をくれ」
待ってる暇は無い、と急かしたい衝動に駆られたが、口には出さなかった。女は一度腰を上げ、机に備え付けの椅子に腰掛けた。考え込むように目を瞑り、口を開く。
「これでも七歳まではね、ネズミと話していたんだ。三十年以上前だがね。親の手伝いで友達だったネズミを殺してから、まったく聞こえなくなったのさ。幼さが見せてくれた淡い思い出として大事にしていたがね、あの時の私は、本当に話せていたのかもしれないね」
急に饒舌になった女の独り言を、俺は聞き続けた。焦りと苛立ちが、貧相な尻尾を暴れさせる。お前と会話を楽しむつもりなど、欠片も無い。あぁ、頼むよ。早く、してくれ。少女を助けてくれた後ならいくらでも、聴力を失うまでも、空腹に命を落とそうとも、いくらでも、その雌同士の褒め合いの様な、樹液を奪い合う虫の縄張り争いの様な、そんな話にでも、いくらでも付き合う。愛想笑いというヤツも鬱陶しいほど浮かべる。だから、早くしてくれ。少女は今も、苦しんでいるんだ。
「家柄でね、物心つく前から、なんなら産まれた時から、私はネズミと共に育ったんだ。親が無精で、部屋中にネズミが走り回っていたのさ」
女は目を開いて、俺と視線を合わせる。
「チューチュー(分かったから、どうなんだ? 俺の言葉は、分かるのか? 分からなくても良いから、俺の願いは、理解出来るのか?」
「待ってくれ、あんまり急かすんじゃない……あぁっ、急かしているのはわかったさ、ネズミ」
女の笑みに苛立つ。ただあまり無愛想にして前歯を隠されても(へそを曲げられても)意味は無い。それこそドブネズミに育てられた猫(本末転倒)だ。俺はなるべく、上っ面な笑みを表情に作り上げようと試みた。
「あの頃は、ネズミと話せていると信じていたんだ。親はどっちも笑ったがね。ネズミが人間の言葉を話し出したら、仕事にならんとね。まぁいい、思い出話はこれぐらいにして、ちょっとあの頃を思い出すリハビリだ。簡単な質問をするから、簡単に答えろ。分かったか?」
俺は苛立ちを覆い隠した笑みを浮かべて、首を縦に振った。女の嬉しそうな笑みに、肩が落ちそうになったが、何とか耐える。
「お腹は、空いてるか?」
「チューチュー(空いて、無い)」
俺は首を横に振った。実際には貧相な尻尾にかじり付きたい程空いていたが、伝えたところで意味はない。
「あぁ、動きはいらない。表情と鳴き声で理解したいんだ。それにネズミ、本当は空いているだろ? 話せなくても、ずっとネズミを扱っているんだ。それぐらい分かるさ……うん? ってことは今、私はお前の嘘を見破ったのか? 面白い」
ドブネズミの虚言を見抜いたところで、何がそんなに嬉しいのか分からないが、女はまるで、花畑でドレスを纏う幼女の様な笑みを、納屋に放置していた古めかしい壷が骨董品だったと知り得た婦人の様な笑みを浮かべた。
「チューチュー(分かったから、早くしてくれ)」
「最初からだ。お腹は、空いているか?」
「チューチュー(あぁ、俺が雛鳥なら、その鳴き声に山が揺れるだろうさ)」
「ちょっと待て、余計な事を言うな。簡単にと伝えたはずだ」
「チューチュー(すまない、少し苛つい……焦っているんだ)」
「まぁいい、腹が減ってるのは分かったさ。そうだね、何が食べたい?」
「チューチュー(チーズでもあれば、出してくれ)」
俺の言葉に、女は鼻息を吹かせる。
「チーズを出せ。どうだ、合ってるか?」
俺は首を縦に振った。
「生意気なネズミだ」
女は笑って、次の質問を口にする。
「今日は、暑いか?」
「チューチュー(何を……いや、今日は寒い)」
「そうだね、今日は寒い。そう言ったね?」
俺は前歯を食いしばり、何とか笑みを作り上げ、首を縦に振った。
「じゃあ次だ。そうだね、その後ろ足、痛むのか?」
「チューチュー(あぁ、痛い)」
「そうか、痛むのか」
女は何度も頷き、質問を続ける。
「これは、何本だ?」
指を三本立てた。
「チューチュー(三本だ)」
「正解だね。分かってきた気がするよ。少し難しくいこう。お前の血を受け継いだ子供は何匹いる?」
「チューチュー(居ない、独り身だ)」
「ずっとか? お前は大分年寄りネズミに見えるが?」
「チューチュー(あぁ、あんたのいう通り、大分、年寄りだ)」
「ネズミの世界にもモテない雄ってのは居るんだね。繁殖力で言えば、引く手数多にでもなりそうなもんだ」
「夜な夜な毒林檎を作り上げていそうな口の悪い中年女に何を言われても俺は構わないが、そんな事よりも、いつまでこの過保護な幼児教育を続けるつもりだ? いい加減に尻尾の先が燃え上がりそう(腸が煮えくり返りそう)だ」
俺の言葉に、女は大袈裟に笑った。
「誰が毒林檎を作ってるって。別に若さに嫉妬なんかしちゃいないさ。それにしても五月蠅いネズミだね。お前が人間の男なら、それこそ毒林檎を喰わせてやる所だ。しかしネズミに馬鹿にされるなんてね。まるで奇跡の夜だ」
「こんな安い奇跡であんたが少女を助けてくれるなら、気が狂うほどの罵倒を重ねることも出来るがな、今は冬の夜すらも超えてしまいそうなこの冗長で退屈なやりとりに興じている時間は無いんだよ。いったいいつになったら答えが出るんだ?」
女は年相応に、豪快な笑い声を上げた。
「価値観の違いだね。私には奇跡の夜でも、お前には明けない夜に思えるわけか。それにしても、貴族連中の気取った阿呆どもよりは幾分も面白いじゃないか。ネズミってのは皆こんなにしゃべるのか?」
「だから何度も言ってるが…………俺の言葉が、理解出来るのか?」
「あぁ、今は後悔している所さ。幼い頃の思い出が汚された気分だね」
女は笑った。俺の言葉が、通じている。あぁ、頼む、奇跡よ、消えないでくれ。もう少し、もう少しだけ、少女の為に、消えないでくれ。
「すまない。あまりの美しさに取り乱した」
「今更取り繕ろうな。別に尻尾をつまみ上げて振り回したりはしないさ。それよりもお前がここに来た理由だ。助けたい少女ってのは、何かの比喩か?」
消えるな、消えるな、頼む。
「あんたは、魔女か?」
「私が魔女かって? なんだねその質問は?」
「いや、魔女じゃ無くても構わない。頼みがある」
「餌を貰いに来た訳じゃなさそうだね。なんだ、仲間のネズミでも私に殺されたか? 復讐をするには随分とノンビリしている」
「俺の言葉は、本当に分かるのか?」
「感動も薄れるほどに鮮明さ」
「早速ですまないが、時間が無い。今から話す。森の奥に、小屋があるのは知っているか?」
「あぁ、そこの森かね。遠目に見かけた事がある。そこがお前の住処なのか?」
「俺の事はいい。今そこに、一人の少女が眠っている。おそらく、病気だ」
「少女ってのは、若い雌ネズミの事かね?」
「人間の、女だ。年で言えば、十五だ」
「十五で少女とはまぁ、甘やかされてるのかね。それで……そうか、病気ってのは、流行り病か?」
女の顔から、笑みが消えた。若干の険しさが、眉間に張り付く。
「あぁ、おそらく友人を介護して、移されたんだろう。その少女を、救って欲しい。俺の願いは、それだけだ」
「つまり、人間の少女を、病気を治して欲しくて、ここに来たのか?」
「そうだ、頼む……誰よりも、優しいんだ」
声が震えて、俺は深く息を吸い込んだ。今も苦しんでいる少女を思うだけで、胸は締め付けられた。女は不意に鼻息を吹き出して、笑みを浮かべた。
「まさかネズミからも催促されるとわね。それにしても、何故ここにたどり着いた? そっちの世界にも私の名が知れ渡っているのかね? まぁ確かに、殺した数で言えばこの町で一番だろうがさ。まるで予想外の頼みごとだね」
「治せるのか、治せないのか、治してくれるのか、今は、それだけで良い。教えてくれ」
少女は今も、苦しんでいるんだ。あぁ、頼む、消えないでくれ。少女の幸せな未来を、閉ざさないでくれ。
「分かり易くて良い。小言の多い役人にでも聞かせたいね。じゃあ答えてやるさ。今はまだ、治せない。不思議な夜に出会った幼い頃の目映さを思い出させてくれたネズミの願いだ。叶えてやりたいのは山々だがね」
「治せ、ないのか?」
暗闇が、覆い被さる。藻掻く力さえ、すぐさまに奪われた。胸の鼓動が、まるでゆっくりと近づいていくる死を思わせかのように、一つ一つ丁寧に、俺の中で音を奏でる。あぁ、そんな、嘘だ。嘘に、決まってる。
「そんな暗い顔するな、ネズミ。ちゃんと話を聞け。今は、まだ治せない。今は、だ。なぜお前が私に頼ってきたのかも、なぜ人間の少女を助けたいのかも、なぜ人間の言葉を理解出来るのかも、私の頭の中は初めて恋を覚えた時みたいに何故で埋め尽くされているがね、そっちは時間も無いようだし、まずは出来る限りお前の願いを叶えるために尽くしてやるさ。私にも利に成り得る。それでだ、多少、いや、大分だね。大分キツいことを言うが、まずはネズミ、私の話を聞く気はあるか?」
「望みは、まだあるのか?」
頼む、あると、答えてくれ。
「お前次第で、可能性はかなり低いがね」
あぁ、絶対に助ける。だからもう少しだけ、待っててくれ。
「十分だ。何でもする」
「話が早くて助かるね。じゃあ簡潔に伝える。仲間を、売れ」
「仲間?」
「お前はネズミだろう? 私が指示するネズミを、騙して連れてこい。最初に言っておく。お前が連れてきた仲間は、私が殺す。お前の望みを叶えられる可能性としては、一番高い確率だ。さぁ、答えを聞かせてくれ」
あぁ、迷うことなど無い。決めたはずだ。少女の為なら、魔女にすら、魂を売ろう。
「分かった。それぐらいの覚悟なら、いくらでも捧げてきた」
「よし、契約成立だね。じゃあ指示を伝える。お前が知り得る仲間の中で、一番清潔なヤツを連れてこい。腐った肉を頬に詰めず、地べたを這い回る虫を好まず、下水に流れる汚水で気持ち良さげに沐浴しない、ネズミという生き物の中で矛盾を生み出しているヤツだ。町の地下にどれほどのお仲間が居るのかは知らないが、思い当たるぐらいはあるだろうさ」
意図の欠片すら読みとれない指令でも、俺は必死で記憶を巡らせた。清潔なドブネズミ。まるで国民から絶大な信頼を得る国王だとか、手頃な棒を振り回さない少年、菜食主義の熊や全ての演目を完璧にやり遂げる道化師、それほどに両極端な言葉が並ぶ。清潔なドブネズミ。いくら記憶を探った所で、俺の知るドブネズミは皆、腐肉をこれでもかと頬に詰め込んでいた。それでも必死に、探し巡る。出来るだけ、頬に詰め込む腐肉の量が僅かに少ないぐらいでも良い。出来るだけ清潔なドブネズミを、俺はここへ連れてこなければならない。
「何度も言うが、この契約はお前次第だ。結局口を閉ざされれば、私にお前の口を割らす術は無い。確かに両親の言った通りだね。姿はいくらネズミでも、会話が成り立ってしまうと情が湧く。もうあんな思いはしたくないと、あの頃の私が力尽くで止めに来そうだ」
女の言葉を聞き流しながら、俺は清潔なドブネズミを探した。腐肉を食わないドブネズミ。虫を好まぬドブネズミ。下水に住まないドブネズミ。何度も繰り返す内に、頭の中を覆う靄が少しずつ晴れていき、朧気な輪郭を、形作っていく。目を逸らすなど、あり得ない。俺の目的は、俺の願いは、少女を助ける。ただそれだけだ。頭の靄が、一気に晴れ渡った。
「俺だ、清潔なドブネズミは……俺だ」
体が、震えた。大丈夫さ。恐怖なんか微塵もない。君を助ける為なら、命すら惜しくない。だから君は、何も心配しないでくれ。
「俺なんだ……清潔なドブネズミを殺せば、少女を助けてくれるんだろ。俺だ……町で一番、清潔なドブネズミは、絶対に俺だ」
あぁ、そうか、俺は、この為に、生き続けていたんだ。この日の為に、三年間、君の隣で、君の声を、君の笑みを、君の姿を、見続ける事が、聞き続ける事が、出来たんだ。途方もなく、奇跡は、ずっと続いていた。大丈夫だ。後悔も、恐れも、何もない。ただあるのは、胸に残るのは、君のために死ねるという、幸せな感情だけだ。だから、もし俺が消えたとしても、もう二度と会えないとしても、寂しがったり、悲しんだり、しないでくれ。俺は、誰よりも、幸せなんだ。だから、だから。
「話を聞いて無かったのかね。私は清潔なネズミを、殺さなくちゃならない。お前の願いと、そして私の仕事の為にだ」
「あぁ、分かってる。だから、俺を殺して、早く少女を助けてくれ」
口を閉ざした女の顔に浮かぶ表情が、哀れみなのか疑問なのかは、分からなかった。
「覚悟は、出来てる。今更暴れたり、鳴き声を上げて虚しい命乞いなどしない」
「お前がなぜ清潔と言い切れる?」
「三年間、少女と、人間と暮らしていた。ドブネズミとしては、あんたの要望通り、あり得ないほどの矛盾を生み出している」
「確かに、お前の言葉を信じるとするなら、清潔だろうさ。じゃあもう一つ聞く。なぜ人間の為に死を選ぶ? 元々人間だったなんて、そんなお約束はいらない」
「命を……救われたんだ」
「それだけか?」
「あぁ……それだけだ」
「命を救ってくれた人間の為に、命を堕とすのか? それで誰が喜ぶ? お前の自己犠牲という自己満足で、その少女とやらは、傷つくと思うがね」
「俺は、あんたの言ったとおり、年老いたドブネズミだ。元々、今日限りで少女の前から消えるつもりだった。それこそ命を救ってくれた少女に、その死骸を見せつける訳にはいかない。その命を、少女を助けるために使えるんだ。もし俺がお姫様を守る勇敢な騎士なら、その冥利に尽きる」
「立派な心構えだがね、何度も言うが、お前がいくら清潔で、どれほどに少女を想っていようとも、助けられる可能性はかなり低い……理由を知りたいか?」
「いや、理由を知った所で、意味はない。それよりも早く、俺を殺して少女を助けて欲しい。それがどれほどに低い可能性でも、俺が少女の側に居続けるよりは、幾分も高い可能性だ。それに、珍しく、良い予感がしている。俺の命を使えば、助けられる気がするんだ」
女は、納得のいかなさを、存分に吐き出した。苛立ちに似た眉間の皺を、ずっと刻んでいる。
「有り難いことなのかもしれないが、あんたが悩む意味が分からない。言葉通りなら、あんたの得にもなる話だ。ドブネズミの俺を殺すだけで、全てが解決する」
「私はまた…………友を殺さなくちゃいけないのかい」
「チューっ」
吹き出してしまった。
「フンッ、可笑しいか? ネズミ」
女も、鼻息を吹き出した。
「いや、確かに、あんたは友人だ。本音で話し合えたんだからな」
「できれば陽が上ってまた沈むまで、話し合っていたいんだがね」
「すまない、時間が無いんだ。もう俺が生き続けている事に、意味はない」
女は深く息を吸い込んで、腕を組んだ。藍色の瞳が、微かな悲しみ揺れる。あぁ、あんたで良かったよ。俺の命を奪うのが、あんたで良かった。俺の命を奪うのが、少女を助けられるあんたで、本当に良かった。
「ありがとう」
「止めてくれ、まだ礼はいらない。それにその少女を助けられれば、私の仕事も完成する」
「今すぐ、その手で絞め殺して構わない」
女は深く吸い込んだ息を、一気に吐き出した。
「ああっ、もうっ、湿っぽいのは苦手だ。分かったさ、お前を殺して少女を助けてやる。だが何度も言うぞ。お前の体を使ったからって、薬が完成するとは限らない。ただお前を使った薬の第一被験者は、その森に住む少女にするさ。私に出来るのは、それだけだ」
「十分だ。恩を何も返せずに、すまない」
「ネズミが一丁前な台詞を吐くんじゃない。それに薬が完成すれば、私は大金持ちだ。礼ならそれで十分だね。じゃあ準備がある。急いでいるんだろ? 手に乗れ」
女は立ち上がり、俺の前に手を添えた。自分でも不思議なほど、何の躊躇もなく、俺はその手に身を預けた。
「それにしても、不思議な夜があるもんだ。まるで夢でも見てるみたいだね」
夢じゃない。これは紛れもない、奇跡なんだ。女は部屋を出て、三階に繋がる階段を上り始めた。
「ありがとう、感謝している」
「私は今からお前を殺すんだ。礼なんて言うな。しかしあれだね、女の為に躊躇もなく身を捧げるか。お前ほどに面白いネズミだ。人間だったら、惚れていたかもな」
「そういわれて悪い気はしない。感謝する」
「フンっ、振られた事にしといてやる。しかし今更だがね、なぜそんなに少女とやらを想っている、なんて聞くのは無粋かい?」
俺は笑うだけに留めた。
「何笑ってやがる。いいさ、問いつめないでおいてやる」
三階に到着する。宿場の調理場を圧縮したような空間が広がっていた。壁際に置かれた棚の中には、相も変わらずに、不可思議なモノが入れ込まれたガラス瓶が、整然と並んでいる。女は中央に置かれた調理台を思わせる机に俺を置いて、壁際の台に載る大きな鉄鍋に火を掛けた。
「準備するから、そこで待ってろ」
女はそういって棚を漁りだした。慣れた手つきで、様々な草々類や、ガラス瓶の中で呆け続けている蛙、どこからか取り出した蛇の干物を、鉄鍋の中に放り込んでいく。
「それでネズミ、今の内に聞きたい事がある」
作業を続けながら、女が口を開いた。俺は鳴き声を上げて、問いを受け入れる。
「人間の言葉が理解できるのは、生まれつきか?」
「いや、三年前、少女に出会ってからだ」
「きっかけは?」
「難しい事は分からない。三年前、俺は人間の毒で死にかけた」
「三年前? あぁ、あの、一斉駆除騒動の時か。そのときは、下水に居たのか?」
「あぁ、その時、少女に助けられた。目を覚ましたときの、少女の言葉を覚えている。婆さんの薬を飲ませたら、俺は目を覚ましたらしい。その時からだ、人間の言葉が分かるようになったのは」
「駆除剤と、婆さんの薬か。婆さんの病名は?」
「すまない、欠片ほどの興味も無くてな。婆さんの病名までは知らない」
「じゃあ結局、お前が人間の言葉を理解出来る謎を解くには、少女を助けなくちゃいけないわけだね」
「そうしてもらうと、有り難い」
「お前次第だ。死んでからも祈ってな」
女の言葉に、何故か俺は安らいだ。そうだな、その通りだ。俺は死んでも、君の幸せを祈ろう。
「さぁ、準備は出来た。おいネズミ、このチーズを食べろ。私の特別製だ」
女は手のひらに細切れのチーズを乗せて、俺に差し向けた。
「最後の、晩餐か」
俺の頭に、色味の薄い豆のスープが浮かぶ。キノコ炒めの香ばしい匂いが思い起こされる。安い小魚焼きが、湯気を上げている。あぁ、そのどれもに、君の笑みが映し出されている。幸せだった。本当に。ありがとう、ありがとう、別れの言葉は、君に届かなくとも、感謝で綴ろう。ありがとう。
「気を利かしてくれて有り難いが、俺はこのまま、死のうと思う」
「食べといた方が良い。美味いかどうかは知らないがね、感覚が麻痺して寝てる間に死ねるはずだ」
「なおさら、要らないさ。最後まで、少女を想いたい」
「羨ましい限りだね。生まれ変わったら人間になりな。どんなに不細工でも、私が貰ってやる」
俺は笑うだけに留めた。
「フンっ、さぁ、手に乗りな」
目の前に広げられた手のひらに、俺は身を預けた。女は室内を移動して、すぐさま足を止める。鉄鍋の中で煮えきった湯水が、俺の眼下で泡を擦り潰したような音を奏でている。
「後は、お前がここに飛び込むだけだ」
「少女を治す薬ってのは、どれぐらいで出来上がる?」
「今すぐにお前が飛び込めば、陽が上る頃だね」
「そうか、じゃあ、今すぐに飛び込まないとな」
女は口を開かなかった。俺の頭上で、深く息を吐き出す。俺は徐々に濁り始めた煮え湯を見つめた。
「本当にありがとう。あんたは、俺にとって、紛れもない奇跡だ」
五月蠅いね、と小さな声が聞こえた。嘘じゃない、と伝えたかったが、伝わっているような気がした。俺は煮え湯を見つめたまま、深く息を吸い込んだ。
結局君に、奇跡は起こらなかったんだろう。これは、今までの物語は、俺に降り注いだ、途方もない程幸せな、奇跡だったんだ。君に出会ったことも、人間の言葉を理解出来た事も、君と共に過ごせた日々も、君の健気な笑みも、傷つきやすい優しさも、全ては、俺に起こった奇跡だった。奇跡は、起こり続けていた。あぁ、幸せだ。最後は、君の為に死ねる。紛れもない、途方もない、これは、奇跡だ。
体が、浮き上がった。ゆっくりと、時間は流れている。まるで朝霧の様な白い靄が、俺の全身を暖かく包み込む。目の前が、滲んだ。あぁ、熱さなど、痛みなど、欠片も感じない。俺は幸せに包まれて死ねる、奇跡のドブネズミなんだ。
君を想うと、目の前がさらに滲んだ。あぁ、君の笑みが、輝いている。揺らいでいる。幻想的で、何よりも、水面に映る月よりも、濃霧に彩る花畑よりも、何よりも、美しい。
俺は、馬鹿で臆病な、ドブネズミだった。あぁ、死ぬのか。結局ずっと、君に言えなかった。口にするつもりなど、無かった。あぁ、死ぬのか。俺は、俺は。君の事が、好きだった。愛していた。
まるで馬鹿な、ドブネズミだ。
それでも俺は、ずっと君が好きだった。
まるで臆病な、ドブネズミだ。
それでも俺は、ずっと君を愛していた。
まるで滑稽な、ドブネズミだ。
人間に、恋をするなんて。
まるで真っ当な、ドブネズミだ。
君すらも、守れなかった。
まるで現実な、ドブネズミだ。
何度も君を、傷つけた。
まるで不幸な、ドブネズミだ。
涙の一滴すら、拭えない。
それでも俺は、奇跡のドブネズミだ。
最後に君を、救えるんだ。
あぁ、もう、死ぬのか。大好きだ。愛してる。結局、口に出せなかった。最後の最後まで、臆病者の、ドブネズミだ。あぁ、幸せに、誰よりも、幸せに、なってくれ。俺の願いは、出会った頃から、それだけだ。もう、何も見えない。何も聞こえない。暗闇だけが、揺らいでいる。あぁ、死ぬのか。もう、君に会えないのか。大好きだ。愛してる。あぁ、格好悪いな。
最後に……もう一度だけ……君の…………………――
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