私がただのお姫様なら、あなたは大国の王子様ね



 休憩を挟みながらも疲労困憊ひろうこんぱいで森の入り口に戻ってきた俺は、出産中の家畜や求愛を叫び続けるモテない雄鳥の様になってしまった呼吸を、ゆっくりと落ち着かせた。自虐を込めた笑い声は、切れ味の悪いのこぎりの様な音を立てる。そんな俺に励ましでも掛けているのか、森からは涼しげな風が吹いた。

 何とか息を整えて、腰を上げる。ボロ小屋まで続く森の道は、いつも以上に遠く見えた。ただすでにドブネズミを見下す蝙蝠こうもりも、共に肩を組み蔑むフクロウも、晴れた空と涼しげな風に、姿を消してくれた様だ。


 三本足でも難なく歩ける平坦な道を、俺はボロ小屋に向かって歩き始めた。笑ってしまうほどの困憊こんぱいは清々しい疲労感に変わり、いつもは億劫に感じる生い茂った草木達は、その隙間を通り抜ける風に揺すられ、まるで目的を達成したドブネズミに控えめな拍手を奏でている様に見えた。 

 まぁそう感じたのは、当たり前に気分が良いからだろう。俺は独り笑い、せり上がる様に姿を現す自慢の前歯を周囲に見せつける。端から見れば、まさしくドブネズミから見たとしても、気色悪いはずだ。それは肛門を嗅ぎ合う下品な犬猫の様に、重なり合って飛び跳ねる交尾中のバッタの様に、独り笑うドブネズミなど気色の悪い何者でもない。分かっちゃいるが、胸の内から溢れる晴れやかな希望が、俺の前歯を全面に押し出していく。

 疲れ果てボロ小屋に帰宅した少女は、食卓に置かれたこの青い石ころをみて、どんな顔をするのだろう? なんて言葉を口にするのだろう? 驚きすぎて、涙を流す可能性もある。

 

 ねぇピーター、これはどうしたの? 少女はまず、そんな事を訊いてくるはずだ。

 あぁ、これかい? これはいつも頑張っている君へ、俺からのプレゼントさ。おそらく俺は、気取った返事をするのだろう。

 そんな……こんなモノ、貰えないわ。少女は困った顔をして、そう言うに決まっている。

 良いんだよ、貰ってくれる事が俺の為でもあるんだ。なんて台詞を口にして、背中でも見せつけてみようか。

 とても嬉しいわ、ピーター。あぁ、あなたが人間だったなら。駄目だな。そんな事は言わない。まぁ、想像するのは自由な訳だから。

 そんなに大層なモノじゃ無い。君がもっと欲しければ、明日から毎日でも届けてやるさ。まるで姪っ子の誕生を祝う叔父の様にね。こんな台詞はどうだろう? 少女に意味は伝わるだろうか?

 でもピーター、これはどこから持ってきたの? あぁ確かに、少女は気にするかもしれない。

 君が気にする必要はないと言いたい所だが、気になるだろう。なんて事は無い。下水に住んでいればよくある話だ。まるで煙突から忍び込む目立ちたがり屋のように、どこかの偽善者が排水溝にドブネズミへの無意味な贈り物でも流しているんだろう。つまりはそういう事さ。俺は微かな真実を織り交ぜた紳士的な虚言を吐いて、少女の疑問をさらりと流す。

 目立ちたがり屋の偽善者って、サンタクロースのこと? 少女は首を傾げる。確かに、俺の話し方はいつも廻りくどい。

 

 あぁ、サンタクロースの事だ。気になるような言い方をしてすまない。そんな事よりも、君は今すぐにでもその石ころを富に変えてくると良い。

 どうしてサンタさんを偽善者だなんて言うの? 

 今すぐ答えなくてはいけない事じゃ無いが、訊かれたなら答えるさ。そんなのは当たり前だ。そのサンタクロースとやらは裕福な家にしか現れない。事実君の前には現れた事が無いだろ? それが偽善者と呼ばれずに、いったい何が偽善者なのかと俺は思うがね。

 きっと忙しいのよ。

 忙しいからって年に一度の仕事をサボるのか? まるで金持ちが道楽で始めたパン屋だな。

 意味が分からないわ? 今はサンタさんの話をしているんでしょ? どうして急にパン屋さんの話を始めたの?

 悪かったさ。俺はただやると決めたなら、やりきるべきだと言っているだけだ。わざわざ裕福な家だけを選ぶのだって、何かしらの見返りを求めているのだろうさ。そのサンタクロースとやらは。

 どうしてそういう事を言うの? サンタさんは絶対に優しくて誠実で穏和な人よ。この家に来なかったのだって、ちゃんとした理由があるはずだわ。


 あぁ、言葉が通じ合えば、言い争いすら楽しそうだ。

 俺はボロ小屋に到着して、食卓の上に青い石ころを置いた後も、その幸せな幻想に身を委ねた。

 

 君がそう思うなら、それで良いさ。別に俺はサンタクロースをさげすむつもりはないんだ。エラ呼吸を欲しがる鳥のれ言だと思って聞き流してくれ。

 どうして急に鳥の話を始めたの?

 価値観が違うと言ってるんだ。俺はドブネズミだし、君は人間だ。そうだろ、生まれた環境も育った場所も違うわけだから。

 じゃあそういえば良いじゃない。普通に話せないの?

 君はまるでお腹が空いたならお菓子を食えと貧民に言い放つお姫様の様だ。

 それは私を誉めてるの? それとも悪口を言っているの?

 誉めてるに決まってるだろ。お姫様だと言ってるんだから。 

 まるで誉められた気がしないわ。貧しい人たちにお菓子を食べろだなんて、それを買うお金がないから貧しいんだもの。ヒドいお姫様だわ。まったく。考えただけでその国の人たちに同情しちゃう。私はそんなお姫様、あまり好きになれないわ。ねぇ、ちょっと待ってピーター。いったい私たちは何の話をしているの?

 そうだな、俺と君が革命を企てる円卓の騎士で無い事は確かだ。

 ねぇピーター。あなたの言葉はまるで三千ピースのパズルね。頭の中でバラバラになっちゃう。

 きゅ、急にどうしたんだ?

 あなたの口調を真似てみたの。どうかしら?

 最高に知的で可愛らしい。まるでただのお姫様だな。

 私がただのお姫様なら、あなたは大国の王子様ね。だってこんな素敵な贈り物をくれたんですもの。ありがとう、ピーター王子。


 そういって、少女は俺の頬にキスをするんだ。あぁ、なんて楽しいんだろう。収まることの無い誇大妄想が、永遠にさらし続ける事を決定したとでも言いたげに、まるで引き抜かんと言わんばかりに、俺の前歯を押し出していく。でも構わないさ。今はボロ小屋の中で独りな訳だから。存分に楽しんでやる。


 俺は頭の中で言葉の通じ合う少女と終わることの無い会話に勤しんだ。ただその妄想に浸りすぎたようで、我に返ると夕焼けは瞬きよりも早く過ぎ去っていて、ボロ小屋の中は暗闇が支配していた。

 やってしまったという後悔に、俺はすぐさま窓際に近寄り空を眺める。星の位置を確かめて、胸をなで下ろした。少女が帰宅するには、まだまだ時間はありそうだ。

 異性に贈り物をするというのに、身の回りを小綺麗にもせずに迎えるなんて、威勢だけの若ネズミがやることだ。俺は違う。歳を取ったとか、老ネズミの頬袋って事でも無い。モテる雄ってのは、細かい気配りが出来るんだ。さぁ、まずは掃除をする時間さえ奪われた少女の代わりに、この食卓がある部屋だけでも、綺麗にしよう。


 俺は楽しげな妄想のおかげで疲労の抜けた三本足を引っ張って、台所に置かれていた布切れを口に挟んだ。それを食卓の上に持って行き、少女を真似て埃をぬぐい取っていく。

 何十往復もした頃には、食卓の上はある程度綺麗になっていた。それにしても、とまた独り笑う。ドブネズミの歩き回る食卓なんて、それこそ汚いんじゃないか? そんな自虐すらも、笑える高揚感に、俺は浸っていた。  


 使用済みの布切れを台所に戻し、今度は若干大きめの布切れを、口に挟んで降りるには骨が折れそうな気がして、床に放り投げた。別に汚くはない。その布切れは、床の清掃に使う訳だから。

 俺はその大きめの布切れを使い、重石おもしを繋げられたカタツムリの様な動きで、床の汚れを、若干諦めながら、拭き取っていった。  

 全く手応えの無い床清掃を終えて、今度はその粗い隙間に挟まっていた小石や、堂々とふんぞり返っている虫の死骸を、外に放り出していく。そしてなんとかとりあえず、予定していた清掃を全て終えて俺は、食卓の上に腰を落ち着けた。


 もし理想を言えるなら、ここに全身が綺麗に残る魚の骨や、毒蛇の抜け殻でも並べたい所だが、ドブネズミでは無い少女が、目を輝かすかは疑わしい。少女を喜ばすには、やはり卑しい丸みを帯びたグラスに注がれるワインと、鼻がひん曲がりそうな臭いを発する悪趣味な形をしたキャンドルだろう。分かった所で、俺に用意できる訳は無いが。

 せめてこれぐらいは、と俺は青い石ころの位置を何度も変えながら、少女の帰宅を待った。迷いながらも最終的な位置を決めて、元婆さんの部屋にある、森の入り口が見えるいつもの窓際へ向かった。

 腰を落ち着けて、空を眺める。透き通った夜に浮かぶ満天の星が、少女の帰りを待ちわびているかの様に瞬いていた。もうすぐ帰ってくるよ、と一際輝く大きな星が、俺に呟いている。


 深呼吸を繰り返し、気合いを入れて、緊張を解きほぐす。分かってる。当たり前に、あの誇大妄想が現実に起こるなんて事はあり得ない。おそらく目を見開いて驚いた少女に、俺はチューチューと鳴くだけだ。ただ、それで良い。この辛い日常から、悪夢を見る悪夢の様な、大切な記憶から真っ先に消えていく病気を患った様な、辛辣で陰険な婆さんの介護を続けながら最低な母親に殴られ続けるような、そんな辛い日常から僅かでも救われてくれれば、俺が未だに、ただのドブネズミである俺が未だに、人間である少女と共に生活する意味を、見いだすことが出来る。


 ずっと眺めていた森の入り口に、不意に揺れる人影が現れた。心構えも、準備も万端なはずだったが、細く短い手足は緊張で震え出し、それに比例して、俺の前歯は過度の期待で身を乗り出してくる。森に現れた人影は、当たり前に少女だった。俺は急いで、窓際から離れて元婆さんの部屋を出た。

 ゆっくりと、食卓に駆け上る。どうにか緊張を落ち着かせながら、気色の悪い前歯を狭い上唇で覆い隠す。油断すると、すぐに飛び出てきそうだ。


 少女の疲れ切った足音が、ドアの前で止まった。あの日からは、いつもこうだ。まるで容赦なく続く悪意に満ちた日々は、黒馬こくばまたがる山賊に身も心も蹂躙される様な日々は、翼もクチバシも水掻きさえも奪われたアヒルの様な日々は、このボロ小屋が作り出しているのだと疑惑を抱いている様に、少女はドアの前で足を止める。昨日まではこのたった数秒で一生分程に胸を締め付けられていたが、今日は違う。少女にとってこのボロ小屋は、毎日富に換わる石ころを生み出すドブネズミが住んでいる、まるで奇跡の様な家に生まれ変わる。俺は期待にはやる体を押さえつけて、ドアが開くのを待った。


 俺の期待に応えるように、ドアはゆっくりと開いていく。少女はこのドアを、不幸が飛び出すびっくり箱の蓋とでも思っているのかもしれない。そんな気配を纏いながら、暗がりでも分かるほどの疲労に打ちのめされた少女が、億劫に入ってきた。

「チューチュー(お帰り。今日はどんな事があったんだい?」

 いつも通りの俺の言葉に、いつも通り少女は返事をしない。いますぐ眠ってしまいそうな、眠り続けている様な目をしたまま、操られたようにランプの火を点けて、食卓の椅子に身を預けた。


 俺は疲れ果てた少女を眺める。いつもはこのまま少女が眠りに付くのを待って、目を覚ますのを待つ。ただ希望の無い日常が過ぎ去るのを、待つだけだった。ただ今日は違う。俺の予想通り、食卓の上に置かれた青い石ころは、定位置に置かれたランプの明かりに背中を押され、まるで暗闇を照らす希望の様な輝きを放っていた。俺の前歯がそり上がる。分かってるさ。あれはただの誇大妄想だ。言葉が通じ合うなど、起こりえない。

 上下左右と泳いだ少女の視線が食卓に堕ちていき、すぐにその石を捉えた。つかぬ間の険しさの後に、その目は眠りから覚めた。

「チュチュ、チューチュー(おお、驚いたかい?)」

 俺の声はおそらく、町中で鳴り響く楽隊の音楽に服を脱ぎ出す酔っぱらい程に、ご陽気だったに違いない。石ころを見つめる少女の目が、押さえようもない潤いに覆われていく。


 俺がその光景に喜ぶ間もなく、全ての期待は強い不安に反転した。すでに大粒の涙を流し始めた少女の顔には、童話の世界に浸る幸せな空想など欠片も無く、暗い現実と現実の狭間に掘られた深い谷に、落とされた様な悲しみが漂っていた。

「チューチュー(それは、いつも頑張っている君へ、俺からのプレゼントさ)」

 おそらく、その声は震えていただろう。もし少女が奈落へ落ちたと感じているのなら、その背中を押したのは俺になってしまう。そんな馬鹿な話ある訳ない。あっていけないんだ。

「なによ……これ」

 少女は泣きながら指輪をつまみ上げ、睨みつけた。

「チューチュー(俺が、下水から拾ってきたんだ。遠慮なく、使ってくれ)」

「ふざけてるわ…………なによこれっ」

 少女は叫ぶと同時に立ち上がり、全てから逃げ去るように、全てを捨て去るように、ドアを乱暴に開け放ち部屋を出ていった。俺の心臓が、息も出来ないほどに速まる。

「チューチュー(違うんだっ、待ってくれっ)」

 俺は食卓を駆け下りた。庇うことを忘れた左後ろ足から伝う激痛が、全身を巡り脳に衝撃を加える。ただ、それよりも大事な事が、目の前から消え去ろうとしていた。

「チューチュー(行っちゃいけないっ。駄目だっ。頼むからっ)」

 少女に伝えたいのか、それともこの世の全てに懇願を捧げたのか、俺にも分からなかった。ただ俺には、声を上げる事しか出来ない。

 脳に響く激痛は、俺の五感を奪っていく。駄目だ。そんなこと、あっては駄目なんだ。なぁ、頼むよ。すまない。いくらでも、謝るから。

「チューチュー(待ってくれっ。俺なんだ。全部。もう目の前から消えるから。頼むから。戻ってきてくれっ)」

 未だ絶望の余韻を残すドアを避けて俺が外に出ると、少女はすでに森の入り口間際まで近づいていた。分かってる。もうこの距離じゃ、俺の小さな声は届かない。距離なんて関係ないのかもしれない。ドブネズミの声など、ずっと昔から、少女には届いてなかったのかもしれない。

「チューチュー(待ってくれっ、頼むからっ。俺は……どうしたらいいんだ)」

 少女の陰が森の中へ消えていく。それでも俺は、後を追った。激痛は、聴力を奪い去っていた。自分の叫び声さえ、聞こえなかった。役立たずの老いた体は呼吸の仕方を忘れ、手足に重みを加えていく。

 たどり着いた森の入り口からいくら目を凝らしても、どれほどの願いを叫んでも、すでに少女の陰すらも、姿を消していた。微かに残された五感が、もう諦めろ、と俺を地べたに押さえつける。


 揺れて霞む薄暗い視界には、悲しげな笑みを浮かべた少女の顔が現れた。聴力を失った耳には、悲痛を叫ぶ泣き声が響いた。体中を激痛が走り回っている。これは、悪夢だ。俺はただ、悪夢を見ている。そう、思いたかった。 


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