俺の心臓はノミ程に小さくなったのかもしれない
自慢話に微かな羨望と多大な疑惑を抱かれた俺は、満足して広場の見渡せる通路に戻った。嘘だと思うなら行ってみろと拍車をかけたが、誰も飛び出さなかった所をみると、やはりドブネズミっては臆病なんだろう。
顔なじみの疑う目線を思い出しながらしばらく待っていたが、いつもの時間になっても少女は出てこない。少女どころか、いつもは真っ先に飛び出してくる寒さに喧嘩を売っているとしか思えない薄着の子供達も、誰一人出てこなかった。
少し心配にはなったが、テント内に乗り込む訳にはいかない。それこそ最後の勉強会を台無しにしてしまう恐れがある。俺は元ドブネズミだが、気は利く方だ。
俺の心労が高まりきる前に、まるで災害を察知して下水道から大量に出てくるドブネズミの様に、テントから薄着の子供達が飛び出してきた。その後に続いて、ツルペッタンコな胸にリボン付きの袋を抱えた少女が、丸眼鏡と並んで現れた。別れの感傷に浸っていたのか涙を拭う仕草を見せたが、何とか笑みを保ちながら、家路に向かう子供達一人一人に挨拶をしている。
最後の子供が広場から姿を消して、少女と丸眼鏡はテントの前で二人きりになった。最後のチャンスだ、と俺は目を見張る。丸眼鏡と少女は何やら話した後、揃って歩き出した。
まさか、と少女を知る者なら誰もが思うだろう。奇跡が起こったのかと。俺は見張った目を戻すことも出来ずに、二人を見失うまいと屋根伝いに後を追った。小さな体は俺の思いとは裏腹にすぐさま熱を解き放っていく。あまりの寒さに貧相な尻尾が大刻みに震えだし、その見窄らしさを際だたせている。
体は凍えながらも、胸の内は熱を帯びていた。頼む、と何かに祈った。少女に奇跡が起これば、俺はただのドブネズミに戻るだけ。物語の終わりとすれば呆気ないかもしれないが、俺と少女の物語だとすれば、最高のエンディングだ。
丸眼鏡の先導で、二人は通り沿いの宿場に入っていった。若干不安そうな表情をしていた少女に俺の心情も同調したが、初めてってのはそんなモノだ、と遠くから伝える。
扉の奥に消える少女の背中を見送って、俺はこの宿場を選んだ丸眼鏡に感心する。ここは博打に勝った酒飲みが女を連れ込む様な宿場じゃない。旅人や家を追い出された旦那が泊まる様な宿場だ。格式が高い訳じゃないが、町人に避けられるほど低くはない。初体験の不安を取り除くには、最高じゃないか。そりゃあ鯛の尾を当たり前のように捨て去る七階建ての宿場を用意してくれるなら言うことはないが、そんな所じゃ逆に少女が気後れする恐れがある。
もう少しだけ様子を見ようと、俺はシーツが干されている宿場の屋上に移動して室内に入る術を探る。そこには階下に繋がるであろうドアがあった。ドアは閉まっていたが、すぐそばに狭く開かれた小さな出窓が付いている。俺はすぐさま、そこから身を潜り込ませた。
屋上と三階を繋ぐ階段に人間の気配は無い。階段の中腹に空いたまるで俺の為に用意された様な壁の穴から、埃が支配する屋根裏に入った。そこから小動物の為に用意されているとしか思えない通路を、道に迷いながらも走り抜け、どうにかこうにか少女が見下ろせる一階の天井に到着した。
二人の行為を最後まで見届けるつもりはないが、万が一、億が一、丸眼鏡が異常性癖を持った殺人鬼ではないと言い切れない。そういうヤツはだいたい外面が良いらしいしな。丸眼鏡が少女を優しく抱きしめたら、お節介な元ドブネズミは姿を消してやる。
二人は受付の横に備え付けの椅子に座っていた。少女は不安そうな表情で、丸眼鏡は優しそうな眼差しを携えて、何やら話している。ここまでは申し分ない。申し分ないどころか、最高だ。ただ丸眼鏡よ、部屋へ入るなり少女の両手両足を縛り付けナイフでも取り出してみろ。勇敢な元ドブネズミがナイフより尖った鋭い前歯をその首筋にお見舞いしてくれる。
いらぬ心労ばかりを重ねていると、受付の奥から若干肥えた中年男が姿を現し、椅子に座る二人に近づいていく。その中年男に気づいた丸眼鏡が素早く立ち上がり、それに合わせて少女も立ち上がった。二人は同時に頭を下げる。
肥えた中年男は細い目元に皺を加えて、穏やかに笑っている。丸眼鏡が何やら、少女を紹介している様だ。少女は戸惑いを見せながらも、小刻みに頭を頷かせている。
今から何が起ころうとしているのか、俺は考えた。丸眼鏡は少女に何をさせようとしてるのか、あの中年男は誰なのか。二人で愛を確かめ合うなら、それが禁断であろうと無かろうと、第三者を入れる必要は無いはずだ。少女の不安そうな表情が、俺の頭を過ぎった。
俺は元ドブネズミで、人間の職業に差別は無い。当たり前だ。俺は人間では無いから。だからもし丸眼鏡が仲介人で、少女が肥えた中年男に身売りをするのだとしても、それを少女が受け入れたのならば、俺の出る幕は無い。もう十四だ。そういう判断が出来ない年頃ではないだろう。体を売って金を稼ぐのも、立派な職業だと思っている。
ただ俺の元々早い鼓動がさらに早まる。捉えようのないの不安と、何故か沸き上がる丸眼鏡への苛立ちが、全身を覆っていく。少女の選んだ仕事だ、と躍起立ちそうな体に言い聞かせた。
意味もなく狼狽えている俺を余所に、少女と丸眼鏡は肥えた中年男に深々と頭を下げて、宿場を出ていった。その背中を見送る肥えた中年男の卑しい笑みに、全身の毛が逆立った。
今日はただ顔を見せに来ただけなのか、土壇場で少女が怖じ気付いたのか、それとも身売りすら許されなかったのは分からないが、最低な気分だろうと思った。惚れた男に抱かれもせず、それどころか身売りを勧められたんだ。都合の良い口車に乗せられたのかもしれない。家庭的に難のある少女がその生活から抜け出すには確かに手っ取り早い。そんな事を言われたのかもしれない。
俺は血気な足取りを落ち着かせながら、宿場の屋根に戻って通りに出ていった少女を探した。丸眼鏡の男と並んで、広場に続く道を歩いている。どうすることも出来ない自分に苛立ちを感じながらも、やはり苛立った所でどうすることも出来ないと理解している冷静な俺が、体の熱と共に全身の力を抜いていく。凍えそうな寒さと、重厚な倦怠感に襲われる。ただ俺は、平凡な生活を送って欲しかった。そんな想いが、頭を過ぎる。
色味の濃い豆のスープで良い。贅沢は川魚の煮付けで良い。口笛の下手くそな少年が住み着いてはいない質素な家で、愛する者に愛されて、家族並んで食卓を囲めるような、そんな生活で良いと思っていた。
山頂に建てられたお城で、相手の表情も見えないほど広い食卓で、高級なドレスを身に纏って、最高級の牛肉をフォークとナイフを使って、粛々と食事するような、そんな奇跡はいらない。ただ平凡な、そんな日々を見つけて欲しかった。願った所で、俺はただの元ドブネズミだ。どうすることも出来ない。
少女と丸眼鏡はテントの前で立ち止まり、何やら話している。丸眼鏡が少女の頭を撫でると、少女は顔を真っ赤にしていた。俺の小さな心臓が、さらに小さくなった気がした。
少女は今生の別れでも伝えるかのように、本当に深々と頭を下げた。丸眼鏡はそれを片手で軽くあしらって、テントの中に戻っていった。顔を上げた少女が目元を拭ったのを見て、俺の心臓はノミ程に小さくなったのかもしれない。
少女はテントに背を向けてゆっくりと歩き出した。その寂しそうな、傷ついたような足取りに合わせて、俺も森の入り口に向かう。
体は冷え切っていたが、あまり寒いとは感じなかった。そんなことよりも、落ち込んだ少女をどうやって慰めようか、どうやって楽しませようか、この小さな体で、言葉も伝えられずに、そんな事ばかりを考えていた。
貧相な尻尾を口の中に詰め込んで、頬を膨らませるか。それとも尻尾を噛んだままグルグルと走り廻ろうか。壁を上る途中に足を滑らした振りをして、床に頭を打ってみようか。色々考えたが、惚れた相手に身売りを勧められた少女が微笑んでくれるとは思えなかった。
少女は気の良い店主がやっている魚屋で小魚を三つ買って、魔女通りに入っていった。俺は急いで屋根を駆けて、森の入り口に降りる。すぐに少女が姿を現して、健気に片腕を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます