第三幕
馬にアヤトリを教えるほど
少女にとっての平凡とはなんだろう、と近頃何度も考えてしまう俺は、すでに無茶をした過去を笑えるような年頃になったのかもしれない。
少女が宿場の仕事を始めてから、一年以上が過ぎた。俺と少女の付き合いも、約三年になる。赤子だったドブネズミが特定の住処に腰を据える程の時間を、共に過ごしている。
「行ってくるわ、ピーター」
「チューチュー(あぁ、行ってらっしゃい)」
俺はいつものように、食卓の上から少女の背中を見送った。高級ではないが、
この一年で、俺と少女の生活は少しずつ変わっていった。仕事を始めた少女は、俺の望んだ、平凡な生活を送っている様に見えた。食卓に肉が並ぶ日もあるし、食後に菓子パンを並んで食べる日もある。ただ少女は仕事で朝が慌ただしくなってしまったから、朝食は俺だけで食べるし、頬に豆を詰め込むことはなくなった。
ドアが閉まってから、俺はゆっくりと食卓を降りる。以前の様に駆け下りたいのは山々だが、一年前に体を叩きつけられて以来、左後ろ足が人懐っこい番犬の様に役立たずとなってしまった。この体にも慣れてはきたが、やはり思い通りに動かないというのはモドカシく感じる。
そんな体になってはしまったが、俺は今も少女の護衛を続けている。ただ左後ろ足が返しの無い釣り針の様になっているから、以前の様に見守る事は出来ない。雨や雪、風の強い日なんかはボロ小屋から出ることはないし、外へ出たとしても、森を抜けるだけで倍以上の時間が掛かってしまう。もし以前の様に護衛を続けようとしても、ただ少女に迷惑を掛けるだけだ。だからその背中を見送って、俺はゆっくりと宿場へ向かう。
この平凡な生活に不満があるとすれば、一つだけだ。少女は未だに、自身を産んだだけの醜い生物と、膿んだ傷口から伸びる粘り気のような細い糸を、繋いでいる。
宿場から毎週貰える金を少しずつ貯めて、その金を二ヶ月に一度あの生物へ渡しに行く。ただ少女は、あの生物に会えるのを楽しみにしているし、会えた事を楽しげに話してくれるから、それならそれで良いと思っている。当たり前に無駄な事だ。馬にアヤトリを教えるほど、カタツムリに太陽の素晴らしさを唱えるほど、無駄な事だとは思っている。
それでも、平凡には変わりない。少女の笑顔は増えたような気がするし、空腹や寒さに震えることも、寂しさや孤独に泣くことも、無くなった訳だから。
宿場の人間達とも、少女は上手くやっている。それに友人も出来た。宿場で共に働く二歳年上の、少女と似たような顔つきの、胸は大きな女だ。
その胸が大きな女は、たまにこのボロ小屋を訪れる事もある。繊細で内気な少女の友人にしてはガサツな気もするが、気は良さそうだ。
あの八百屋の人参が甘くて新鮮だとか、あのパン屋の店主は子供が産まれたばかりなのに浮気をしているだとか、取り留めのない話しばかりをして、二人で笑う。俺がそれに加わることは無いが、少女が笑ってくれるなら、その寂しさを紛らわせてくれるなら、胸が大きな女の役目としては十分すぎると思っている。
それにもう一つ、少女の平凡を堅固なモノにしてくれそうな出来事がある。一ヶ月程前から宿場に長期宿泊をしている、自称賭事に強い、働いてはいなさそうな若者だ。目が大きく鼻筋が通っていて背が高い清潔感の漂う男、と言いたい所だが、外見は全て逆だ。それでも、平凡ってのはそんなものだと思ってる。
その若者が少女と親しげに話している所を、最近何度か見かけている。綺麗な髪だとか、話し方が好きだとか、スタイルが良いだとか、前歯が丸まってしまいそうな(歯の浮ついた)言葉を並べる。顔の事を褒め称える事はないが、それが逆に本音の様な気もしている。
少女は照れながらも、満更でも無い。夕食時にその若者が話題に上る回数も増えている。もしかして相思相愛かと思ってしまうのは、俺がドブネズミばか(親ばか)だからなのかは分からないが、もしそうならば、これほど嬉しい事はない様に思う。俺が元、元ドブネズミに戻る日も、そう遠くはないのかもしれない。
体の不自由な元ドブネズミよりは、働いていなくとも愛してくれる男の方が、少女には必要だし、そうなれば、当たり前に俺は必要ない。そんなことぐらい、少女に出会った時から知っている。今更寂しくも感じない。
そんな平凡な日々を、俺は長らく見守っている。少女が二ヶ月に一度金を渡すあの生物だけが気懸かりだが、あの日を最後にこのボロ小屋へ訪れる事はないし、平穏を乱すような物語は起こっていない。もしかすれば、少女の平凡はあの母親を含んだモノかもしれない、と最近考えるようになっている。
ただ、この穏やかに続く静かな日々に、俺はまた、嫌な予感がしていた。もう止せば良いのに、久しぶりに左後ろ足が痛んだ所為もあって、嫌な予感が頭を過ぎった。俺の小さな心臓が、一度だけ大きく胸を叩いた、それっぽっちの予感だ。当たるはずは無い。そう言い聞かせて、俺は今日も少女の護衛をするために、片足を引きずって森に向かう。
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