靴が汚いと友人に笑われる子持ち旦那


 俺は玄関の踊り場で少女を待ちながら、体を内側から暖めようと走り回る。それはまるで人間になろうと努力するドブネズミや、不正を無くそうと大声で演説する町長立候補者の様に、いかに無駄な行動を取っているのかを悟りそうになった所で、ドアが開き少女が出てきた。俺と目を合わせて、大きな顔に付いた小さな口元をニヤケさせる。


「やっぱり町へ出かけるのね。良いわ、我が儘なネズミさんを町まで連れて行って上げる」

 少女は冷え切った両手で俺を包み込んで、布の解れまくった肩掛け鞄の中に入れた。雨や雪の日、俺は鞄の中から少女を護衛する。別にサボっている訳じゃない。それに俺は自ら鞄の中に入ろうと思ってる訳じゃない。元々雌の頼みは断れない質なだけだ。

 それにしても鞄の中は暖かい。この家にある唯一の暖房器具、鉄缶に熱湯を注いだだけのそれが入っているからだ。それだけだがあながち侮れない。口笛の下手くそな少年が住み着く家の中では、その暖房能力を遺憾なく発揮する。 


 俺は暖かな鞄から顔だけを出して、少女の歩く道筋に目を向ける。楽をしてる様に見えるかもしれないが、大蛇でも月熊でも白虎でも、何が出てきても迎え撃つ心構えは出来ている。少女に危険が及べば、すぐにでもこの楽園から飛び出してやるさ。


「今日で終わっちゃうわ、ピーター。もうグリーンハンデ先生や皆と一緒にお勉強が出来なくなっちゃう」

 少女の寂しさは、落ち込んだ口調と足取りに現れている。いいさ、気落ちした少女を慰めるぐらいお手の物だ。

「チューチュー(大丈夫だ。君にだっていつか運命の人が現れる。町にいる肥えたご婦人共を見れば、自信も付くはずさ)」 

「そうねピーター。分かってるわ。それは、分かってるの。グリーンハンデ先生には奥さんだっているし、私はただの生徒よ。歳だってたくさん離れているんだもの」

「チューチュー(歳は関係ない、と言いたい所だがな、あの手の男は止めておいた方が良い。どんな世界にも世の中には二種類の雄しかいない。浮気するヤツと、浮気しないヤツだ。丸眼鏡のグリーンハンデが前者なら万が一の可能性も捨てきれないが、残念ながら彼は後者だ。とことん希有な男だと思うよ)」 

「そんな事言っても私には無理よ、ピーター。それに気持ちを伝えるつもりはないの。ただね、もう今日から会えなくなるんだと思うと、寂しいだけ」

「チューチュー(賢明な判断だと思うよ。落ち込んだ君を見るのは辛いからね)」

「私がもし綺麗だったら」


 少女は言葉を途中で区切り、笑みを浮かべた。少女が途中で話すのを止めた言葉に何かを返すほど、俺は無粋じゃない。

 いつかは現れるさ。それは鼻の高い王子様じゃないかもしれないし、丸眼鏡と鼻髭が似合う浮気をしない希有な男じゃないかもしれない。もしかしたら酒飲みで、浪費癖があるのに働かない男かもしれないし、不潔で風呂に入らない男かもしれない。腹の肉が邪魔で屈むことの出来ない男の可能性もある。でもいつか現れるさ。君を、君だけを愛してくれる男が。


 恋を胸に留めると決めた少女は、枯れ枝を踏みしめる音だけを奏でながら、森の終わりまで口を開かなかった。雪で微かに濡れた金髪が、その心情を物語っているようだった。

 森の終わり、町の入り口で俺は鞄から這い出る。少女は優しいから、俺に鞄から出てほしいなんていう言葉は口にしない。おそらく俺が自ら出ていかなければ、何も言わずに勉強会までも連れて行くだろう。元ドブネズミすら、優しさの対象に含んでいる。


「雪に気をつけてね。ピーター」

 俺が地面に飛び降りたのを確認してから、少女は久し振りに口を開いた。

「チューチュー(最後の勉強会だ。悔いだけは残すな)」

「それじゃあ」

「チューチュー(あぁ、また帰るときに)」


 俺の言葉を知ってか知らずか、少女は気持ちを切り替えるように大手を振って、意気揚々と魔女通りに入っていった。その背中を見届けてから、いつも通りのコースに走る。

 屋根伝いを駆けながら少女を見守る。灰色の町並みは少女の寂しさを紛らわせそうもなかったが、あの薄暗いボロ小屋の中よりは、幾分も元気そうに見えた。


 俺は少女の護衛を続けながら、町中にある裕福な住宅の煙突周辺や大衆浴場の熱湯を流し込むパイプの側で暖を取る。その道中でやせ細った野良猫に出会ったが、気怠そうな視線を俺に向けただけで、襲ってくる事は無かった。

 この楽園は皆のモノだという博愛主義を持った特異な猫だったのか、全てを投げ出してしまいそうになる寒中の暖気に持ち前の冷徹な好奇心すら解かされてしまったのかは、俺にも分からなかったが、猫と並んで暖を取ったなんて、顔なじみのドブネズミに語れる自慢話にはなりそうだ。


 少女はいつも通り花屋へ寄った。いつもと違ったのは、一番安い花では無く、高価なピンクローズを買ったことだ。何よりも先に今月の食費を心配してしまった俺は、店先でドブネズミの食料になりそうな色味の悪い価格の下がった豚肉を悩んだ末に買ってしまうご婦人の様に、酒場で靴が汚いと友人に笑われる子持ち旦那の様に、大分家庭的になったのかもしれない。


 ピンクローズを買った少女ははしゃぐように広場に向かう。その姿のまま帰ってきて欲しいが、それは負け戦に赴く兵士の無事を祈る様な、流氷地帯を航行する豪華客船の到着を待つような、叶わない願いなのだろう。


 少女の小さくなっていく背中を見届けて、俺はまた移動を再開させた。料理屋の排水溝から流れる熱湯が放つ暖気で体を温めて、再び地上に這い出る。広場を見渡せる建物と建物の隙間、ネズミ一匹分の幅しかない通路に身を隠して、少女の到着を待った。ここは壁の内側が暖炉らしく暖かい上に、ドブネズミの命を軽々しく扱うような動物達に襲われる心配も無い、お気に入りの場所だ。


 しばらく待っていると、少女が通りから姿を現した。浮かれている表情と足取りに、俺は安心と心配を胸の中に共有させる。子の巣立ちを見る普通の親ってのは、こんな気持ちなのかもしれない。

 少女は広場の隅にある簡易テントに向かっていく。この時期テントは寒さを遮る為か薄い板の壁が張り付けられていて、持ち運び式の暖炉でも置いているのか、背の低い煙突が横から出ている。壁がある所為で、少女がテントの中に入ってしまえば、その姿は確認出来なくなる。


 少女はテントの間際で一度足を止めて、再び歩き出した。モドカシくも、俺はそれをただ見守る。出来ることなら、勇気を出した少女が丸眼鏡の男に思いを告げて、丸眼鏡の男がそれを受け入れた上に、少女を生涯に渡り愛し続けてくれればと思っている。そんな事が実現すれば、どれほど素晴らしい奇跡だろう。ただそれはやはり奇跡で、どんなに偶然が集まろうと起こりえない事象って事だ。

 金の卵を毎朝生み出す鶏や、捕まえただけで幸せになれる青い鳥、谷底から宝石を運び出す大鷲の様に、あり得ないからこその奇跡ってヤツだ。そこにもし人間の言葉を解する元ドブネズミを付け加えてくれるなら、少女はこんな仕様もない事に生涯一度の奇跡を使ってしまった事になる。だからこそ、俺は少女の幸せをなんとしても見つけだしたい。


 決意を新たにしていると、少女がテントの入り口で一礼をして、中に入っていった。おそらく顔を赤らめながら、丸眼鏡の男にピンクローズを渡しているだろう。丸眼鏡の男は柔らかな口調で訊くはずだ。いつもと花が違う、ってな。そのピンクローズにどんな意味が有るのかは、元ドブネズミの俺には分からないが、少女はその意味を口に出来ずに、少しだけ落ち込んだまま最後の勉強会に励む。壁で遮られたって、長い付き合いだ。透けてるように情景は浮かぶ。

 まぁいくら情景が浮かぶと言っても、ここから俺に出来ることはない。勉強会が終わるまで、顔なじみに猫と並んで暖を取った自慢でもしにいこうか。


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