初めて、言葉が通じ合えた気がしたんだ。
「あぁ、疲れたわ、ピーター」
どうして、泣いてるんだ?
「凄いのよ。ヤンデ通りはね、陽が上っても酒場が閉まらないの。今日は飲んだわ、ピーター。信じられないぐらい」
何がいけなかったのか、教えてくれないか?
「元気が無いわね、ピーター。いつもみたいにチューチュー鳴かないの?」
君が鳴いて欲しいなら、声が嗄れるまで、失われるまで、鳴いてみせるさ。
「でも今日はそれでいいわ。だって頭の中にね、お婆さんが居るみたいなの。機嫌の悪いお婆さん。バンバンバンバン物を投げつけられているみたい」
それは最低な気分だろうな。じゃあ俺は、一鳴きすら控えるよ。
「ねぇピーター」
あぁ、せめて話を聞くだけなら、君を傷つけずにいられるかもしれない。
「ピーターはずっとお家に居るのよね? 今日、私が働いている間に、誰がお家に来たの?」
誰も来ちゃいないさ。馬鹿なドブネズミしか、居なかった。
「まぁ、良いわ。そうね、もうどうでも良いの」
俺なんだ。君を傷つけたのは。
「私この家を出るわ、ピーター」
本当に、すまなかった。
少女は俺を食卓の上に残したまま、元婆さんの部屋へ向かった。タンスを漁る音が届く。無理矢理絞り出した様な笑い声が、微かに漏れていた。
「最悪なのよ、ピーター。お母さんはね、もう町に居なかったのっ」
吐き叫ぶ様な声が、部屋に響く。笑い声は、
「あの指輪はね、ピーター。もう酒場の人に上げちゃったんだけど、私あの指輪は、お母さんが置いていったんだと思ったの」
時折詰まる笑い声が、その口調を乱していく。
「だから、お母さんに会いに行ったの。でもね、ピーター。お母さんは居なかったわ。探したけど、ドコにも居なかった」
ゲラゲラと、少女は笑った。
「ヤンデ通りの人たちはね、皆言うの。あいつにはお金を貸しているって。娘なら、お前が返せって。私馬鹿みたいに謝ったわ。ごめんなさい、ごめんなさいって」
タンスを漁る音が止んだ。笑い声は震え、すぐさま嗚咽に変わり、ただ深い悲しみだけを、取り残した。
「私わねっ、ピーター、あの指輪で、捨てられたのっ、お母さんに」
嗚咽混じりの叫びが、泣き声に溶かされていく。
「私はただ、お母さんと一緒に、居たかっただけなのに。こんな指輪なんかいらないから、一緒に頑張ろうって、伝えたかっただけなのに。ふざけてるわっ。馬鹿にしてるっ。下らないっ。何がお前の母親になる気は無かったよ。じゃあ生まないでよ。私に頼らないでよっ。私が何をしたのっ。ふざけないでよっ」
元婆さんの部屋から聞こえる叫び声は、体中を震わせる泣き声は、俺が抱いた希望の先に待っていた現実は、明確な、絶望だった。大男に踏みつぶされる直前が永遠と続き、猫に目玉をくり抜かれ、暖炉に投げ込まれる。それでも足りないほどの、絶望だ。命を賭しても守りたいと願った少女を、俺が傷つけたんだ。
花に水をやれば枯れて、馬に翼を与えれば土に潜り、金持ちが落とした金を貧乏人が拾わずに、太陽が雨に濡れ、キノコがイノシシを捕食して、ドブネズミに宝石を贈られた少女は泣き叫ぶ。まるで矛盾が雪崩を起こした様に、奇跡の仮面を被った現実が、俺の全てを、奪い去った。
なぜ奇跡は、俺に人間の言葉を与えた。なぜ人間の声を与えなかった。なぜ少女と出会わせた。なぜ少女を見守らせた。なぜ希望を教えた。なぜ俺は今、少女を傷つけている。なぁ、くそったれ、俺は何をすればいい。何をしなければいい。笑ってないで、答えろよっ。答えてくれ。俺は、どうすればいいんだ。
「また下らない事を思い出したわ。せっかく良い気分だったのに」
少女はまた笑った。泣いている様にしか、聞こえなかった。それでも、健気に笑い声を上げた。タンスを漁る音が、再び届く。
「こんな所に居るからいけないのよ。そう思わない、ピーター」
棚を閉めた音が鳴る。俺は食卓の上で、身動き一つ出来なかった。
よしっ、と声が響き、婆さんの部屋から、少女は出てきた。布の解れまくった肩掛け鞄に、溢れるばかりの衣服を詰め込み、別の手提げ鞄も、膨らんでいる。真っ赤な瞳は疲れ切っていて、矛盾を生み出す小さな口元には、今にも崩れそうな笑みが浮かんでいた。
少女は食卓に近づき、酒筒を手にとって、一気に口元へ流し込んだ。それを口元から離した後、俺と目を合わせてくれた。あぁ、そうか、もう、終わるのか。
「ねぇピーター、私はこの家を出るの」
分かってるさ。俺もその方が良いと思うんだ。
「それでね、ピーター」
君はなんて優しいんだ。
「ピーターは、どうする?」
良いんだ、泣かないで。俺は大丈夫だから。
俺は少女と目を合わせたまま、人間を真似て、首を横に振った。
「チューチュー(いってらっしゃい。幸せを、願ってる)」
少女は、こんな俺の為に、泣いてくれた。声を上げて、泣いてくれた。それだけで、十分だ。本当に、すまなかった。
「じゃあ、行ってきます。ありがとう、ごめんね、ピーター」
初めて、言葉が通じ合った気がしたんだ。それが別れの言葉だとしても、俺には奇跡だと思える程に、嬉しかった。
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