それは災難が降りかかるって事かい?
婆さんが死んでから二日後の朝方、少女は婆さんを庭に、庭と言えるか分からないが、ボロ小屋の前にある空き地に埋めた。
この二日間、少女は食事もろくな睡眠も取らずに、婆さんの遺体に尽くしていた。熱湯に浸した布で体を拭いて、古い洋服ダンスの奥から取り出した埃まみれの婦人服に着替えさせた。泣きながらも丁寧に、愛を込めていた。陰気で憎たらしい婆さんの遺体にこれほど愛を込めれるなら、もし優しい誰かと出会ってしまったら、どれほどの愛を込めるのだろう、と考えてしまう。
少女は婆さんの側を離れずに、感謝の言葉を連ねていた。それがどれほど的外れだとしても、教えてくれる人間は居なかったから、婆さんの死をその痩せこけた体に受け入れるまで、ずっと感謝を口にしていた。いつものように何も返さない婆さんに、俺が苛立ちを覚えるほど。当たり前に、死んでいることは理解しているが。
婆さんが地獄に落とされてから二日経った真夜中、不意に目を覚ました少女は婆さんを見て悲しそうに笑った。その顔を見て、俺は心底安心した。もしかしたらこのまま婆さんの後を追うつもりじゃないかと心配していたからだ。それは火災現場で鎖に繋がれたまま気づかれない犬の様に、蛇に睨まれた母蛙を遠くから見つめる子蛙の様に、ただ絶望しか残らない。そんな不幸に向かうぐらいなら、ドブネズミに生まれたネズ生の方がよっぽどマシだ。俺が思うんだから、間違いは無い。
婆さんの死をなんとか受け入れた少女は、すぐに庭へ出て穴を掘り始めた。真っ暗闇の中、まるで拷問の様な作業を続けた。見守ることしか出来ない不甲斐なさに、身が千切れそうになった。
日が上り始めた頃、少女は穴を掘り終えた。ちゃんと婆さんが横たわれる幅と深さを兼ね備えた穴。そこら辺に捨てれば良いと何度も伝えたが、当たり前に俺の言葉は届かなかった。まぁ届くと分かっていれば口にしないが。
この二日間で少女の体は、元々華奢な外見からまるでドブネズミの貧相な尻尾のように痩せこけていった。つまり少女と生活を共にしている俺はナナフシの前足程に痩せこけた。暗闇の中で並ぶ二つの棒状の何かは、客観的に観察すれば笑えただろう。
だから穴を掘り終えた少女が台所に立って料理を始めた時は、初めて四十代中年男性の足の爪を手に入れた時ほどに、腹の虫が暴れた。少女の足下で年甲斐もなく走り回った。それに少女が笑ってくれたのも、最高に嬉しかった。
少女が作ってくれた、若干傷んだ小魚とキノコ炒めを婆さんの部屋で食べた。それを食べ終えて、少女は婆さんに最後の別れを告げた。
「ずっと一緒に居てくれて、ありがとう」
まぁ最後の挨拶だ。俺が難癖を付けるわけにはいかない。
少女はゆっくりと丁寧に、婆さんを引きずって外に運んだ。夜通し掘った穴に寝かせて、土を被せていく。
「何か足りないね。なんだろう、ピーター?」
婆さんを埋め終えた少女は吹っ切れた様な表情をして訊いてきた。
「チューチュー(もしこれが人間のお墓なら、墓石みたいなモノが必要なんじゃないのか? まぁ俺は必要だとは思わないがね)」
「そうだわピーター。これがお婆さんのお墓だって分かるように目印を建てなきゃ」
少女はすぐさま森に向かってブルーベリーの若木を掘り起こした。それを土の中に埋まった婆さんの頭上辺りに植え込む。ブルーベリーの若木にしたら最低な植木場所かもしれないが、少女の為に耐えてくれ、すまない、と俺は謝罪を伝えた。
「お婆さんが、天国へ行きますように」
少女は墓前に座り込んで祈った。だから俺も少女と並んで祈る。
「チューチュー(地獄で苦しめ、クソババァ)」
正真正銘、最後の挨拶だ。俺の願いが叶うようにと、強く祈る。
「ピーターもお婆さんの為に祈ってくれてるのね、ありがとう」
「チューチュー(死んでくれてありがとうってな。あの婆さんにしては最高のタイミングだ)」
「そうねピーター、お婆さんは空の上から私を見守ってくれるわ」
「チューチュー(それは災難が降りかかるって事かい? 死んでからも迷惑を掛けられちゃ堪らない)」
少女は俺の鳴き声に微笑んで、伸びをするように立ち上がった。その清々しい笑みを見ると、やはり言葉は何一つ伝わってないのだろう。
「お母さんにも伝えなきゃ。ショック受けちゃうかな?」
少女は笑みを心配そうな表情に切り替えた。
「チューチュー(気にしなければ良い。あれは君を産んだだけの女だ。母親呼ばわりする事もない。君は自分の事だけを考えるんだな)」
「そうよねピーター、私にはもうお母さんしか居ないんだもの」
「チュー……チュー(まぁ……好きにすれば良いさ)」
俺がどれほど熱弁を奮った所で、言葉は届かない。もし少女がネズミ語を理解できるなら、嫌われてでも目を覚まさせたいが、そんな奇跡は……もういいか。ただ母親の事を気にし始めた少女に、嫌な予感がした。俺の予感は、結構当たる。例に漏れず、嫌な場合に限りってヤツだ。
俺の心配を余所に、少女は気丈に振る舞っている。婆さんの墓周りを綺麗にして、ボロ小屋に戻った。そして今度は婆さんの部屋を掃除し始めた。今までは婆さんが嫌がっていたから、この部屋だけ存分に汚らしい。愚痴もコボさず、少女は掃除を続けた。時折涙を流しながら。
全て売り払うか捨て去ればいいのに、少女は婆さんの遺品を丁寧に布で拭いては、部屋に飾っていく。憎たらしかった婆さんの汚らしかった部屋は、少女の手である程度の綺麗さを手に入れていた。とはいっても元々ボロ小屋の室内だ。他人が訪れれば眉間に皺を寄せる程度。
少女が陰気だった婆さんの辛気くさかった部屋の掃除を終えた頃、空はすでに夕焼けで染まっていた。少女は整えられたベッドの上に腰掛けて、室内を見渡している。
「綺麗になったわ、ピーター。これでお婆さんもいつでも遊びに来てくれると思うの」
「チューチュー(せっかく綺麗に掃除したんだ、君が使えば良い。今の寒々しい部屋よりは使い勝手が良さそうだ。それに婆さんには申し訳ないが、明日にでも俺が悪魔除けに枇杷の実を軒下にでも埋めておく)」
「それにねピーター。お母さんが帰ってきたら、この部屋を使って貰おうと思ってるの。今まではお母さんの部屋を私が使っちゃってたから、お母さんはどっかに行っちゃってたけど、この部屋があれば一緒に生活出来ると思わない?」
「チューチュー(この部屋を誰かに使わせたいなら、俺が使うさ。君の部屋でタオルにクルマるのも悪くなかったが、この部屋をあのバカ女に使わすのは豚の餌に塩胡椒を振るようなモンだ。止めといた方が良い)」
「私もそうだと思うの。やっぱりお母さんと暮らしたいわ」
「チューチュー(伝わらないのは分かってるが、何度も言うぞ。君は君の道を進むべきだ。寂しいのは分かるが、仕事が始まればそんな事気にならなくなる。切れた糸に手を伸ばすのは止めるんだな)」
「ありがとう。そうね、お母さんもそう思ってくれてると良いわ」
「チューチュー(あのバカ女は、君を産んだだけだ。せっかく仕事も決まったんだ。この家を出るっていう選択もある。もし俺の事すら気に掛けてくれているなら、それこそ迷惑だ。俺の願いは君が平凡な生活を手に入れることだ。その為なら元、元ドブネズミにだってなるつもりさ)」
「さぁ、暗くなってきたわ。ランプの火を点けなきゃ」
ほらな、結局伝わらない。そりゃあそうだ。俺だって魚屋の生け簀に泳ぐ魚達がもし助けを求めているのだとしても、気持ち良く泳いでいる様にしか見えない訳だから。牛や豚だって人間に媚びを売ってるようにしか見えない。だから少女にとっても俺は餌を求めるドブネズミにしか見えてない事だって考えられる。というか、そう思っているだろう。別にその事について寂しいだとか苦しいだとか感じないさ。だって俺は元ドブネズミで、少女は人間だから。当たり前だ。
少女はさすがに疲れた足取りで室内のランプを点けて回り、暗いから薄暗いに格上げされた台所で料理を始めた。全く持って落ち込んでいない俺は、少女の足下付近で料理の完成を待っている。
「もう明日からお仕事が始まるのよ、ピーター。なんだか緊張してきちゃったわ」
「チューチュー(頑張るんだぞ。絶対に今までの生活よりは楽しいはずさ。君は頑張り屋だし優しい。少し不器用な所もあるが、あの優しそうな宿場の主人にも気に入られる)」
そうさ、仕事が始まればあのクソ女の事なんて口にしなくなるはずだ。友人が出来て、少女を見初める男だって現れる。俺が心配する事もない。
「嫌われたりしないかしら。お婆さんやお母さんも私の事を愚図って言うし、自信がないの、ピーター」
「チューチュー(元ドブネズミの俺が宿場の仕事知ってる訳じゃないが、辛辣で陰湿な婆さんの世話よりは楽なはずだ。仕事が始まれば、いかに劣悪な環境で過ごしていたのかを知って、婆さんの墓を掘り起こしてその醜い死体に唾を吐きかけたくなるかもしれない)」
俺の洒落が悪かったのか、少女は溜息を付いた。まぁ、疲れもあるだろうし、婆さんが死んだ事もまだ受け入れきれてはいないだろう。ここで心の底から明るくなれるような人間なら、俺が心配することも無いわけだから。
少女は暗い表情のまま、豆と木の実炒めを大皿に盛って、あまり使っていなかった食卓の上に置いた。少女が椅子に腰掛けると同時に、俺は食卓に駆け上る。
「さぁ明日からはお仕事が始まるわ。落ち込んでばかりじゃ駄目よね。食べましょう、ピーター」
少女は無理矢理に笑みを浮かべて、豆を一粒差し出した。それを受け取って、俺は考えた。さてどうしてやろうか。どうやって少女を楽しませようか。裕福な家に飼われている猫のように豆を転がしてハシャいでみようか。それとも裕福な家で飼われてる腹を空かしていない犬のようにいつまでも豆の匂いを嗅ぎ続けてみようか。いつものように頬いっぱいに詰め込んでみるか。さすがにそれでは笑ってくれないか。この際豆は置いといて、尻尾を噛んだままグルグルと走り廻ろうか。想像しただけでも滑稽だ。よし、それでいこう。
「ねぇどうしたのピーター?」
豆を持ったまま固まっている俺を見て、少女は笑ってくれた。これぐらいで笑ってくれるなら、これから目の前で巻き起こる珍事に、腹を抱えて笑ってくれるかもしれない。
いざ俺が尻尾を噛んでやろうと口を開けると同時に、不吉な足音が耳を掠めた。言葉通り、不吉な足音だ。少女はまだ気づいていない。どうせ気づくことになる。最低だ。最悪だ。最不だ。今この世でもっとも聞きたくなかった音かもしれない。婆さんの盛大な排泄音や、夜な夜な目覚めて寂しさにすすり泣く少女の声よりも、俺の心をかき乱した。
俺はすぐさま食卓から降りて背の低いボロボロの食器棚の隙間に身を隠した。少女に伝えたところで、俺の声は届かない。それよりも、俺の姿を奴に見せるわけにはいかなかった。
「どうしたのピーター?」
少女は急に隠れた俺に至極真っ当な疑問を投げかける。もう足音はボロ小屋の前まで迫っていた。俺は悔しさに歯を食いしばる。鋭く尖った自慢の前歯が軋む。どうして今日なんだ。後一週間。後三日で良かった。こいつが現れるのは。少女が仕事を始めて、誰かとの繋がりを手に入れた後で。どうせならもう現れて欲しくなかった。やっぱりだ。悪い予感は、当たってしまう。
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