第玖話 てんしのつばさ

てんしのつばさ 壱

 菱田さんが家まで送ってくれると言い出して、私はまた心臓を吐き出しそうな気持ちになってしまった。嬉しさと、辛さが同時に襲って来る。


「この間みたいな事もある訳だしね。何、ここから近いし問題無いよ」


 もう少し遠かったら良かったのに、と思い、その思考に嫌悪を抱く。私は今、高揚と矛盾と不快感との塊になっていた。


 菱田さんはさらりと眼帯を外し、色の違う目を晒して、さあ行こうか、と私に言った。


「目、どうされたんですか」

「暗いところはこちらの方が見易いのさ。電気なんかを直に見るとしばらく焼き付いてしまうけれどね」


 面倒なんだか、便利なんだかわからない目だよ、と笑う。私は何だか猫の様だ、と思った。瞳で調節が利かないところは不便そうだけれど、神秘で素敵だ。


 私達は歩き出す。菱田さんは色々と私に気を使って話し掛けてくれた。学校の事だの、家の事だの。そして何を話しても、段々と話が本の事に収束して行くのはいっそ見事ですらあった。

 私が好きな少女向け雑誌の名前を上げると、大人っぽいのが好みだね、と菱田さんは言ってくれた。とても嬉しくて、心の中が生暖かくて不安になった。


「うちではその手のは出してはいないけど、大久保先生も以前、他所よそで女の子向けの物を書かれていたんじゃ無かったっけ。筆名を使ってね」

「へえ」


 あの叔父が、と意外に思ったが、案外しっとりした情を書く人だから、なかなか面白そうでもある。


「ああ、これは僕が言ったのは内緒でね」

「わかりました。こっそりと本棚を探してみます」

「読む気満々だ。先生に怒られてしまうね」


 街灯が遠ざかり、隣の菱田さんの顔が闇に溶けて見えなくなる。手を繋げたら良いのに、と思い、その思考に吐き気がした。私は陶酔と嫌悪との間で忙しく揺れ動き——菱田さんが立ち止まるのより一瞬間気づくのが遅れた。角を曲がった次の街灯の下に、黒い人影がぼんやり立っている事に。


「何だ、あれ」


 菱田さんが警戒した声を出す。そして、左目を押さえて少し苦しそうな声を出した。

 その黒い外套の下には脚が無かった。帽子の下には顔が無かった。あの怪人だ。


「目が……何だ、あれ。あれは……」


 菱田さんが譫言うわごとめいて呟いた。


「お久し振りです。羽多野翠さん」


 怪人は礼儀正しく私に向かって礼をした。


「あれは……天使?」


 菱田さんの呟きに、私は身体に電撃が走った様な気がする。


「見えたんですか」

「一瞬見えて……でも眩しすぎて眩んでしまった。只、大きな翼があった、それは確かだ」

「お連れ様は目がよろしい様で」


 男とも女ともつかない、抑揚の薄い声。


「でも……でも、おかしい。どうしてあいつが天使なの。るきへる様の方でなくて」


 怪人は手を差し伸べるようにこちらに伸ばした。


「何度も邪魔が入りましたが、今度こそあなたを連れて行く」

「嫌だ。絶対に嫌」


 菱田さんが私の前に立ちはだかった。


「翠ちゃん。逃げなさい。僕が時間を稼ぐから——」

「そんな」

「それで、関さんを呼んで来て。あの人なら何か手を打てるかも知れない」


 私は震えながらうなずき、元来た道を戻ろうとし——何かに足首を掴まれて地面に転んだ。


「翠ちゃん!」

「連れて行くと言いました」


 透明の手の感触がある。それはぞわぞわと数を増し、私の身体中を掴み、まさぐるように触れ、手足を引っ張り。


「嫌だ。放してよ! 気持ち悪い!」


 菱田さんが私に向かって手を伸ばすが、中途で何かに引かれる様に止まる。彼は苛立たしげに空中を蹴りつけた。あちらにも透明の魔の手が伸びているのだろう。


「どうぞ私の気持ちを受け取って頂きたい」


 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、私の中に無茶苦茶な、憎悪に近いどす黒い嫌悪が沸き起こった。気持ちが悪い。これが恋慕なら、こんな物要らない。要らない。


 私の中の恋慕も同じなら、こんなにも醜いのなら、要らない。


 私は髪を引っ張られ、仰け反って漸く息をしていた。骨がみしみしと鳴る音が聞こえる様だった。もう直ぐ、私の身体はきっとバラバラにされる。私は滅茶苦茶な悲鳴を上げかけた。その時。


「菱田、しゃがめ」


 何か小さな物が、宙を飛んで行く音がした。悲鳴。私のではない。菱田さんでもない。それは長く空中に伸び、尾を引き、消えた。同時に、何かが地面に落ちるばさりとした音。瞬間、私の身体は急に解放された。私はたたらを踏み、尻餅をつく。


 怪人の姿は無かった。形を失った外套と帽子が、ただ灯りに照らされそこにある。菱田さんがよろけ、踏み止まる。


「一枚で済んだか。良し、上々」


 関さんの声がした。私は何が何だかもうわからなくなってしまって、ポカンと転んだままでいた。


「有難うございます。翠ちゃん、立てるかい」


 菱田さんが手を差し伸べる。私は安堵と共にそれを取ろうとして、震えた。


 私の中に、恋情がある。それはこの人に触れたい、抱き締めたい、自分の物にしたいと思っていて。


 同じだ。私は頰に涙が伝うのを感じた。あの汚らわしい手と私は、同じだ。


 のどから低いうめき声が漏れた。自分自身を内側から殴りつけながら、私は地面に倒れ伏す。


 耳元で、菱田さんの慌てた声が聞こえた。

 御免なさい、と呟き、私は意識を失った。

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