わかれのさきに 参

 叔父が危険を冒してこの光の中に手を差し伸べてくれている。私は、それだけで心が支えられる様な気がした。


 叔父は、菱田さんとは違う。何の力も無い。関さんとも違う。知識も度胸も無い。臆病で少しいい加減な、ただの私の叔父だ。でも、ずっとそばにいてくれた。出来る限りの事をして、私を助けようとしてくれた。今も。


(君はここにいてよろしい)


 叔父はあの時、私を背負いながらそんな事を言ってくれた。


(僕が君をゆるすから、君は好きに嫌な物を嫌だと言えば良い)


 涙が止まった。私はひとりではなかった。私は。



 私は私を肯定する。私は私の恋を肯定する。私は赦されているのだから。



 輪郭が揺らぎそうになった。るきへる様が嬉しげな声を上げる。光が益々強まっていった。熱された硝子の様に溶けそうになりながら、私は続ける。


 そう。あなたのその恋慕も同様に、私は肯定しよう。それはきっと、私の想いと同じ様に、それだけで在ってはいけない様なものなどでは無いのだ。でも。関さんの言葉も蘇る。


(己に素直になって、その心に従えば)


「でも、私は」


 声にならない声で叫びを上げた。


「お断りだわ」


 私は私を肯定する。私はあなたを肯定する。その上で、私はその想いを拒絶する。絶対に、絶対にだ。


 私はあなたの物になぞならない。あなたの指は私に届かない。私の身体も心も、あなたに冒されることは無い。

 


 手首が強く引かれた。急速に感覚が現実へと戻っていく。それは引き戻されたからだけではない。私の拒絶を切欠きっかけに、辺りはざらざらと崩れつつあった。辛うじて繋ぎ止められていた個々の魂が、千切れるような悲鳴を上げて虚空に溶けていくのを私は感じた。


 るきへる様は、崩壊しつつあった。


 講堂の風景が戻ってくる。大きな窓の外は薄闇。叔父が脂汗をかきながら私を腕の中に抱き止めた。光の粒子が宙を舞う。園子さんが、焼けただれた園子さんが、濁った目で私を見た。


 御免なさい。私、あなたの事は好きだったのに。ずっとお友達で居たかったのに。手を伸ばした。黒い手が私の指に触れ、そのまま粉になってぞろぞろと崩れていった。指先には微かに煤の汚れが残った。


 床に、黒い本が軽い音を立てて落ちる。関さんがやって来て、それを拾った。それで終わりだった。核を失ったるきへる様の気配は、講堂からすっかり消え失せていた。



「翠ちゃん、平気かい」


 菱田さんが駆けてくる。私はまだ少しボウッとしながらうなずいた。良かった、と呟いたまま、叔父の手が今更がくがくと震え始める。怖かったのだろう。


「平気かも何も無いだろう、君ら俺が書いた筋と全然違う動きをしやがって」


 関さんが本の表紙を払いながら、忌々いまいましげに言う。


「命拾いが出来て良かったと思えよ。全く」


 それでも、その声は本当に怒っているわけでは無さそうだった。皆にお礼を言わなければならない、と思うが、何だかまだ身体に力が入らない。


 先生が不思議そうな顔で近づいて来た。


「何が何だかわからんが……大丈夫なのかね、羽多野」

「……はい」


 どうにか答える。


「先刻の、あの生徒は……岸か」


 うなずく。先生は深くため息を吐いた。


「まだ居たのだな。可哀想な事をしたとずっと……そうか……」


 園子さん。私は目を閉じた。あなたの事を考えていた人は、ここにもひとりいたのに。


 もう少し、違う形で会いたかったね。


 左様さようなら。

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