わかれのさきに 弐

「翠ちゃん!」


 怪人たちの人垣の向こうから、叔父の声が聞こえた。御免なさい、と思った。私が愚かだった。まだ諦めきれなくて。園子さんとまだ話が通じるかも知れないだなんて思って。それで、態々わざわざこんな危険を招いたのだ。


 遠くから、何かが投擲とうてきされるのが目に入った。菱田さんだ。私はそれが何か知っている。私達の奥の手で、隙を見て使うはずの物だった。


「馬鹿、それはもっと後で――!」


 関さんの怒鳴り声がする。それは黒々した美しい表紙の、一冊の本だった。私と菱田さんが出会った時の、あの図書館の。


(これ、どうも処分が出来なくて。何かに使えたりはしませんか)


 空中で開いた本から、黒い痩せた手が蔦の様に伸びる。それは園子さんに襲いかかり、絡みついた。園子さんは驚いた顔で悲鳴を上げた。


(君は本と見れば目がくもるんだからな……。だが、悪くない。目には目を、怪異には怪異を、だ)


 そう。関さんは燐寸マッチやら瓦斯ガス台やらを使って無理矢理にあの本を脅したのだ。無残な灰になりたくなければ、生きた人ではなく幽霊を、私でなく園子さんを喰らえと。そんな事が出来る物かと半信半疑だったけれど、どうやら可能であった物らしい。


 園子さんは見る間に、あの無残な焼けた姿に変わりつつあった。私を取り巻く無数の怪人たちは、戦慄おののく様に動きを止めた。私は慌てて彼らの隙を掻い潜り、入り口の方へ蹌踉よろめきながら進む。


 そこには、菱田さんに関さんに叔父に、それから仰天した様子の図書の先生が居た。涙がこぼれそうだったけれど、ともかく逃げなければと思い――。


「駄目。行っては駄目よ」


 園子さんがしゃがれた声で言った。瞬間、怪人たちの姿が弾けて消えた。


 そこから空中に、きらきらと輝く光の粒子が飛び散った。

 それはぐにこごり、大きな大きな翼を持った人の形になる。


 ああ、菱田さんが見たと言う翼はこれだ、と思った。何の力もない私の目にも見える程、あまりに強い虹色の光に網膜が焼けつきそうになる。光の人は走り去る私に両腕を差し伸べ、後ろから抱きすくめた。一瞬の出来事だった。逃げる事は叶わなかった。


 私は光に呑まれた。





 気がつくとそこは、頭が痛くなる程明るい様な、同時にどこまでも暗い様な場所で、私はふわふわと浮く様にして揺蕩たゆたっていた。全身が悲しくて痛かった。周りは全て別々の様な、大きなひとつの意思のような物で、それらが上げる悲鳴が私を突き刺すのだった。


 さみしいひとつになりたいかなしいいたいつながっていたいばらばらになりたくないこのままでいたいあなたが必要だわたしはるきへるもうすぐ名前がきえてしまうばらばらになってしまうそんなのはいやだこわいこわいわたしはいのちをつなぎたいそのためにあなたがほしいあなたがほしいあなたがほしいあいしているあいしているはたのみどりさんわたしのなをよんでくださいわたしはるきへる。


 私のたったひとりの愛しい人になって下さい。


 私は歯を食い縛りながら、溶けそうになるのに耐えていた。拒絶するのは簡単だった。最初の時の様に思うがままに罵ってやれば良いのだ。でも、それが出来ない。


 私の外を満たす悲鳴と同じ、汚くて身勝手でどうしようもない恋情が、私の中にあったからだ。


 相手の想いを否定すれば、私は私を否定する事になる。そうすれば、このまま自分が解けて消えてしまいそうだった。

 だからと言って自分の気持ちを肯定するのなら、今度は相手の想いも認める事になる。そうすれば私は取り込まれて終わりだ。この奇妙な世界で、私は身動きが取れずただ負けるのを待つのみだった。


 涙が頬を伝った。どうしてだろう。私はただ、菱田さんが好きなだけなのに。偶々出会って優しくしてくれた、少し不思議で、がむしゃらなあの人が好きなだけなのに。私はそんな私が好きになれない。だからと言って、只嫌いになる事も出来なかった。こうしている内に、私の想いは私を傷つけていく。そうして、やがて私を溶かして殺すのだ。


 一瞬の様な、永劫えいごうの様な時間が流れた。るきへる様の叫びは頭を揺らすほど大きくなっていた。もうじき、きっとそれは私を覆い尽くす。私は耐えきれず耳を塞ごうとした。

 その時。誰かの手が伸びて私の手首を掴んだ。大きくて、温かくて、少し筋張った、男の人の手だった。


 叔父だ。私にはぐにわかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る