わかれのさきに 肆

 それから私はしばらく眠り続けていたらしい。目が覚めたのは夜も半ば頃で、眠たそうに手遊びをしていた弟が驚いた顔で母を呼びに行った。


「学校で倒れたと先生が連れて来て下さったのよ」


 母は心配そうに私の額に手を当てた。ひんやりして、気持ちが良かった。


「どこか悪いのじゃないの。最近大久保の家に良く行っていたのも、帰り道で疲れていたとかそう言う事は無いの」


 大丈夫だから、と言ったのだけど、結局お医者に掛かる事になってしまった。きっと何も見つからなくて変な顔をされると思う。


 また眠りたいよしを伝えると、母は引き下がってくれた。何なら明日は授業を休みなさいな、とも言ってくれる。私は内心少しずるく喜ぶ。


 終わったのだ、と、半ばホッとした様な、半ば信じられない様な気持ちでいた。



 私は、多分母や弟に対して、一連の出来事について語る事は無いのだろう。巡り合わせ、というだけの話だけれど、きちんと語る為には心の底の柔らかいところを相手に見せなければならない気がする。それは、中々に大儀な事だ。


 でも、それと同時に、私は私の事を、恐怖と不安に満ちたこの春の日々の事を、叔父の事を、るきへる様の事を、菱田さんに、関さんに、それから居なくなってしまった園子さんの事を、そして何より私の心についての事を、何らかの形で整理する必要があるのを感じていた。


 寝転んで、右手を伸ばすと、暗い部屋の中にぼんやりと白く見える。園子さんは、日記を付けていた。私は思い出した。あれは酷く悲しい中身だったけれど……。


 園子さんに最後に触れた指先が、ピリピリと痛みを覚えた。


 私は起き上がった。確か、まだ下ろしていない帳面ノートが一冊あった筈だ。電気をこっそりと点け、がさがさと引き出しを探した。果たしてそれは直ぐに見つかった。私は鉛筆を手にする。記録と言う案は良い物の様に感じたが、さて、何から書けば良いのかと頭を捻る。


 だって、事件は終わったけれど、本当には終わっていないのだ。脅威はどうやら去ったらしいけれども、私の気持ちは区切りなく連続している。寝て起きて、それで何も憂いがなくなったかのように考えを纏められる筈もない。私の心の中は未だに濁り続けである。


 そこでハッと気づく。鉛筆を持った右手が、勝手に動いてさらさらと何かを書き始めたのだ。ピリピリと指が痛む。


御免ごめんなさい羽多野翠はたのみどりさんご迷惑をお掛けしました左様さようなら』


 私の物ではない、震える様な筆跡はそれだけ告げて、黙り込んだ。指先の痛みもそこで途絶えた。私は少々ゾッとし、それから何だか悲しく、痛ましくなりながら、るきへる様の残滓ざんしが書かせたと思しき文をじっと見つめていた。弱々しい筆致だ。書かせた物はきっと、ぐに空気に溶ける様にして消えたろう。


 そうして、私は新品の帳面ノートの一枚目をびりりと破り、屑篭くずかごに丸めて捨てた。


「左様なら」


 掛ける言葉は一言で済ませたかった。



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「それで、一晩考えたのだけれど、中々何を書けば良いのか見つからなくて」


 叔父は、休みを貰ったのを良い事に、病院の帰りに態々わざわざ寄って来た姪に(すなわち私に)どうやら呆れている様子だった。


「感心できないよ。学校の時間なのだから」

「叔父さんは高等の頃、授業を休めたら嬉しいと思わなかったの」

「そりゃあ思ったが」

「同じでしょう」


 叔父の妙に正直なところを突き、一先ずは私の一本である。叔父はううん、とうなった。


「兎に角、叔父さんに聞きたくって。こういうつづり方ってどうやって書き始める物かしら」

「別に人に見せる物では無いのだろう。好きに書くのが一番だよ」


 何の参考にもならない事を言いながら、奥の戸棚で何かごそごそとしている。やがて叔父は薄紙の包みを手に戻って来た。


「そら、金平糖をあげよう。これで最後だから味わって食べなさい」


 さらり、とそう多くない数の砂糖の星が私のたなごころに乗せられた。私はそのきらきらした彩りを少し見つめる。


「どうしたね」

「叔父さん」


 私は急に少し不安になって、足元に湧いて来た水を汲んで捨てる様な気持ちでこう言った。


「金平糖が無くっても、私、ここに遊びに来たい」


 事件が終わってしまっても、用事が何も無くなっても、私は叔父に会いに来たかった。私はこの薄く酒精アルコールの匂いの漂う場所が、家の外の秘密の隠れ家の様で、ことほか気に入りだったのだ。


 叔父は少し驚いた様な顔をして瞬きをした。


「そりゃ構わないよ。気が向いた時に来れば良い。僕の仕事が忙しくない時ならね」

有難ありがとう」

「菱田君も時々来る事だしね」

「そう言う事は言わないで」


 本気でにらんだら、本気で怖そうな顔をする。それでも叔父は、鬱々としがちなこの人には珍しく、柔らかな表情で笑っていた。

 あの負ぶさって送ってもらった日も、叔父はこんな顔をしていたのだろうか。


 ふと、水の滴の音が庭先から聞こえた。粒の大きな雨が灰色に曇り始めた空からぽつぽつと落ちて来ていた。やがてそれは数を増し、ざあざあという合唱になる。伸び放題の緑が、色と艶を増した。


(雨が降っていたからね)


 叔父は少し物思いにふける様な顔をした。それだけだったけれど、私は叔父の、恐らくは終わってしまった恋に対して思いを馳せた。それは美しい物なのか、辛い物だったのか、それすらも私にはわからないけれど。


 いつか、この内心の嫌悪を全て振り切る事ができたらいいのに、とそれは思う。そうして、今の叔父の様な顔をして思い出すのだ。一連の事件だとか、園子さんだとか、叔父との会話だとか……菱田さんの事だとかを。


 私と叔父は、しばらくの間無言で庭を眺めていた。雨の滴は草花を揺らし、木々を染めて、やがて色の無い夕暮れを呼んだ。

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