第漆話 もえるまぼろし
もえるまぼろし 壱
学校の図書館は、外の物よりは小さいけれど、私の気に入りの場所のひとつだ。あまり人が居ないし、ぺちゃくちゃしたお喋りも聞こえて来ないし、少し高いところにある窓からきらきらと陽光が
西欧の詩集の翻訳書を手繰る。正直なところ、意味がわかっている訳ではないのだけれど、普段使わない様な美しい言葉の羅列は、私の心を魅力的に
叔父や……菱田さんならこの詩の良さがわかるのだろうか。そんな事を考えた。面倒がりの叔父は兎も角として、菱田さんなら嬉々として解説をしてくれるかも知れない。
ただ、恋だの愛だのを
私は平穏に冷たい気持ちのまま、人生を終えたい。恐怖にも愛にも揺れ動かずに。
あの男の子や怪人には、そんな気持ちは無かったのだろうか。それとも、理性が情動に敗北してしまったのだろうか。後者の可能性を考えるだに、私は
そうやって、気を散らしたりまたのめり込んだりしながら時間を過ごしていると、徐々に陽が傾いて来る。
ぱちぱちと音を立てて、目の前の閲覧席が机ごと燃えていた。席にはひとりの女生徒の後ろ姿がある。その姿は既に炎に巻かれ、焼け焦げているようだった。
いけない、と席を立ち、火を消し止めて相手を助けるべきか、それとも自分ひとりでも逃げるべきか、とにかく先生に知らせるべきか、一瞬間考える。そして、おかしな事に気づいた。火は激しさを増しているけれど、焦げた臭いは何もしない。そして、少しの熱も煙たさもこちらには伝わって来ないのだ。
私は意を決して、炎に近寄った。やはり熱も臭いも無い。思い切って触れてみると、すいと通り抜け、私の手に火傷も
場の記憶。花見の事を思い出す。これは、あの時の群衆に近い現象なのではなかろうか。それなら、今燃えている生徒も。そう言えば、園子さんが何だかそんな話をしていた様な気もする。
私はあの席の生徒を振り返り、そしてギョッとした。今まさに燃えているその姿は、酷い火傷の赤と、炭と化しつつある黒に覆われていた。
それだけでは無い。彼女は笑っていた。どろどろに溶けて引き
瞬間、濁った目がギョロリと私の方を見た気がした。私は
「来て。るきへる様」
私が驚愕して小さく声を上げた時、それに反応するかの様に幻は全てすいと消え失せた。炎も生徒もどこにも無い。ボンヤリと立ち尽くしていると、背後から足音が聞こえた。振り向くと、司書の先生だった。初老の、穏やかな男性だ。
「どうしたね、そろそろ閉館だよ」
「先生、あの、信じて貰えるかわからないけれど、今ここで火事の幻を見ました」
先生は顔を曇らせた。怒られるだろうか、と思ったが、返ってきたのは反対に心配そうな声だった。
「何も無かったかね。それなら
こくりと
「あの火事は……」
「気にしないのが宜しい。早く帰って、ゆっくり休みなさい。忘れるがいいよ」
先生は、沈痛な表情で私を追い出しにかかった。私は慌ててひとつだけ尋ねる。
「先生、先生はるきへる様ってご存知ですか」
「るきへる? いや知らんね」
もしかすると、声まで聞いたのは私だけだったのかも知れない。私は荷物を持つと、図書館を後にした。何もわからなかったるきへる様に、ひとつだけ近付けた気がして、それは少し達成感があった。園子さんは時折せっつくが、講堂にはまだ向かっていない。どうしても未知への恐怖が先に立つのだ。
叔父に話してみよう、と思った。思って、もう暗くなりかけた道を辿った。親には遅くの寄り道を叱られるかも知れないが、そんな心配よりも私には大事な事がある。
玄関前まで辿り着き、さてと戸を叩こうとした時、庭先の方から変に陽気な男性の声がした。
「よう、俺だ。本日無事ご帰還だぜ、大久保」
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